倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集⑪ 巻第一 40番〜84番
 (令和5年7月26日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 「万葉集」巻第一 50・51番、52・53番  (二つの藤原京が詠まれている)

 「伊勢國時、(とどまれる)(みやこ)柿本朝臣人麻呂作歌」から天智天皇に仕えた柿本人麻呂が、留まった(みやこ)を考える。その京から天智天皇が伊勢國に行幸されている。その伊勢國は、苅田町辺りであろうという事は、40〜44番歌のページで説明した。
 50番歌の「藤原宮之役民作歌」の左注には、「朱鳥七年癸巳(みずのとみ)」とあり、この西暦692年は持統天皇の時代に当り、天智天皇に仕えた柿本人麻呂が、留まった京は、この藤原宮ではない。

 藤原京は、何処?
 藤原宮之役民作歌
 八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曾 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 眞木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 曰之御門尓 不知國 依巨勢道從 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 眞木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神隨尓有之

50

 右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地。八年甲午春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮

 この50番歌で詠まれている宮を造営した土地について考察する。

 藤原京は、何処?
 藤原宮の役民の作る歌
 やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤原がうへに ()す國を 見めし給はむと 都宮(みあらか)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなべに 天地(あめつち)も 寄りてあれこそ 石走る 淡海の國の 衣手の 田上(たなかみ)山の 眞木さく ()嬬手(つまで)を もののふの 八十氏河に 玉藻なす 浮かべ流せれ ()を取ると さわく御民(みたみ)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きゐて わが作る 日の御門に 知らぬ國 寄し巨勢道(こせぢ)より わが國は 常世(とこよ)にならむ (ふみ)負へる (あや)しき龜も 新代(あらたよ)と 泉の河に 持ち越せる 眞木の嬬手を 百足らず (いかだ)に作り (のぼ)すらむ (いそは)く見れば (かむ)ながらならし
 右、日本紀に曰はく、朱鳥七年癸巳の秋八月、藤原宮の地に(いでま)す。八年甲午の春正月、藤原宮に幸す。冬十二月庚戌の朔の乙卯、藤原宮に遷居(うつ)るといへり。
 藤原京は、何処?
〔大意〕
 大八洲をお治めになるわが大王、高天原をお照らしになる日の御子が、藤原の地で国をお治めになろうと、御殿を高く営まれようと、神にましますままにお思いになるにつれて、天地も相寄ってお仕えしているので、石走る淡海の国の田上山の檜の木の角材を、物部の八十氏河に流して居るから、それを取ろうと忙しく立ち働く百姓(おほみたから)も、家をも忘れ己が身をも全く忘れて、鴨のように水に浮いていて、自分たちの作る宮殿に、未だ従わない国を帰服させるその巨勢道から、わが国が永久不変の国になるという不思議な図を負った亀も新時代だとて出づる泉川に持って来た真木の角材を、(百足らず)筏に作って川をさかのぼらせているのであろう。
 その仕事に励む百姓(おほみたから)の様子を見ると、実に大王は神そのままでいらせられるようだ。
 右の歌は、勿論、「藤原宮を造営する役民の作る歌」と解されている。藤原京は、六九四年の遷都から七一〇年の平城京遷都まで、持統・文武・元明天皇の三代にわたって栄えた都である。現在の橿原市に所在したが、七一一年に焼失し、廃墟となった。

 福永説は、「高天原」は英彦山。「石走る淡海の国」は、古遠賀湾。「八十氏河」は、金辺川であるから英彦山が見える土地。古遠賀湾に面して、また金辺川が流れている処に京を造営している。
 また、この50番歌で詠われている中身は、宇治天皇(真実の仁徳天皇)の時、仁徳紀に書かれている「十年冬十月、甫科課役、以構造宮室。於是、百姓之不領、而扶老携幼、運材負簣。不日夜、竭力競作。」の記事がモチーフであると考えている。

