「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 『壬申の乱』 その舞台と経緯

※ 新説 日本書紀(第33回 飛鳥時代④/壬申の大乱)
 (令和5年2月3日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より
 「神功皇后紀を読む会」加来野 英俊氏作成のPowerPointを引用

(11)壬申の乱:開戦(7/3、7/4)

7/3 
倭京軍
 将軍(ふけ)()乃楽(なら)(やま)の上に駐屯。
 古京を赤麻呂、忌部(いみべの)(おびと)()(びと)に守らせる。赤麻呂ら、古京で、道路の橋の板を解体して、楯を作り、京の邊の(ちまた)に立てて守る。
7/4 ① 
倭京軍
 将軍吹負、近江に敗戦。
 東道将軍紀臣阿閉麻呂(あへまろ)、倭京将軍大伴連吹負が近江軍に敗れたと聞き、軍を分けて、置始(おきそめの)(むらじ)(うさぎ)に千餘騎を率いて、倭京に急行させた。
 吹負、軍を解散し、一・二人の騎士を連れて逃げ、墨坂にて(うさぎ)の軍に遭遇した。戻って金綱井に駐屯し、逃げ散った卒を招集した。
 近江軍が大坂道より到ると聞いて、将軍は軍を率いて西に向かった。当麻の衢に到って、壹伎(いきの)(ふびと)韓國(からくに)葦池の畔で戦う。来目(くめ)という勇士の御蔭で、近江軍は悉く敗走。
7/4 ② 
東道軍
 軍を分けて、上中下の道に当てて、駐させる。将軍は中の道へ。
 近江将、犬養連五十()(きみ)中道より来て村屋に留まり、別将廬井(いほゐの)(みやつこ)(くぢら)を二百名の精兵をつけて派遣、将軍の軍営を衝く。この時、麾下の軍勢が少なく防ぐことが難しかったが、大井寺の奴、徳麻呂等5人の弓で鯨の軍は進めなかった。  
 三輪君高市麻呂・置始連莵、上道に当たって、箸陵の下で戦う。近江軍に大勝。勝ちに乗って、鯨の軍の後ろを断ったので、鯨の軍はすべて解散して逃げ散った。鯨は辛うじて逃げることができた。
 伊勢からの紀阿閉麻呂等の本隊が続々到着してきた。

  ※ 7/3、7/4  開戦⑧  乃楽の戦い、葦池の戦い  

地図「(11)壬申の乱:開戦⑧」

7/3 倭京軍
・将軍吹負 乃楽山 の上に駐屯。
荒田尾直赤麻呂忌部(いみべの)(おびと)()(びと)①古京を守らせる。赤麻呂等、①古京で道路の橋を壊して盾を
 作り、京の辺の(ちまた)に立てる。

7/4 
・将軍吹負、近江の将大野君果安(はたやす) 乃楽山 で敗戦。
果安②八口まで追うが、山に登り①古京の様子を見て伏兵がいるかも知れないと察し戻る。
・東道将軍紀臣阿閉麻呂(あへまろ)吹負が敗走したことを知り、軍を分けて置始(おきそめの)(むらじ)(うさぎ)に命じ千余騎を
 率いさせ倭京へ急行させた。
吹負、一二の騎と敗走、③墨坂置始連莵率いる救援軍と遭遇、戻って④金綱井で逃げ散った
 卒を招集。
近江軍が大坂道より来ると聞き、一旦引いて軍を率い西へ向かう。
 当麻で壱伎(いきの)(ふびと)韓國(からくに) 葦池 の畔で戰う。来目という勇士の活躍に依り倭京軍は大勝し、近江軍
 は(ことごと)く敗走、韓国辛うじて逃げる。
・将軍吹負本営(中道)へ戻る。

  ※ 7/3、7/4  開戦⑨  箸墓の戦い  

地図「(11)壬申の乱:開戦⑨」
中つ道
七曲峠
本営

7/4 倭京軍
・軍を上中下の三軍に分け駐屯させる。
・近江軍将犬養連五十()(きみ)①中道より来て村屋に留まり、別将廬井(いほゐの)(みやつこ)(くぢら)に二百の精兵を付け、
 吹負 本営 を急襲。
 麾下の兵少なく危険に曝されるが、大井寺の奴徳麻呂等五人、先鋒として射ての軍進めず。
三輪君高市麻呂置始連莵②上道に当たり 箸墓 のもとで戦い近江軍に大勝。勝に乗じて
 の軍の後ろを断つ。の軍は散り散りになり、鯨一人辛うじて逃げる。
・吹負、また 本営 に戻る。以後近江軍遂に至らず。
・伊勢からの本隊紀阿閉麻呂等続々到着。

  「上中下の道」につきましては、講演『白村江の戦いと壬申の乱(令和元年12月1日)』で詳細に説明され
 ています。 こちら のページをご参照下さい。