「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 田川広域観光協会 古代史研究会
 第32回 古代史講座「魏志倭人伝の卑奴母離とは?(令和6年12月22日 於:福岡県立大学大講義室)より

  倭奴国(イヌ(ノ))と楽浪郡の里程(12,000里)について

 『魏志倭人伝』の「自郡至女王國 萬二千餘里」中の謎の1,300里は何処の里程か?

帯方郡(水行) - 狗邪韓國

: 七千餘里

狗邪韓國(水行) - 對海國

:  千餘里

對海國(水行) - 一大國 

:  千餘里

一大國(水行) - 末盧國

:  千餘里

末盧國(陸行) - 伊都國

:  五百里

伊都國(陸行) - 奴國

:   百里

奴國(陸行) - 不彌國

:   百里

:  10,700里

⇒ 不彌國が、邪馬台國の玄関に当たる国だ
  とした時の合計では、1,300里足りない!

 次に『魏志倭人伝』では、帯方郡から12,000里となっているが、『三国志』より古いと考えられる史書である『後漢書』には、楽浪郡から12,000里と書かれている。

 下記の『翰苑』に採られた「後漢書」は、「范曄後漢書」ではなく、『三国志』を著した陳寿が見ていた『謝承後漢書』だと考えられる。

倭奴国(イヌ(ノ))と楽浪郡の里程
倭國
憑山負海鎭馬臺以建都
後漢書(謝承後漢書?)曰、倭在東南大海中、依山島爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使譯通於漢者卅餘國、稱王、其大倭王治邪馬臺樂浪郡儌、去其國萬二千里。其地大較在會稽東。与朱崖・儋耳相近。
『翰苑』湯浅幸孫校釈
「樂浪郡」 ⇒ 「樂浪郡
『范曄後漢書』
『隋書』俀國傳
」 : さかい、とりで
「樂浪郡徼」は「樂浪郡治」の謂いか?

 この後漢書には「樂浪」と書かれているが、『范曄後漢書』には「樂浪」とあり、これは樂浪郡治だとすれば、『漢書地理志』にある楽浪郡の県を地図で見ると次の位置関係となる。
 また、『魏志倭人伝』にある帯方郡の出発地点が、大同江の河口付近にあった港だとすれば、不足した(書かれていない)里程:1,300里が見えてきた。

地図「楽浪郡の県」

『漢書地理志』楽浪郡の県
(Ⓒ漢書地理志にみる楽浪郡の改革)

地図「大同江河口周辺」

(Ⓒ倭国への中継地点となる
 朝鮮半島の大同江河口)

 右図の『漢書地理志』楽浪郡の県名:1朝鮮の所が楽浪郡治に当たり、その南に7帶方がある。そして、左図で、大同江の河口に帯方郡治下の港が記されている。
 これら2つの地図から見える楽浪郡治帯方郡治下の港の位置関係は、凡そ1,300里である。だとした時に『三国志』を書いた陳寿が、楽浪郡と帯方郡の距離を記さなかっただけである。

 したがって、邪馬台国(倭国)まで、12,000里の里程は、『後漢書』に書かれている通りに楽浪郡が、起点であった。

 水行十日

地図「魏使のルート」

 楽浪郡治

大同江河口

帯方郡治下の港 


帯方

郡より海岸に沿い水行し韓国を経て狗邪韓國まで7,000里

狗邪韓國

對馬國

一支國

末盧國

『魏志倭人伝』の旅程(水行)
 倭人は、帯方の東南、大海の中に在り。山島に依りて国邑を為す。旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国なり。郡より倭に至るには、海岸に(したが)ひて水行し、韓国を歴へて、(たちま)ち南し乍ち東す。其の北岸狗邪韓国に至るには七千余里なり。始めて一海を度る千余里、①()に至る。其の大官を卑狗と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。居る所は絶島、方四百余里(ばか)り。土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の(こみち)の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食ひて自活す。船に乗り南北に市糴(してき)す。又、南一海を渡る千余里、名づけて澣海(かんかい)と曰ふ。②()に至る。官を亦卑狗と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。方三百里可り。竹木叢林多く、三千許りの家有り。(やや)田地有り、田を耕すも猶食ふに足らず。亦南北に市糴す。又、一海を渡る千余里、末盧国に至る。四千余戸有り。山海に()ひて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。魚鰒を捕ふを好み水深浅と無く皆沈没して之を取る。
『魏志倭人伝』の旅程(陸行)
 東南陸行五百里、伊都(いつ)に到る。官を爾支(にき)と曰ひ、副を泄謨觚(せまこ)柄渠觚(へここ)と曰ふ。千余戸有り。(よよ)王有るも皆女王国に統属す。郡使往来するに常に駐とどまる所なり。東南して③()に至るまで百里。官を兕馬觚(しまこ)と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。二万余戸有り。東行して④不弥国に至るまで百里。官を多模と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。千余家有り。南のかた邪馬()に至る、女王の都する所にして、水行十日陸行一月。官に伊支馬有り。次を弥馬升と曰ひ、次を弥馬獲支と曰ひ、次を奴佳鞮と曰ふ。七万余戸可り。南のかた投馬国に至る、水行二十日。官を弥弥と曰ひ、副を弥弥
那利と曰ふ。五万余戸可
り。女王国より以北は、
其の戸数・道里、得て略
載すべきも、其の余の旁
国は遠絶にして、得て詳
らかにすべからず。
(中略) 郡より女王国
に至るまで、万二千余里

