「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宮若市・鞍手郡の(いにしえ)

※ 宮若市・鞍手郡の古(いにしえ)
 (令和5年9月30日(土) 宮若市・鞍手郡ボランティア連絡協議会 於:小竹町総合社会福祉センター)

(4)神武東征(筑紫から菟狹に至り、英彦山を越え田川へ)

● 神武天皇饒速日尊が建国した倭奴国を滅ぼす ・・・ 神武東征

第一次東征 鉄を求めて
  日向筑紫豊国
 竈山の高千穂の宮において、三年間再軍備。
一一五年 春三月 遠賀湾を遡り、夏四月、長髄彦軍
 と交戦、五瀬命負傷し、敗戦。博多湾住吉神社近く
 の草香津(大濠公園)に帰還。
  五月 五瀬命死去、竈山(大宰府宝満山)に葬る。
一一四年 磐余、冬十月 諸兄・諸皇子らと第一次
 東征を開始。
  十一月 岡水門に至り、軍備を整える。
 この頃から韓半島・倭奴国乱れ、以後、漢への遣使
 が途絶する。
一〇七年 倭国王帥升、
 後漢の安帝に生口

 食肉用奴隷)一六〇
 人を献ず。
  この倭国王は天孫
 本紀に云う天忍人命か。
後八三年 お佐賀の大
 室屋(吉野ヶ里遺跡)
 陥落
鸕鷀草葺不合
 尊
磐余の佐賀平
 野攻略戦。
お佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)

※4-1

 神武東征に()つ時の年齢は日本書紀によれば「及卌五」とある。

 

神武東征前史
初期福永説補遺

・神武即位前紀戊午(前662)年冬十月癸巳朔八十梟帥を討つ
                十有二月癸巳朔、長髄彦を撃つ。
・景行天皇十二年 十二月癸巳朔、議討熊襲八十梟帥を討つ

『日本書紀暦日原典』(景行天皇12年)

             

下図:『日本書紀暦日原典』内田正男編著(雄山閣)

 

神武東征前史
お佐賀の大室屋
 神武前紀戊午年((一一八年))冬十月、八十梟帥征討戦の歌謡の新解釈
 於佐箇廼 於朋務露夜珥 比瑳破而 異離烏利毛 比瑳破而 枳伊離烏利毛 瀰志 倶梅能固邏餓 勾騖都都伊 異志々伊毛智 于智弖之夜莽務
 お佐嘉の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入
り居りとも みつ
みつし 来目の子
らが 頭椎い 石
椎いもち 撃ちて
し止まむ
【口訳】
 お佐賀の大室屋に、人が多勢入っていようとも、人が多勢来て入っていようとも、勢いの強い来目の者たちが、頭椎・石椎でもって撃ち殺してしまおう。
 (1999年)
島根県出土の福田型銅鐸
島根県出土の福田型銅鐸

吉野ケ里遺跡出土銅鐸と同じ鋳型で
つくられた島根県出土の福田型銅鐸

 

神武東征謀議
筑紫高千穗の宮
 (かむ)(やまと)伊波禮毘古(いはれびこ)の命と、其の伊呂兄(いろせ)五瀬(いつせ)の命と二た柱、高千穗の宮()しまして(はか)りて、「(いず)()()しまさば、平けく天の下の(まつりごと)を聞こし()さん。(なほ)(ひむがし)に行かんと思ふ」と云ひて、即ち()(むき)より()ちて筑紫(ちくし)幸御(いでま)しき。
                (『古事記』神武天皇)
西洲(日向國)と豐葦原瑞穗國(倭奴国)

西洲
(日向國)

筑紫

日向

豐葦原瑞穗國
 (倭奴國)

 神武は、西洲(にしのくに)(筑紫)から豐葦原瑞穂國(倭奴國)へ東征した。

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

二 神武天皇 高千穂宮に於ける東征御前會議

二 神武天皇 高千穂宮に於ける東征御前會議

 

神武第一次東征
太歳甲寅

此所より宗像三神を遥拝し給ふ

筑前東部

Ⓒ邪馬台国の会

 第一次神武東征では、筑紫より玄海灘を沿いに崗水門(をかのみなと)岡田宮)に至り、そこから古遠賀湾を遡り、交戦して敗れて草香津(下図の福岡市の草香江)に帰還した。

※4-2

 『後漢書』に「依山㠀居」とあるように物部氏は、遠賀湾沿岸の山や島に居住した。

※4-3

 『筑前國風土記』に宗像三女神は、最初に崎戸山(六ヶ岳)に天降ったとある。

 

神武第一次東征
太歳甲寅
熊野神社(旧粕屋郡古賀町大字莚内(むしろうち)字城之谷)
 創立社傳に曰く、神武天皇東征の時御船を海濱につなぎ此山に登らせ給ひ、石上に御腰をかけ給ふ、其石を御腰石と云ふ(後略)
熊野神社
神武天皇の御腰掛け石
神武天皇の
  御腰掛け石

 

