「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
[吉山旧記]
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仁徳天皇五十七年(三六九年)、 水沼の皇都 に遷都。同七十八年(三九〇年)が、神功天皇の没年と考えられる。
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『神功皇后紀と魏使倭人伝』 2017年1月29日、大任町講演より
五十五年(三六六)十二月、勅命に随ひ、藤大臣難波高津宮を出て、同年同月廿四日筑後塚崎葦連館に御下着在す。
帝名残をしみ、老臣は寔に 天に候ては月也 と仰せられしより、後代 高良宮を月神 と云ふ。
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『神武と卑弥呼と神功 邪馬臺国年表/大善寺玉垂宮と久留米の古代史』より
『吉山旧記』は、江戸時代に入る直前、関ヶ原の戦い(1600年)かその翌年に元の宮司の家柄の吉山家が、巻物だった本を冊子本に摸し替えた時の書写ということである。この吉山旧記は、別名薬師寺旧記ともいわれる。
この大善寺玉垂宮の宮司の家柄は、代々代わっていて、吉山家が就いたり薬師寺家が就いたりして、現在は、隅家が就いている。
吉山旧記の事を別名、薬師寺旧記というのは、薬師寺を名乗られた時の宮司が吉山家と決別して、現在は、鹿嶋市に居られる。その原本は、そこの鹿嶋市にあり、ここ大善寺玉垂宮には無い。
薬師寺のいう名前であるが、ここ大善寺玉垂宮を訪れた時に本殿の裏に「塞の神」が祀られているそこの前に、昔の五重塔か三重塔かは不明だが、半分か三分の一に割れた塔の心礎と思われる石が置いてあった。その石は、鬼夜保存会会長をされていた光山利雄さんが近くの夜明の田んぼから拾って持ってきたと言われた。
心礎らしいその石には柱の跡と思われる円の形が綺麗に描かれれいる。そこに九州古代史の会の兼川晋さんが新聞紙を当てて周辺を丁寧になぞって綺麗に再現した。
その新聞紙を室伏志畔が奈良に持って行って、薬師寺 東塔の心礎に当てた。その時、一緒に同行していた大芝英雄さんの名言が「合うでー」。寸法がピッタリ合った。室伏志畔が筑紫(福岡県)にあったお寺が、奈良・京都のお寺に移築されたとしているその考えが成り立つ。
これが福岡県内の廃寺であり、福岡県には廃寺が多すぎる。廃寺はおかしい。奈良時代は、仏教は国の教えとしていた。この筑豊の廃寺が、 大和王朝の東遷 の根拠の一つである。
筑紫大地震の後、天武天皇が恐れをなして、天皇家から庶民に至るまで、現在の奈良県(大和)へ大引越しをした。倭民族の大移動である。
その廃寺の時にこの筑豊にあった寺院を解体して、新しい都(奈良・京都)へ持っていく。この廃寺跡からは、木材が一辺も出土されていない。出土されるのは礎石と瓦だけである。
つまり、礎石と瓦は重たくて運べなかったので、木材のみを運んで、新たに心礎を据えて、瓦を新しく焼いて再建(移築)した。法隆寺もこの廃寺から移築された。有名なお寺であればあるほど移築されたようである。
天武天皇の時代にその廃寺の時の薬師寺の話が、吉山旧記の別のところに載せられている。本当に現奈良市にある薬師寺が久留米の土地から移築された薬師寺であるならば、薬師寺の仏様、薬師三尊像は、吉山旧記の記録によれば、当時の住職が唐の国から持ってきた仏様である。薬師寺のある薬師三尊像は唐の時代の仏像という事になる。という事は、日本でも国宝であるが、中国においても第一級の国宝になる。
そのお寺が移される時に当時の薬師寺の住職だった方(親子二人)が抗議の自殺をする。何故自殺したのか判らなかったが、どうやらお寺を無理やり奪われた為らしい。彼らはその事を忘れない為に「吉山」と姓をわざわざ「薬師寺」という姓に改めた事も残されている。その廃寺における悲劇の内容が、吉山旧記に書かれている。それくらいに吉山旧記に記されている内容は、すごい歴史の一コマである。