倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集⑰ 巻第二 220番・221番・222番 柿本人麻呂の歌
 (令和6年2月28日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 「万葉集」巻第二 220・221・222番  (人麻呂が詠んだ天智天皇の挽歌)

 万葉集巻第二の147番〜155番の「天智天皇の挽歌」で詠まれた内容から天智天皇は、壬申の乱で大海人皇子(のちの天武天皇)と直接戦って敗れ、宗像市の織幡神社裏から玄界灘へ入水自殺されたと考えている。
 この挽歌に続く歌が、220番〜222番歌である。令和5年1月18日 豊国の万葉集⑤(柿本人麻呂①)で既に説明した内容の復習になる。

 柿本人麻呂の歌に「讃岐の狭岑(さみね)嶋に石中の死人を視て、柿本朝臣人麻呂作歌一首并せて短歌」という歌がある。

「万葉集」巻第二 挽歌
 讃岐狭岑嶋、視石中死人
 柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌
 玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貴寸 天地 日月與共 満将行 神乃御面跡 次来 中乃水門従 船浮而 吾榜来者 時風 雲居尓吹尓 奥見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行船乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭岑之嶋乃 荒礒面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓為而 荒床 自伏君之 家知者 徃而毛将告 妻知者 来毛問益乎 玉桙之 道太尓不知 欝悒久 待加戀良武 愛伎妻等者

220

 反歌二首
 妻毛有者 採而多宜麻之 佐美乃山 野上乃宇波疑 過去計良受也

221

 奥波 来依荒礒乎 色妙乃 枕等巻而 奈世流君香聞

222

 讃岐狭岑嶋、視石中死人
 柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌
 玉藻(たまも)よし 讃岐の国は 国からか 見れども()かぬ (かむ)からか ここだ(たふと)天地(あめつち) 日月(ひつき)とともに ()り行かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ(きた)那珂(なか)の港ゆ 船浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海(かしこ)み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯面(ありそも)(いほ)りて見れば 波の()の 繁き浜辺を 敷栲(しきたへ)の 枕になして 荒床に ころ()す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば ()も問はましを 玉桙(たまほこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは
 反歌二首
 妻もあらば 摘みて食げまし 沙弥(さみ)の山 野の()のうはぎ 過ぎにけらずや
 沖つ波 ()寄る荒礒(ありそ)敷栲(しきたへ)の 枕とまきて ()せる君かも

 220番歌の原文にある「中乃水門」は、「那珂の港」であり、その場所は下記の古遠賀湾図にもある中間市長津(磐瀬行宮・長津宮)である。
 柿本人麻呂は、長津の港から梶が折れんばかりに船を漕ぎ進めた。鯨魚取り海とあるから古遠賀湾を出て、玄界灘へと船を進めた。
 この歌にある「讃岐の国」、「狭岑の島」の句は、カモフラージュでした。中間市の長津港がら手で漕ぐ船で瀬戸内海を通過して讃岐の国まで行けない。無理である。
 玄界灘にある沖の小島の荒磯の荒床に「自伏君(ころ臥す君)」がいらした。これは、どうも織幡神社の裏から玄界灘に入水自殺された天智天皇の遺骸であったと思われる。

 讃岐狭岑嶋、視石中死人
 柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌
 藻が美しい讃岐の国は風光明媚な土地柄、見れども見れども飽きがこない。神々しい風格が備わっていて、天地も日月も貴く満ち足りている。神のように美しい顔を備えている。その那珂の港から船を浮かべて漕いでやってきた。すると時ならぬ風が雲の浮かぶ辺りから吹いてきた。沖の方を見ると波がうねり立ち、岸辺には白波が騒ぎ立っている。その鯨魚取り恐ろしい海を梶が折れんばかりに船を漕ぎ進める。あちこちに多くの島が浮かんでいるが、霊妙な名を持つ狭岑の島(沙弥島)の荒磯に漕ぎつけてみた。すると、波音が激しい浜辺に真っ白な石を枕にしてその荒れ床に横たわっている人がいるではないか。この人の家が分かっていれば、行って告げ知らせもしように。妻が知ればやって来て声をかけようものを。が、ここに来る道も知らない妻はぼんやりと待ちに待っているだろうな愛しい妻は。
地図「古遠賀湾」

 この「波音が激しい浜辺に真っ白な石を枕にしてその荒れ床に横たわっている人」と訳したのが、変わり果てた天智天皇の姿であった。

 この歌も柿本人麻呂の詠んだ天智天皇の挽歌だと言える証である。

 反歌の222番の中にも「寝せる君(寝ていらっしゃる君)」とある。これもどう考えても織幡神社の裏の玄界灘に入水自殺された天智天皇の遺骸だと思われる。
 下記の写真に写ってい入る玄界灘にある小島かなと考えられるが。単なる想像である。しかし、柿本人麻呂は、間違いなく中間市の長津の港からここ玄界灘まで、手漕ぎの船でやって来ている。

 讃岐狭岑嶋、視石中死人
 柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌
 反歌二首
 この人の妻が一緒にいれば、摘み取って一緒に食べただろうに。沙弥の山の野の嫁菜。ああ、その嫁菜の季節も過ぎてしまっているではないか。
 沖の波が打ち寄せて来る荒磯を枕として寝ていらっしゃる君かな。
写真「織幡神社の裏・玄界灘」

玄界灘(織幡神社の所)

 柿本人麻呂は、天智天皇の遺骸を手漕ぎ船に乗せて、中間市の長津の港に戻り、そこから遠賀川を遡り天智天皇の皇子である志貴皇子の領地である嘉穂に運び、その地に埋葬した。そこが、千手の天智天皇の陵であり、人麻呂は、ここで詠まれた天智天皇の挽歌が、『万葉集』巻第三の241番歌或本反歌一首」である。