倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集⑩ 「万葉集」巻第一 1~40番
 (令和5年6月15日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 「万葉集」巻第一 27番  (万葉仮名「四来三(よくみ)」の意味を解く)

  「豊国の万葉集 巻第一 27番歌」の 動画 をご視聴時に参考にして下さい。

 「万葉集」巻第一 27番歌の基本にあるのが、下記の「日本書紀」天武紀・下の天武天皇八年の記事(吉野の誓い)である事は間違いがない。
 

天皇と皇后・6人の皇子、吉野へ行幸
天武天皇八年((六八〇))
 五月庚辰朔甲申、幸吉野宮。乙酉、天皇、詔皇后草壁皇子尊大津皇子高市皇子河嶋皇子忍壁皇子芝基皇子曰「朕、今日與汝等倶盟于庭而千歳之後欲事、奈之何。」皇子等共對曰、「理實灼然。」則草壁皇子尊、先進盟曰、「天神地祗及天皇、證也。吾兄弟長幼并十餘王、各出于異腹、然不同異、倶隨天皇勅而相扶無忤。若自今以後、不此盟者、身命亡之子孫絶之。非忘非失矣。」五皇子、以次相盟如先。然後、天皇曰、「朕男等各異腹而生、然今如一母同産慈之。」則披襟抱其六皇子。因以盟曰「若違茲盟、忽亡朕身。」皇后之盟、且如天皇。丙戌、車駕還宮。己丑、六皇子共拜天皇於大殿前
(天武紀・下)

 この記事の「丙戌(ひのえいぬ)、車駕還宮。」とある吉野宮から還った宮は、飛鳥浄御原(きよみはら)宮。その地が、赤村大原(大楠のある貴船神社)だと思われる。
 

 斉明天皇が造営したされる吉野宮(山国町吉野の若宮神社)は、実は天智天皇が造られた。その天智天皇に従い、柿本人麻呂は吉野宮を訪れている。そこで万葉集にある吉野の倭歌を詠んでいる。  

 中津市山国町吉野
絵図「山国町吉野地区」
写真「若宮神社」
写真「魔林峡」

 言葉遊びのような27番歌を到頭(とうとう)訳した。倭歌の冒頭にある「淑人(よきひと)」は、誰か? その淑き人が、天智天皇だと解けたら訳せた。

「万葉集」巻第一 27番
 天皇、幸于吉野宮時御製歌
 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人

27

 ()き人の よしとよく見て よしと言ひし
吉野よく見よ 良き人よく見
 昔のよい人(天智天皇)がよい所だとよく見て、よいといった吉野をよく見なさい。良い人(皇后草壁皇子尊大津皇子高市皇子河嶋皇子忍壁皇子芝基皇子)よ、よく見なさい。
「万葉集 巻第一 二七番」

 27番歌の最後の部分の万葉仮名「良人」と書かれている真意は、上記の「天武紀・下」の書かれた天武天皇に従い吉野宮へ行幸した皇后(鸕野讚良)と6人の皇子を意味していた。
 万葉仮名の「」は、天智天皇の子、鸕野讚良河嶋皇子芝基皇子の3人。「」は、天武天皇の子、草壁皇子尊大津皇子高市皇子忍壁皇子の4人を指していた。

万葉仮名「良人()()()
天智((38))天皇 ─┬─ 持統((41))天皇
      │  鸕野讚良(うののさらら)、天武天皇妃)
      ├─ 元明((43))天皇
      │  (第4皇女子、草壁皇子妃)
      ├─ 弘文((39))天皇
      │  (大友皇子・第1皇子)
      ├─ 河嶋皇子
      │  (母:忍海造色夫古娘、第2皇子)
      └─ 志貴皇子
         (母:越道君伊羅都売、第7皇子)
天武((40))天皇 ─┬─ 高市皇子
(大海人皇子) │  (母:尼子娘、長男) 
      ├─ 草壁皇子
      │  (母:鸕野讚良皇女、第2皇子)
      ├─ 大津皇子
      │  (母:大田皇女、第3皇子)
      ├─ 忍壁皇子
      │  (母:宍人カヂ媛娘、第4皇子)

 この27番歌は、題詞に「御製歌」とあるが、天武天皇の倭歌ではない。最後の部分の訓読み「よくみ」の万葉仮名「」の当て方が、凄かった。
 したがって、この27番歌は、柿本人麻呂の作ではないか。

 680年の吉野の誓いの翌年に天武天皇の崩御すると、草壁皇子の母の鸕野讚良皇后は大津皇子に謀反の疑いをかけ、自殺に追い込んた。この結果、天武天皇の吉野の誓いは、水泡に帰した。
 歴史は、皮肉である。やはり倭歌は、歴史を詠っている。