 藤原京は、何処?
 役民とは、日本古典文学大系頭注に、「宮殿造営の労役に召された民。当時人民は労役の義務を課せられていた。」とある。さらに、「この歌は人民には作れそうもない歌なので、知識人の作だろうと言われ、人麿の歌だという説もある。」と注されている。
 確かに、知識人が役民に仮託して詠んだ歌であることは疑いない。それによって、この歌は畢竟(ひっきょう)、何を歌いたかったのだろうか。それは、「忙しく立ち働く百姓(おほみたから)も、家をも忘れ己が身をも全く忘れ」るくらいに、自ら進んで働く人民に仮託して「聖帝の御世」を褒め称えることにあるはずだ。その百姓(おほみたから)の働きぶりは、宇治天皇の御世の「老人を助け幼子の手を携え、一家総出で材木を運びモッコを担いだ。昼夜を問わず、力を尽くして競って造った」役民と寸分(たが)わない。
 つまり、「藤原宮之役民作歌」の内実は、宇治天皇の新宮殿造営記事と酷似する。

 次の51番歌の題詞には、天智天皇の皇子である志貴皇子の歌に「明日香宮より藤原宮へ遷った後」とある。この明日香宮は、香春町にあった宇治宮であろう。
 その宇治宮については、日本書紀の仁徳紀に「既而興宮室於菟道而居之。」と天智紀の「四年冬十月己亥朔己酉、大閲菟道」と出てくる。この宮は、金辺川沿いにあり、天智天皇が伊勢國(苅田町)へ行幸された時に柿本人麻呂が、残った宮はこの宇治宮である。
 志貴皇子は、下記の地図に示すように香春町(明日香宮)から行橋市の福原長者遺跡(藤原宮)へ遷った後に詠まれた歌である。

 藤原京は、何処?
 明日香宮居藤原宮之後、志貴皇子御作歌
 采女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久

51

 采女(うねめ)の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
 いつもは采女のはなやかな袖を吹き返していた明日香の風も、
都遷りによ
って、都が
遠くなりさ
びれてしま
ったので、
今はなんの
かいもなく
吹いている。
「地図(豊前の都の位置)」

 52番、53番に、「藤原宮の御井(みゐ)の歌」がある。

 近畿遷都後の藤原京
 藤原宮御井歌
 八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日經乃 大御門尓 春山跡  之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳高之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宣名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水

52

 短歌
 藤原之 大宮都加倍 安礼衝哉 處女之友者 乏吉呂賀聞

53

 右歌、作者未
 近畿遷都後の藤原京
 藤原宮の御井(みゐ)の歌
 やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤井が原に 大御門(おほみかど) 始めたまひて 埴安(はにやす)の 堤の上に あり立たし ()したまへば 大和の (あを)香具(かぐ)(やま)は 日の(たて)の 大御門に 春山と ()みさび立てり 畝傍の この瑞山(みづやま)は 日の(よこ)の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山(あをすがやま)は 背面(そとも)の 大御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや (あめ)御蔭(みかげ) (あめ)知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井(みゐ)のま()(みづ)
 短歌
 藤原の 大宮仕へ ()れ付くや 娘子がともは (とも)しきろかも
 右の歌は、作者いまだ(つはひ)らかならず。
 近畿遷都後の藤原京
 我が大君、日の御子がここ藤原の地に、大宮を造築された。埴安の池の堤の上にお立ちになってご覧になると、ここ大和の国青々とした香具山は日差しを受けるの御門の向かいに、春山のまま木々を茂らせている。畝傍の瑞々しい山は、西の御門の向かいに、佳い山らしさを見せている。青菅に包まれた耳成山の御門の向かいに、美しく神々しくそびえ立っている。その名も「()し」の吉野の山の御門から雲の彼方遠くにそびえる。立派な山々に囲まれたこの地で、高々と天の影になり、太陽の影になる大宮。その宮を支える命の水ぞ、永久に湧き出よ、御井のま清水よ。
 藤原の大宮に仕えるよう生まれついた乙女たち。ああ羨ましいなあ。
「藤原京・大極殿跡」

