倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第二 220・221・222番 (人麻呂が詠んだ天智天皇の挽歌)
万葉集巻第二の147番〜155番の「天智天皇の挽歌」で詠まれた内容から天智天皇は、壬申の乱で大海人皇子(のちの天武天皇)と直接戦って敗れ、宗像市の織幡神社裏から玄界灘へ入水自殺されたと考えている。
この挽歌に続く歌が、220番〜222番歌である。令和5年1月18日 豊国の万葉集⑤(柿本人麻呂①)で既に説明した内容の復習になる。
柿本人麻呂の歌に「讃岐の狭岑嶋に石中の死人を視て、柿本朝臣人麻呂作歌一首并せて短歌」という歌がある。
220
221
222
220番歌の原文にある「中乃水門」は、「那珂の港」であり、その場所は下記の古遠賀湾図にもある中間市長津(磐瀬行宮・長津宮)である。
柿本人麻呂は、長津の港から梶が折れんばかりに船を漕ぎ進めた。鯨魚取り海とあるから古遠賀湾を出て、玄界灘へと船を進めた。
この歌にある「讃岐の国」、「狭岑の島」の句は、カモフラージュでした。中間市の長津港がら手で漕ぐ船で瀬戸内海を通過して讃岐の国まで行けない。無理である。
玄界灘にある沖の小島の荒磯の荒床に「自伏君(ころ臥す君)」がいらした。これは、どうも織幡神社の裏から玄界灘に入水自殺された天智天皇の遺骸であったと思われる。
この「波音が激しい浜辺に真っ白な石を枕にしてその荒れ床に横たわっている人」と訳したのが、変わり果てた天智天皇の姿であった。
この歌も柿本人麻呂の詠んだ天智天皇の挽歌だと言える証である。
反歌の222番の中にも「寝せる君(寝ていらっしゃる君)」とある。これもどう考えても織幡神社の裏の玄界灘に入水自殺された天智天皇の遺骸だと思われる。
下記の写真に写ってい入る玄界灘にある小島かなと考えられるが。単なる想像である。しかし、柿本人麻呂は、間違いなく中間市の長津の港からここ玄界灘まで、手漕ぎの船でやって来ている。
柿本人麻呂は、天智天皇の遺骸を手漕ぎ船に乗せて、中間市の長津の港に戻り、そこから遠賀川を遡り天智天皇の皇子である志貴皇子の領地である嘉穂に運び、その地に埋葬した。そこが、千手の天智天皇の陵であり、人麻呂は、ここで詠まれた天智天皇の挽歌が、『万葉集』巻第三の241番歌「或本反歌一首」である。