「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 現人神社(字名:鮎返し)=「鯷」字考について/都怒我阿羅斯等を祀る

 福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」の6ページ「鯷」字考の項の中に豊前の国の風土記に曰はく、
田河の郡。香春の郷。此の郷の中に河あり。年魚あり。(略)」(宇佐宮託宣集)
 上記の河は、彦山川の支流、清瀬川(金辺川とも)とあり、遠賀川の支流でもある。福岡県田川郡香春町の 現人神社の鎮座する所に「鮎返しという字名が今日も存する。香春町郷土史会会長柳井秀清氏から教えていただいた。豊前国風土記の「年魚」も字名の「」も元はサケであろうとある。

『豐前國 風土記』 「鹿春(かはる)の神」

 豐前國風土記に曰はく、田河の郡、鹿春の鄕、 郡の東北にあり。 この鄕の中に河あり。年魚あり。その源は、郡の東北なる杉坂山より出で、直ちに正西を指して流れ下り、眞漏河に添ひ會へり。この河の瀨淸浄し。因りて、淸河原の村と號く。今、鹿春の郷といふは訛れるなり。昔者、新羅の國の神、自ら度り到來りてこの川原に住みき。すなはち名を鹿春の神といひき。又、鄕の北に峯あり。頂きに沼あり。 潤さ三十六歩許あり。 (また)、龍の骨あり。第二の峯には銅と黄楊と龍の骨あり。第三の峯には、龍の骨あり。

 

 福永晋三先生のタイトル『魏志倭人伝と記紀の史実-「伊都能知和岐知和岐弖」考』の資料 「 魏志倭人伝と記紀の史実 」の24ページ都怒我阿羅斯等の記述の抜粋です。
 都怒我阿羅斯等が最初に到った国の王の名が伊都都比古なのであるから、組み合わせれば「伊都国王」が明らかに出現している。そこは、「穴門」すなわち今日の関門海峡を領有する国=豊国である。
 事実、豊前国香春には今も 都怒我阿羅斯等を祀る「現人神社が鎮座する(香春町の柳井秀清氏に教わった)。
 ここを辞した都怒我阿羅斯等の行った先が、本稿で詳述した「都怒我 = 角鹿 → 敦賀」の地である。これは都怒我阿羅斯等が最初に倭国に到り、次いで 東鯷国 にいたった記事と私は確信している。
                   (拙論「東西五月行(統一倭国)の成立」越境としての古代3)

万葉仮名「伊都」(日本書紀)
 一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦。故號其處角鹿也。問之曰、何國人也。對曰、意富加羅國王之子、名怒我阿羅斯等。亦名曰于斯岐阿利叱智干岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。到于穴門時、其國有人。名伊都都比古。謂臣曰、吾則是國王也。除吾復無二王。故勿他處。然臣究見其爲人、必知王也。既更還之。不道路、留連嶋浦、自北海廻之、經出雲國於此間也。
(垂仁天皇二年)

 「都」は「ツ」と読む。

 一に云はく、御間城(みまき)天皇の世に、額に角有ひたる人、一つの船に乗りて、越国(こしのくに)笥飯浦(けひのうら)に泊まれり。故、其処を号けて 角鹿(つぬが) と曰ふ。

 問ひて曰く、「何れの国の人ぞ」といふ。対へて曰く、「意富加羅(おほから)国の王の子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)。亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と曰ふ。(つて)日本国(やまとのくに)聖皇(ひじりのきみ)有すと聞きて、帰化す。

 穴門に到る時に、其の国に人有り。名は伊都都比古(いつつひこ)。臣に謂ひて曰く、『吾は是の国の王なり。吾を 除きて復二の王無し。故、他処にな往にそ』といふ。然れども臣、(つらつら)其の為人を見るに、必ず王に非ずといふことを知りぬ。即ち更に還りぬ。道路を知らずして、嶋浦に留連(つたよ)ひつつ、北海より廻りて、出雲国を経て此間に至れり。」とまうす。
 (後略)

 倭国大乱と卑弥呼(平成30年7月8日、於 福岡県立大学大講義室)講演より

<現人神社>

「写真」

 最初、穴門に来た都怒我阿羅斯等は3年間どこにいたか。香春町(だい)にある現人(あらひと)神社であるようだ。祭神が都怒我阿羅斯等である。
 では、伊都都比古とは何者か。私が飯塚の王とした垂仁天皇に他ならない。「伊都(いつ)つ彦」だ。

 都怒我阿羅斯等は本国にいた時、白石を寝室に置いていたら、その神石が美しい童女となった。阿羅斯等は喜んだが、留守の間に童女が消えた。その足跡を追って海を渡り、日本国に来た。
 童女は、難波に行き比売語曽(ひめこそ)となり、豊国国前(くにさき)に到って、また、比売語曽社の神になった。

 豊後の国埼郡の比売語曽神社(大分県姫島村)とする説が有力だが、豊国国前郡を豊前田川郡香春だとする説も古くからある。

   香春神社 の縁起の一節に、
韓地に於ける大姫命の霊は、実に白石の玉と示し給う。しこうして、この三山は、白石幽妙(ゆうみょう)の神縁なり。けだし、上古より、この山に臨座有り」とある。
 『太宰管内志』にも、「谷川氏云う、香春ノ神は又比売語曽神社と号す」とある。
                         (『古宮八幡宮と宇佐神宮の御神鏡』から採録)

 繰り返すが、真の「倭三山」(香春岳)は白石の山だったのである。

 ※ 

 『 新説 日本書紀(やまとのふみ) 第13回(7月7日)垂仁天皇② 『任那の帰化人、外交で活躍』もご参照下さい。

 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす 宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2
 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より

 最初、穴門に来た都怒我阿羅斯等が3年間いた処 ⇒ 現人神社から鶴岡八幡神社に訂正

 香春町に「鶴我」さんという方がいらっしゃる。その家に系図のコピーを頂いた。ご先祖は、阿羅斯等です。都怒我阿羅斯等を先祖とされる方が、香春町にいる。鶴我家は、「都怒我号角鹿とある。
 都怒我阿羅斯等は、どこにいたのか?
 香春町高野にある  鶴岡(つるがおか)八幡神社 である。西日本新聞に『新説 日本書紀』を出した時には、現人神社と書きましたが、訂正します。鶴岡八幡神社である。宮司さんは、鶴我さんである。都怒我阿羅斯等の子孫の鶴我さんが、今なお鶴岡八幡神社の宮司さんである。
 神武天皇が、この地で即位した80年後に大加羅国から都怒我阿羅斯等がやってきてここに住んだ。その子孫の鶴我さんが宮司をされている。ただの偶然ですかね?

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