 歌にある「埴安(はにやす)の池」は、奈良県にある天香具山の麓にある池である。次の「青々とした香具山」とあるのも、福永説の天香山は、香春三ノ岳で、持統天皇の時代(平安時代の最澄の頃まで)は、石灰岩がむき出しの真っ白い山であり青々とした山(青香具山)ではない。そして、青香具山は、宮殿の東の方角にある。
 さらに「畝傍の瑞々しい山」と詠まれているのも真っ白い石灰岩の香春一ノ岳では当てはまらない。そして、この山は、宮殿の西の方角にあると詠まれている。福永説でいう倭三山(天香山、耳成山、畝尾山)は、香春岳であり三連山の山であるから宮殿からの方角が、東とか西とかにはならないし、北も南も無い。
 さらにこの歌では、「耳成山は北の御門」、「吉野の山は南の御門」と詠まれている。

 52番、53番の「藤原宮の御井(みゐ)の歌」は、下記の通りの「近畿遷都後の藤原京」が詠まれている。
   ・藤原宮の北:耳成山
        東:香久山
        西:畝傍山
        遥か南の方:吉野
というのは、現在の奈良県の藤原宮との位置関係で詠まれている。これは、8世紀後半(西暦784年)に福岡県の桂川町にあった平城京から近畿の長岡京に遷都した。それと同様に藤原宮も行橋市の福原長者原遺跡から奈良県桜井市に遷された。宮殿が移築された。
 本当の藤原宮の規模は、下記の藤原京条坊復元図にある赤点線の範囲であるが、南北は一条北大路から十条大路。東西は、東五坊大路から西五坊大路の範囲で描かれているが、京域の中に三輪山等の神の山が含まれることはありえない。

 近畿遷都後の藤原京
「藤原京条坊復元図」

 三輪山
(一輪の山)

 近畿遷都の藤原京

 近畿に遷都する前の藤原京は、下記の行橋市の地図にある福原長者原遺跡にあった。

「」
福原長者原遺跡(Ⅰ期大溝とⅡ期大溝)
「写真(遺構)」

 福原長者原遺跡は、後に福原長者原官衙(かんが)遺跡とさせられたが、地方の役所跡の遺跡ではない。明らかに京師の遺跡である。
 発掘調査の結果、少し小さ目のⅠ期遺構とその外側にあるⅡ期遺構が見つかっている。ところが、この福原長者原遺からは、屋根瓦が1枚も出土されていない。だから、緑線で囲まれたⅠ期遺構が「飛鳥板葺宮」跡だろうと考えている。
 その外側にある赤線で囲まれたⅡ期遺構が、「藤原宮」跡だろうと考えている。何故かというと、この赤線で囲まれたⅡ期遺構の大きさは、奈良県の藤原京の赤点線の範囲で示す大きさと寸分の違いも無く同じ大きさである。
 この福原長者原遺跡を発掘調査された国立歴史民俗博物館の林部均教授が、発掘調査後に行橋市で開催されたシンポジウムの中で藤原宮だと思ったと話されている。この福原長者原遺跡に建っていた宮殿唐の建物が解体されて移築されて、現在の奈良県の藤原宮跡に建てられた。

 福原長者原遺跡 平面図 

「遺構の平図面」
緑線 : Ⅰ期の遺構(飛鳥板葺宮)
赤線 : Ⅱ期の遺構(藤原宮)

 仁徳天皇の時代に役民が造る歌が50番歌の「藤原宮之役民作歌」で、その隣に、52・53番の「藤原宮の御井(みゐ)の歌」がある。万葉集の巻第一は、謎だらけである。数百年の開きがある歌が並んでいる。52・53番歌は、近畿遷都後に遷された藤原宮が詠まれている。
 日本書紀に書かれている藤原宮と続日本紀に書かれている藤原宮は、同じ場所の宮ではない。福永説の天香山は香春三ノ岳であり、平安時代の最澄の時代まで石灰岩剥き出しの純白の山であったから、「青香具山」と詠われるのは馴染まないのである。
 つまり、『万葉集』巻第一の中の隣同士で、「近畿遷都の藤原宮」と「近畿遷都の藤原宮」が詠われていた。