「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
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魏志倭人伝を解く! 宗像(神湊)が末盧国なら邪馬台国は田川だ(平成28年8月7日、於 田川市民会館講堂)の講演内容の「 末盧国からの陸行および邪馬台国周辺国 」の地図のページを追加しました。伊都国、奴国の比定場所が修正されています。
『万葉集 八番歌』は、「熟田津で船乗りをしようと満月の出を待っていると満月も出てきて、大潮の具合も丁度よくなった。
さあ今漕ぎだそう」と詠われた歌で、これは、神功天皇が何者かを倒すために満月の夜に出航する時の歌だという解釈をした。
通説では、熟田津は愛媛県松山市となっている。
しかし、松山市には「にぎた」という地名が残っていない。たがら、場所が違うと判断して探した結果が、鞍手町新北であった。
この辺りが、古代海であった時に新北のところに津があった。
*.伊都国の津:熟田津
*.伊都国の津:和珥津
新北本司 熱田社古宮 ・・・ 海岸線跡(汀線跡)
新北津跡
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2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』で下記の内容に修正されています。
肥前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。田中和典さんの再発見と新発見です。田中さんの実家の糸島の宮地岳神社の祭神が勝門姫ということが判明したのです。
仲哀天皇記は魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に比定した説はすべて間違いとの結果が出ました。
勝門姫は宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようです。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と修正します。
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福永晋三先生のタイトル『魏志倭人伝と記紀の史実-「伊都能知和岐知和岐弖」考』の資料「 魏志倭人伝と記紀の史実 」の8~10ページに「伊都國」の記述があります。
万葉仮名「伊都」は、「イト」とは読まない。 「 イツ 」と読む。『古事記』では、「伊都二字は音を以いよ」などとの割注がついている。すなわち、わざわざ「イツ」と読めとある。
また、『日本書紀 垂仁天皇二年』でも「都」は、「 ツ」と読んでいる。「都怒我阿羅斯等、伊都都比古」とある。香春町には、都怒我阿羅斯等を祀る 現人神社 がある。
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宮若市 千石挟 (千石挟から鞍手町にかけてが、「伊予村」)のページへ
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『日本書紀 斉明紀 七年』の三月の「磐瀬行宮に居ます。」、八月の「還りて磐瀬宮に至る」は、中間市の 岩瀬 のページへ
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当時は海に面した土地であろう地図(Flood Mapsの海面上昇:7m)と古遠賀湾(古代の遠賀川流域の推定図)は、 こちら
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