倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集⑰ 巻第二 241番 柿本人麻呂の天智天皇の挽歌
 (令和6年2月28日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 「万葉集」巻第三 雑歌 241番  (嘉穂の地に埋葬された天智天皇を偲んだ歌)

 『万葉集』巻第二の柿本人麻呂の歌、200〜222番讃岐の狭岑嶋に石中の死人を視て、柿本朝臣人麻呂作歌一首并せて短歌」に関係すると思われる歌が、少し離れるが、『万葉集』万葉集巻第三の241番歌である。

 241番歌の末句「海成可聞」を「海鳴するかも」と訓読した。通説では、「海を成すかも」と訓読するので、「荒山中に海をお造りになることだなあ」では意味が分からない。
 「海鳴するかも」と訓読したが、何故「山の中で海鳴りするかも」というのが、今一つピンとこなかった。そこでこの謎は、今まで持ち越していた。

「万葉集」巻第三 雑歌
 長皇子遊猟路池之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌
 八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三猟立流 弱薦乎 猟路乃小野尓 十六社者 伊波比拝目 鶉己曽 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拝 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞

239

 反歌一首
 久堅乃 天歸月乎 網尓刺 我大王者 盖尓為有

240

 或本反歌一首
 皇者 神尓之坐者 真木乃立 荒山中尓 海成可聞

241

 (おほきみ)は 神にし坐せば 真木の立つ 荒山中に 海鳴するかも
 皇(天智天皇)は神でいらっしゃるから真木の立っている荒れた山の中にお眠りになっても、海鳴がすることだなあ。

 長年、筑豊の伝承を探っていく中で、下記の伝承に行き当った。それが、天智天皇の陵である。

 嘉穂郡に実存する天智天皇陵
「嘉穂郡誌(大正版)」
千手(せんず)
 村中に千手寺(せんじゅうじ)あり、是に依て村の名とす。本尊千手観音也。此寺山間にありて閑寂なる境地也。其側に石塔有り、里民は天智天皇の陵なりと云ふ。天智天皇の御子に嘉麻郡を賜はりし事あり。其人天皇の崩じ給ふ後に、是を立給ふと云ふ。然れども梵字など猶さだかに見ゆ。さのみ久しきものには非ず。いかなる人の墓前にや、いぶかし。
「嘉穂郡誌(明治版)」
 維新以前は此塔の横に当る道路には牛馬の通行を禁じ凡そニ三丁前より左に当り替道を作り牛馬は之を通行せり
「天武天皇紀」朱鳥元年八月
 癸未、芝基皇子・磯城皇子、各加二百戸

 上記の「天智天皇の御子に嘉麻郡を賜はりし事あり」に書かれているのは、天智天皇の第7皇子の志貴皇子(芝基皇子)である。天武天皇紀には、芝基皇子が、200戸を与えられたとの記事もある。

 下記の写真は、嘉穂郡誌に書かれている天智天皇の陵である。現在の石搭の最下部の石は、鎌倉時代のものであるから、その下の部分に埋葬されていると思われる。

 千手寺の天智天皇陵
写真「千手寺の天智天皇陵」

「真木の立つ荒山中」

写真「千手寺の天智天皇陵」

 その天智天皇の陵とされている土地は、財務省(旧大蔵省)の雑種地となっている。明治時代に天智天皇、長慶天皇の名が残されているので、国有地となった。

 千手寺の天智天皇陵
写真「千手寺の天智天皇陵」

牛馬の通行する替道

 241番歌の末句「海鳴するかも」と訓読した意味が解けた。志貴皇子と柿本人麻呂は、入水自殺された天智天皇の遺骸を小島より引き上げ、遠賀湾を遡り、ここ嘉穂の千手の地に遺骸を埋葬した。
 天武紀に書かれている志貴皇子が200戸賜った土地が、嘉穂郡誌に書かれた土地であれば、ここにある天智天皇の陵に天智天皇の遺骸したと考えられる。

 柿本人麻呂は、入水自殺された天智天皇の遺骸をここ嘉穂の山中に埋葬されたので、ここで天智天皇の挽歌を詠んだ。山の中では、風が吹けば木の葉がザワザワとする。主君天智天皇は玄界灘に無念の入水されたのだから、そのザワザワした音が海なりに聞こえたのであろう。だから、「真木の立つ 荒山中に 海鳴するかも」と詠まれたと思われる。
 これで、241番歌の解釈が、成り立ったのである。