「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 紀氏王権(倭五王:讃、珍、濟、興、武)の成立

[吉山旧記]

第六代 葦連
 仁徳天皇五十四年肥前水上桜桃沈(ゆすらちん)(りん)発起し、異国へ内通し、悪徒を集め諸所乱妨。
 同帝五十五年(三六六)十二月、勅命に随ひ、 藤大臣難波高津宮を出て、同年同月廿四日筑後塚崎葦連館に御下着在す。
 帝名残をしみ、老臣は寔に天に候ては月也と仰せられしより、後代高良宮月神と云ふ
 沈輪御退治の御評議遊ばされ、其の時葦連云はく、沈輪は三方河池を構へ、一方は口なり
 我一度攻むるといへとも兵卒を討つとも沈輪を見ず、然れども遁るべき地なし、之に依りて随兵を責めて之を問はば、水中をくくると云ふ、今朝賊増兵し勢十倍すと云ふ。

*1

 ②項に出てくる「藤大臣」は、『宋史 日本伝』 王年代紀 紀武内宿禰 であり、 倭五王 の前の(とう) にあたる。

 大臣秘計をめぐらし、同帝五十六年正月七日、朝賊残らず退治し給ふ。
 夜に入りて沈輪行衛しれず、大臣四方に命じ大池を囲み、棒を以て其の岸を打ち、松明を照らし鉾を以て水中を探り、沈輪遁るる処なく、棒を奪取、葦連目当てに打って掛かる。
 用意の刃を抜いて沈輪の首を打ち落とし給ふ。
 其の首虚空に舞い上がる、大臣八目矢を持って討ち落とし、茅を集め焼き給ふ。
 是鬼会の始めと云ふ。其の後筑紫安穏なり

 

第八代 清麿
 藤大臣、筑紫御政事の為当国高村美奈尾の末なりへ御宮造営す則ち大善寺なり西南は入江海、北方は大川、御材木美奈尾より出る今の高良山なり。
 深山にて、道もわかたず、人夫恐れをなし入る事を得ず、大臣自ら道を開き給ふ、其の後近民、山中より夜な夜な大なる火出ると云ふ。
 大臣異国追討の節、御祈念の一仏を此の山中へ安置し給ひしより其の火見えずと云ふ。
 仁徳天皇五十七年御殿成就す。時の人民筑紫大臣と称す。
 同七十八年三月十一日薨去、御在す御年、神功皇后異国御追討より百九十余歳、御遺骸を塚崎へ奉陵と云ふ。
 其の後、勅使御下向、高良玉垂宮の諡を給ふ。
(『久留米市史』第七巻 吉山旧記(抜粋)
 より抄録、番号・読み下し・傍線は筆者 )

*2

 仁徳天皇五十七年(三六九年)、 水沼の皇都 に遷都。同七十八年(三九〇年)が、神功天皇の没年と考えられる。

 『神功皇后紀と魏使倭人伝』 2017年1月29日、大任町講演より

 五十五年(三六六)十二月、勅命に随ひ、藤大臣難波高津宮を出て、同年同月廿四日筑後塚崎葦連館に御下着在す。
 名残をしみ、老臣は寔に 天に候ては月也 と仰せられしより、後代 高良宮を月神 と云ふ。

*3

 ここでの「」は、神功皇后らしい。神功皇后が、名残惜しんだ。

*4 

 兄弟統治についての記述が、 『隋書』俀國  にあります。

 『神武と卑弥呼と神功 邪馬臺国年表/大善寺玉垂宮と久留米の古代史』より

 『吉山旧記』は、江戸時代に入る直前、関ヶ原の戦い(1600年)かその翌年に元の宮司の家柄の吉山家が、巻物だった本を冊子本に摸し替えた時の書写ということである。この吉山旧記は、別名薬師寺旧記ともいわれる。
 この大善寺玉垂宮の宮司の家柄は、代々代わっていて、吉山家が就いたり薬師寺家が就いたりして、現在は、(くま)が就いている。
 吉山旧記の事を別名、薬師寺旧記というのは、薬師寺を名乗られた時の宮司が吉山家と決別して、現在は、鹿嶋市に居られる。その原本は、そこの鹿嶋市にあり、ここ大善寺玉垂宮には無い。

 薬師寺のいう名前であるが、ここ大善寺玉垂宮を訪れた時に本殿の裏に「塞の神」が祀られているそこの前に、昔の五重塔か三重塔かは不明だが、半分か三分の一に割れた塔の心礎と思われる石が置いてあった。その石は、鬼夜保存会会長をされていた光山利雄さんが近くの夜明の田んぼから拾って持ってきたと言われた。
 心礎らしいその石には柱の跡と思われる円の形が綺麗に描かれれいる。そこに九州古代史の会の兼川晋さんが新聞紙を当てて周辺を丁寧になぞって綺麗に再現した。
 その新聞紙を室伏志畔が奈良に持って行って、薬師寺 東塔の心礎に当てた。その時、一緒に同行していた大芝英雄さんの名言が「合うでー」。寸法がピッタリ合った。室伏志畔が筑紫(福岡県)にあったお寺が、奈良・京都のお寺に移築されたとしているその考えが成り立つ。

 これが福岡県内の廃寺であり、福岡県には廃寺が多すぎる。廃寺はおかしい。奈良時代は、仏教は国の教えとしていた。この筑豊の廃寺が、 大和王朝の東遷 の根拠の一つである。
 筑紫大地震の後、天武天皇が恐れをなして、天皇家から庶民に至るまで、現在の奈良県(大和)へ大引越しをした。倭民族の大移動である。

 その廃寺の時にこの筑豊にあった寺院を解体して、新しい都(奈良・京都)へ持っていく。この廃寺跡からは、木材が一辺も出土されていない。出土されるのは礎石と瓦だけである。
 つまり、礎石と瓦は重たくて運べなかったので、木材のみを運んで、新たに心礎を据えて、瓦を新しく焼いて再建(移築)した。法隆寺もこの廃寺から移築された。有名なお寺であればあるほど移築されたようである。   

 天武天皇の時代にその廃寺の時の薬師寺の話が、吉山旧記の別のところに載せられている。本当に現奈良市にある薬師寺が久留米の土地から移築された薬師寺であるならば、薬師寺の仏様、薬師三尊像は、吉山旧記の記録によれば、当時の住職が唐の国から持ってきた仏様である。薬師寺のある薬師三尊像は唐の時代の仏像という事になる。という事は、日本でも国宝であるが、中国においても第一級の国宝になる。
 そのお寺が移される時に当時の薬師寺の住職だった方(親子二人)が抗議の自殺をする。何故自殺したのか判らなかったが、どうやらお寺を無理やり奪われた為らしい。彼らはその事を忘れない為に「吉山」と姓をわざわざ「薬師寺」という姓に改めた事も残されている。その廃寺における悲劇の内容が、吉山旧記に書かれている。それくらいに吉山旧記に記されている内容は、すごい歴史の一コマである。