倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第六 雑歌 938〜947番 (赤人の行幸従駕の羇旅歌)
山部赤人の紹介ページで記した「聖武天皇の行幸従駕の羇旅歌」が巻6にある。その赤人の詠んだ歌の前に笠金村の歌(935〜937番の3首)が載っている。
歌の題詞に「三年丙寅秋九月十五日、幸二於播磨國印南野一時」とあり、『続日本紀』の記事から「神亀三年(726年)の聖武天皇の印南行幸」の時に詠われた歌だとわかる。そして、聖武天皇は、十月十九日に難波還幸とあり、行橋市に帰っている。
通説では、聖武天皇が、奈良の平城京から出かけて、大阪の難波に帰ったと考えているから、歌で詠まれた内容と合わないと平気で言っている。(福永説)では、平城京は桂川町にあり、聖武天皇は行橋の難波に帰ってきている。
だから、笠朝臣金村の歌(935〜937番)の後にある938番歌からの山部赤人の歌も「三年丙寅秋九月十五日、幸二於播磨國印南野一時」という年月がそのまま当てはまる。
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聖武天皇が行幸された「印南野」は、現在の兵庫県の加古川下流域から明石川下流域にかけて広がる平野の場所である。
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印南野:海辺を古代の山陽道が通る現明石市稲美町・加古郡播磨町・加古川市・高砂市にまたがる野。
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939〜941番の反歌3首でも兵庫県明石辺りで詠まれた歌である。そして、最後の941番歌で「明日からは家路に就き」と読まれているから、(東か、西か)何方へ向かって旅の歌が詠まれるかである。
(福永説)では、聖武天皇は行橋市の難波津へ還幸されるのである。だから、瀬戸内海を西へ向かったのである。
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山部赤人が、聖武天皇の行幸に従駕し羇旅歌を詠んでいるが、これに先立つ歌が柿本人麻呂が天智天皇の瀬戸内巡行にお供した時の「柿本朝臣人麿の覊旅歌」である。
赤人の歌にも人麻呂の歌にも「敏馬」、「野島」、「藤江」、「淡路」、「明石」、「印南」が詠まれている。人麻呂の歌は、行橋の難波津を出て瀬戸内海を東へ向かっているが、山部赤人の歌は、行橋の難波津へと西に向かって帰ってくる時の歌で、同工異曲である。
ここまで山部赤人の歌をみてきて、大伴家持が『万葉集』の中で「山柿之門」と讃え、『古今和歌集』仮名序には
「また山の辺赤人といふ人ありけり 歌にあやしく妙なりけり 人麿は赤人が上に立たむことかたく 赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」
とある事がわかる。