「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より
卑弥呼の時代の豊国と但馬・若狭の関係(田道間守と浦島太郎)
「おらび哭き」と『日本書紀』に書いてある。「おらび哭く」は、九州弁です。『日本書紀』や『萬葉集』には、
九州弁が覗いている。だから、「ヤマト」は九州にあった。
『古事記』に書かれた「非時の香菓」は、干し柿です。
田川とと若狭・但馬の繋がりがわかるように、「丹後半島の古墳群」の地図内に記載された赤字は、すべて古墳が
示されている。
西暦230年に呉の兵士が、やって来ている。この丹波国から兵士として呉に無理やり連れていかれたのが、
初代の浦島太郎だと思われる。拉致事件。浦島太郎は、呉の會稽まで連れていかれる。
呉の會稽には、謝承という人物がいた。謝夫人の伝記に孫権の第一夫人の弟に謝承がいて、その人が『後漢書』を
書いたとある。『三国志』に斐松之が注を付けた本の中に「謝承後漢書曰」というのが、いっぱい出てくる。
だから『三国志 魏志倭人伝』を書いた陳寿という作者は、謝承の『後漢書』を見て、『魏志倭人伝』を書いている。
雄略天皇の時代に5代の孫あたりの浦島太郎が、丹波に帰ってくる。これが、地元に残っている伝承のところが、
銚子山古墳である。
帰ってきた浦島太郎の子孫が、その木に恨みをぶつけたのは、その古墳の主が、自分の先祖を兵士として呉の国に
追いやったからではないか。
その主は、時代的に卑弥呼と同時代であるから都怒我阿羅斯等=天日槍ではないか?
銚子山古墳は、都怒我阿羅斯等の墓か?