「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より
本章 記紀から解く魏志倭人伝 ②崇神天皇紀/③ 垂仁天皇紀
■ 神明倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼の候補
その卑弥呼と都怒我阿羅斯等の関係
230年に若狭方面(亶州(推定東鯷国))に呉の兵士が来ている。
238年、朝鮮半島の公孫氏(こうそんし)が滅んだ時に卑弥呼はすかさず帯方郡に遣いを送った。
240年に魏の遣いが邪馬台(やまと)国に来ました。原文は、「詣倭國」。つまり、「倭」を訓読みすると
「やまと」に至ると書いている。だから、 「邪馬台」は本来、「やまと」と読む べきだった。
その時代に活躍したのが、『日本書紀』崇神天皇紀に書かれている都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)である。
都怒我阿羅斯等は、最初に穴戸(関門海峡)に来ている。そこであったのが、伊都都比古(いつつひこ)という王で
ある。「いつつひこ」ですよ。『日本書紀』にそう書いている。「いととひこ」などと「都」を「と」などと
読まない。「つ」と読む。これ(都怒我阿羅斯等)も「つぬがあらしと」です。「とぬがあらしと」とは読みません。
だれが、これ(都怒我阿羅斯等)を「とぬがあらしと」と読むんですか?卑弥呼の時代は、伊都国は、「いつこく」
なんです。『日本書紀』の時代も 「都」は「つ」 と読んでいるから、「つ」です。
「角鹿」が改まって、「敦賀」となった。
香春町に「鶴我」さんという方がいらっしゃる。その家に系図のコピーを頂いた。ご先祖は、阿羅斯等です。
都怒我阿羅斯等を先祖とされる方が、香春町にいる。鶴我家は、「都怒我号角鹿」とある。
都怒我阿羅斯等は、どこにいたのか?香春町にある 鶴岡(つるがおか)八幡神社 である。西日本新聞に『新説 日本書紀』を
出した時には、現人神社と書きましたが、訂正します。鶴岡八幡神社である。宮司さんは、鶴我さんである。
都怒我阿羅斯等の子孫の鶴我さんが、今なお鶴岡八幡神社の宮司さんである。
神武天皇が、この地で即位した80年後に大加羅国から都怒我阿羅斯等がやってきてここに住んだ。その子孫の
鶴我さんが宮司をされている。ただの偶然ですかね?
都怒我阿羅斯等は、消えた童女を追って、海を渡って日本国にやってきた。その童女は、比売語曽神となった。
比売語曽神を祀る神社は、豊後の東国東郡姫島村の比売語曽神社。それから、糸島市志摩姫島の姫島神社も
比売語曽神が祀られている可能性がある。大阪市東成区にも比売語曽神社がある。
ところが、『太宰管内誌』という江戸時代の伊藤常足が著した本の中には、香春神社の場所が又比売語曽神社だと
いっている。
香春神社の縁起の一節に「韓地に於ける大姫命の霊は、実に白石の玉と示し給う。しこうして、この三山は、
白石幽妙(ゆうみょう)の神縁なり。けだし、上古より、この山に臨座有り」とあるように、香春岳は、石灰岩の
山だから草木が生えていない時は、真っ白に輝いていた。
比売語曽神社の語曽は、人の名字で村社(むらこそ)とか、社の一文字で「こそ」と読む。そうすれば、
比売語曽神社というのは、比売神社神社ということになる。単純にいえば、比売社(ひめしゃ=ひめこそ)で
良いことになるので、個体でいえば、「比売」である。
田川を中心に筑豊のあちらこちらに比売大神が町られている。この香春神社に祀られている辛国息長大姫大自命
(カラクニオキナガオオヒメオオジニミコト)は、ひょっとして卑弥呼ですよ。辛国から来ている。朝鮮半島の南部までは、
倭(やまと)の国でしたから。それは、明らかです。遺跡(前方後円墳)がいっぱい残っている。
今日出した結論は、新羅から河原に来た神が、都怒我阿羅斯等と卑弥呼の関係ではないだろうか。
卑弥呼は、香春の地で即位し、赤村の大原に遷った可能性が見えてきた。
開花天皇は、香春の天皇。天之日矛は、都怒我阿羅斯等の可能性がある。神功皇后は、なぜ豊国まで攻めてきたのか?
自分の先祖の土地に返り咲こうしてやってきた。