神武第一次東征
一一五
 孔舎衛坂の敗戦によって、神武は「日に向って」すなわち東に向って征討することの非をさとり、「神策」を立てる。一旦、筑紫に帰還し、軍備を再編成し、中洲の皇都を、次は「日を背にして」すなわち東に大迂回し敵を西側に置いて戦おうとの、第二次東征を企てたのである。
 従来説のように、九州から出て大阪の難波に上陸して敗戦したとすると、その後の神武には帰還する場所が無く、軍備も再編成する機会がない。それなのに、兵を補充できなかったはずの神武軍は、後段において敵の大軍と堂々と会戦さえしているのである。矛盾というより他はない。
 いわゆる奈良県「大和の国」に神武は断じて東征していない。
 したがって、「乃ち軍を引きて還る。虜も亦敢て逼まらず。却りて草香之津に至り、盾を植ゑて雄誥爲す。因りて改め其の津を號けて盾津と曰ふ。」は、リアルな記述であり、この「草香之津」は、福岡市住吉神社に伝わる古図に鎌倉期まで「草香江」のあったことが示してあり、そこを指していよう。
 神武は正しく「草香之津」に「軍を引きて還っ」たのである。

 第一次神武東征では、筑紫より玄海灘を沿いに崗水門(をかのみなと)(岡田宮)に至り、そこから古遠賀湾を遡り、交戦して敗れて草香津(下図の福岡市の草香江)に帰還した。

 

神武第一次東征
博多古図(八百年前)「草香江」
博多古図(八百年前)「草香江」

※4-4

 『日本書紀』に「却至草香之津」とある場所が、上図に描かれている「草香江」である。

 

神武第一次東征
 時間的な整序を考察する。
 甲寅(一一四年)冬十月に糸島水道を発進。十一月に岡水門に入る。
 軍備を整えて、乙卯(一一五年)の春三月、古遠賀湾を遡上る。
 夏四月、長髄彦軍と激突、五瀬命負傷、敗北、草香津に帰還す。
 五月、五瀬命死去、竈山(宝満山)に葬る。
 三年積る間に、舟檝(ふね)(そろ)へて、兵食を蓄へて、将に一たび挙げて天下を平けむと欲す。
 吉備の國高嶋宮ではなく、竈山の高千穂の宮に、雌伏三年。戊午(一一八年)春、神武は再び東征に趣いたようだ。
 私の分析した、第二次東征発向である。吉備の国の記述はすこぶる怪しいが、三年間にわたる再軍備は史実と考えられ、次に繋がる。
神武天皇皇都を中州に定めんと途に上らせ給ふに及び天皇は諸皇子と共に此の山に登り給ひて、躬親から御胸鏡を榊木の枝に取り掛け嚴の太玉串を刺立て建國の大偉業を告申して御加護を御祈り給ひぬ。
※ 神武第二次東征の祈願

 第一次神武東征は、失敗に終わる。

 

求菩提山縁起
 其の濫觴(らんしょう)を考ふるに最初人皇嶽と号す。
 (中略)
 或ひと説きて曰く、「天地開闢(かいびゃく)し、神代已に終る。
 神武天皇鋒端(ほうたん)を揺し、中国を平らげ、威奴の邪神(はら)はしめ、九州(おさ)めんとす。
 此の嶺に到りて天神地祇を斎祭(まつ)り、(つつし)みて(りょう)()を立てし所を狹野嶽と曰ふ。天皇の尊号の故なり。」云々
(訓読及び傍線は福永)
求菩提山 Ⓒ豊前市観光協会
求菩提山八天狗像(頭八咫烏)

頭八咫烏

求菩提山八天狗像

求菩提山

 『求菩提(くぼて)山縁起』にあるように第二次神武東征では、求菩提山にいた八咫烏一族を味方につけ、威奴(ゐぬ)の邪神(倭奴(いぬ)國の一族)を滅ぼしていく。

 

ヤタガラス伝説_発祥は英彦山

 神武天皇軍は、英彦山から添田町に降りるのではなく、尾根伝いに南に進み川崎町へ入って行った。

 

第二次東征
菟田縣の血戦
  七月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。
  八月、菟田の穿(うかちの)(むら)(川崎町)に至る。菟田
  縣
の血戦に勝つ。
  九月、菟田川の朝原に顕齋をなす。
(日本書紀)
中元寺川・甌穴群

菟田の穿(うかちの)(むら)
川崎町
天然記念物 中元寺川・甌穴

 

川崎町史より「天降神社周辺の地図」
第二次東征
菟田穿邑(天降神社)
村名小字調書(川崎町・木城村)
 彦山から八咫烏一族の道案内によって、尾根伝いに菟田穿邑(川崎町)に入る。
 旧木城村に「大王」の字名が遺る。

旧木城村

彦山から

 

菟田下縣(菟田穿邑)
地図「天降神社(菟田下縣)」

菟田穿邑

 神武天皇軍は、彦山から西に尾根伝いに木城村へ。そこから中元寺川沿いに北上し、菟田穿邑(天降神社)へ。

 

川崎町の神武天皇
天降神社