ど do

(甲)

土度渡(記・万葉)
怒 (紀)

ぬ nu

農濃・沼宿寐
   (記・万葉)
努怒農濃(紀)

の no

(甲)

努怒弩(記・万葉)
努怒弩(紀)

 尚、上記の『魏志倭人伝』の旅程の記述については、「南のかた邪馬壱国に至る」と「南のかた投馬国に至る」の部分を入れ替えて記している。これは、地理感が乱れただけの結果だと考えた。だから、入れ替えた事によりわかり易くなった。
 したがって、投馬国は遠絶の旁国であり、邪馬壱国から更に水行二十日の所の国である。邪馬壱国は、帯方郡より水行十日の所にある。
 最後に里程が「郡より女王国に至るまで、万二千余里」とあるが、『後漢書』にある楽浪郡〜倭国までが、12,000里とあった里程とは、1,300里の差がった。

 『魏志倭人伝』に出てくる ①:対馬国②:一支国③:奴国④:不弥国の4ヶ国の副官名が、同じ卑奴母離である。この卑母離を通説では「モリ」と読ませている。
 上記に示すようにこの「」を「」と読む例は無い。「」は、「」、「」、「」としか読まない。本当に「卑母離」を「ヒモリ」と読ませるのは正しいのか?
 考古学では、他にも「漢委国王印」を「かんのわののこくおういん」とか、「狗国」を「くこく」と読ませているが、古今東西、中国にも日本にも「」を「」の発音は無い。このような間違いを歴史学者・考古学者は続けてきている。NHKも同じである。

 この『魏志倭人伝』に書かれた卑弥呼の時代の国々の副官「卑奴母離」は、通説でいう「ヒナモリ」と本当に読むのか? また、どのような官職だったのかこちらから(福永説)を説明する。

 『隋書』俀国伝の裴世清が来た倭国へのルート

 下記の『隋書』俀国伝にあるように「邪靡堆に都す。則ち『魏志』に謂う所の邪馬臺なる者也」とあるから倭国の場所は、3世紀の三国時代と7世紀初めの隋代になっても変わっていない事になる。

『隋書』俀国伝(抄録)
於邪靡堆。則魏志所邪馬臺者也。古云、去樂浪郡境及帶方郡竝一萬二千里、 (中略)
明年、上遣文林郎裴淸使於俀国。度百濟、行至竹島、南望聃羅國、經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。 (後略)
 明くる年(大業四年(608年))、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。百済へ渡り、竹島に至る。南に聃羅(たんら)国を望み、はるかな大海の中にある都斯麻(つしま)國を経て、また東の一支(いき)國へ至る。また竹斯(ちくし)國へ至り、また東の秦王国に至る。
都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也

 『隋書』俀国伝では、「煬帝が裴世清を派遣して、倭国へ行かせた」とあるが、裴世清が着いた場所は、竹斯國(筑紫国)である。近畿・奈良まで行っていない。

地図「裴世清のルート」

百済

黄海

竹島

聃羅國

済州島

都斯麻國

一支國

竹斯國

(石田敬一氏の「俀国への経路」を引用)

 末盧國から伊都(いつ)国へ東南陸行五百里

地図「魏志倭人伝の陸行ルート」
 女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国、之を畏れ憚る。常に伊都国に治し、国中に於いて刺史の如き有り。王使を遣はして京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、及び郡の倭国に使するや、皆に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。(中略)

日王山

邪馬台国

 『魏志倭人伝』の①:対馬国②:一支国③:奴国④:不弥国の4ヶ国の副官名「卑奴母離」の「」の字は「」ではなく、「」と読み「モリ(火の守)」である。つまり、烽火(のろし)を司る役人であった。
 そして、不弥国の副官「母離(もり)」が司った烽火が、日王山の山頂に置かれていた。

 変更以前の「韓半島~倭国(豊国)までの里程」のページは、こちらにあります。