倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集⑪ 巻第一 40番〜84番
 (令和5年7月26日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 「万葉集」巻第一 雑歌 78番〜80番  (寧樂宮は、嘉穂郡桂川町にあった)

 「藤原京から寧楽京への遷都」の歌が、巻第一の終わりに出てくる。78番歌の題詞に「和銅三年」とあり、西暦710年に平城京に遷都した年である。

 藤原京から寧楽(なら)京への遷都
 和銅三年庚戌春二月、従藤原宮于寧樂宮時、御輿停長屋原逈望古郷作歌
(一書云太上天皇御製)
 飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武
(一云、君之當乎 不見而香毛安良牟)

78

 ()(とり)明日香(あすか)の里を 置きて()なば 君があたりは 見えずかもあらむ
(一に云ふ、君があたりを 見ずてかもあらむ)
 明日香の里を置いて去っていったなら、あなたが住んでいるあたりは見えなくなってしまうのだろうか。

*1

太上天皇』は、持統天皇。

 藤原京から寧楽(なら)京への遷都
 或本、従藤原京于寧樂宮時歌
 天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎擇 隠國乃 泊瀬乃川尓 舼浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之水凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手 来座多公与 吾毛通武

79

 大君の (みこと)(かしこ)(にき)びにし 家を置き こもりくの 泊瀬(はつせ)の川に 舟()けて 我が行く川の 川隈(かはくま)の 八十隈おちず (よろづ)たび かへり見しつつ 玉桙(たまほこ)の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜(あさづくよ) さやかに見れば (たえ)の穂に 夜の霜降り 岩床と 川の水凝(ひこご)り 寒き夜を (やす)むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに ()ませ大君よ 我れも通はむ
 藤原京から寧楽(なら)京への遷都
 大君の仰せをもったいなくも賜り、慣れ親しんだ我が家を後にし、初瀬川に舟を浮かべる。初瀬川にはいくつもの曲がり角があり、たくさんの曲がり角にさしかかるたびに振り返って、我が家の方を見て、進んでいく内に日が暮れ、やがて奈良の都の佐保川に至る。仮寝にはおった布の上から明け方の月夜が清らかに見える。真っ白な霜が降り、岩床のように川の水が凝り固まっているように見える。そんな寒い夜でも休むことなく、通い続けて新しい宮を造りあげました。いついつまでもお住みになられるよう、いらっしゃいませ、大君様。私もここに通って参ります。
 反歌
 青丹吉 寧樂乃家尓者 万代尓 吾母将通 忘跡念勿

80

 右歌、作主未詳(作主いまだ(つばひ)らかならず)。
 あをによし 奈良の家には 万代(よろづよ)に 我れも通はむ 忘ると思ふな
 藤原京から寧楽(なら)京への遷都
 あをによし、奈良の家にはいついつまでも万代に、私も通って参ります。決して新居を忘れてしまうだろうと思し召すな。
「地図(桂川町長明寺付近)」

 「寧楽京(平城京)」は、嘉穂郡桂川町の長明寺の辺りにあった。その長明寺の所に大極殿が建っていたと考えている。その南側に条坊制の京師が造られていたと思われる。
 79番歌のある「佐保川」も長明寺の東側を流れている。

 平城京については、「神功皇后紀を読む会」のメンバーである桜井貴子さんが、『続日本紀』に書かれている内容から下記の通り纏められている。

 平城京 ⇔ 三関(鈴鹿関・不破関)
鈴鹿関へは県道六六号線経由で桂川を出て国道二〇一号線に入り、香春で三二二号線、そして県道六四号線に入り、苅田へ。
不破関へは、六六号線を経て国道二〇〇号線へ、そして黒崎辺りで山道に入り河内ダム付近へ。
「地図(平城京から三関までのルート)」
 平城京 ⇔ 三関(不破関・愛発(あらち)関)
不破関への別ルートは、県道六六号線を経て飯塚辺りで国道二〇一号線を香春へ、そこから三二二号線を経て県道六一号線から県道六二号線で関へ。
愛発関へは、桂川から大雑把に六六号線を経て二〇〇号線を通り、八幡西区辺りで3号線に乗り換え、城野へ。
「地図(平城京から三関までのルート)」
 奈良時代の関所の所在地
美濃国:不破関、伊勢國:鈴鹿関、越前國:愛発関
三関はいずれも京師から一日程度の距離。何か事ある毎に三関を固守できる近距離にある。
「地図(奈良時代の関所の所在地」

濃線:海抜10m線、淡線:現在の海岸線

 奈良時代と平安時代の関所の所在地

平安中期の関所(近畿地方)

「地図(平安時代中期の関所(近畿地方)」

奈良時代の関所(北部九州)

「地図(奈良時代の関所(北部九州)」
 京師と三関について
 奈良時代の三関は、平安時代の三関とはたとえ同名の国の同名の関でも別物である。
 平安時代の三関は近畿にあるのに対して、奈良時代の三関は別の場所、福岡県にあった。
 これは、守るべき京師が、平安時代は近畿の京都府にあるのに対し、奈良時代の京師は、北部九州の福岡県にあったからである。
平安時代   
 近江國逢坂関 滋賀県大津市   
 伊勢国鈴鹿関 三重県亀山市   
 美濃国不破関 岐阜県不破郡関ケ原町

奈良時代  
 伊勢国鈴鹿関 福岡県苅田町
 美濃国不破関 福岡県北九州市小倉南区
 越前國愛発関 福岡県北九州市小倉北区