「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 『壬申の乱』 その舞台と経緯

※ 新説 日本書紀(第33回 飛鳥時代④/壬申の大乱)
 (令和5年2月3日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より
 「神功皇后紀を読む会」加来野 英俊氏作成のPowerPointを引用

     講演動画は、 こちら からご視聴頂けます。

(1)大皇弟 = 大海子皇子(= 筑紫君(さち)野馬(やま)、後の天武天皇): 吉野宮へ ・・・   コース を示す

※ 「天武天皇紀・上 即位前紀」は、紀伝体型式で記されている。

 天智天皇十年((六七一年))九月に、天皇寝疾不予(みやまひ)したまふ。
 冬十月の甲子の朔壬午((十九日))に、東宮、天皇に見えて、吉野((山国町若宮八幡))に之りて、脩行仏道せむと請したまふ。天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ。大臣等侍へ送る。菟道((香春町阿曽隈社))に至りて還る。
          (天智天皇紀)
※(天智天皇)四年冬十月の壬午((十九日))に、吉野宮に入りたまふ。時に左大臣蘇賀赤兄臣右大臣中臣金連、及び(おほき)(ものまうす)(つかさ)蘇賀果安臣等送りたてまつる。菟道より還る。
 或の曰はく、「虎に翼を着けて放てり」といふ。
 是の夕に、嶋宮((大任町島台))に御します。癸未((二十日))に、吉野に至りて居します。
       (天武天皇摂政前紀)

(2)壬申の乱前夜

(天智天皇十年)十二月の癸亥の朔乙丑((三日))に、天皇近江宮に崩りましぬ。癸酉((十一日))に、新宮に殯す。   (天智天皇紀)
天武天皇元年((六七二年))(天武天皇摂政前紀)
    六月~八月 壬申の乱
5月 朴井(えのゐの)(むらじ)()(きみ)天武に奏上
近江朝
 美濃尾張から人夫を集め、彼らに武器を執らせた。
 近江京―倭京の間に斥候。宇道橋守に皇大弟宮の舎人の私用の粮を遮らせる。
6/22
天武天皇
 村国連()(より)和珥部(わにべの)(おみ)(きみ)()身毛君広(むげつきみひろ)に詔、美濃国()八磨(はちまの)(こほり)湯沐(ゆの)(うながし)(おほの)(おみ)(ほむ)()に当郡の兵を起こし、国司等に諸軍を発し、速やかに不破道を塞ぐこと

※2-1)美濃:八幡西区
※2-2)尾張:香春~福智町の間の山沿い
※2-3)湯沐(ゆの)(うながし):中宮・東宮への食封を取り仕切る役人

(3)天武の開戦準備(東国へ進発①): 6/24 吉野宮を出発 ・・・   コース を示す

6/24
天武天皇
 男依らを召し返すため、大分(おほきだの)(きみ)()(さか)()(ふみの)(みやつこ)大伴(おほとも)(あふの)(おみ)志摩(しま)を留守司高坂(たかさかの)(おほきみ)に、(うまやの)(すず)を乞わせる。不調の場合は志摩は報告に還ること、恵尺は近江へ行き、高市皇子、大津皇子を呼んで、伊勢で合流すること。
 即刻、東国に向けて徒歩で出発
 すぐ(あがた)犬養(いぬかい)連大伴の(くらおける)(うま)に遭遇、天皇は御駕。皇后は輿。
 津振(つふり)で車駕到着。この時までに従う者。草壁皇子、忍壁皇子 舎人(とねり)朴井(えのゐの)(むらじ)雄君(をきみ)、縣犬養連大伴、佐伯連大目(おほめ)、大伴連友國、(わか)(さくら)(べの)(おみ)五百瀬(いほせ)(ふみの)(おびと)()()()(ふみの)(あたひ)智徳(ちとく)山背(やましろの)(あたひ)小林(をばやし)山背部(やましろべの)小田(をだ)()(との)(むらじ)智徳(ちとこ)調(つきの)(おびと)淡海(あふみ)など二十数人。(めの)(わらは)十数人

(3)天武の開戦準備(東国へ進発②): 峠を越え、吾城から大野へ  ・・・   コース を示す

6/24
天武天皇
 菟田(うだ)(川崎町)の吾城(あき)到着。大伴連()()()()(ふみの)(みやつこ)大伴、吉野宮より追いつく。屯田(みたの)(つかさ)舎人(とねり)土師連馬手、従者たちの食事を提供。
 甘羅(かむら)(香春の一部か)を過ぎたところで、猟師二十数人と出会う。大伴(えの)(もとの)連大國が首。全員、供に追加。美濃王を呼び寄せ、供に追加。
 菟田郡家(ほとり)湯沐()の米を運ぶ伊勢國の駄五十匹に遇う。米を捨て、歩者乗る。
 大野犀川大坂):日没で暗く、進行できないので、その村の家の(まがき)を引き抜いて松明に。
 隠郡(なばりのこおり)(隠美濃か):夜半に到着。(なばりの)駅家(うまや)を焚く。
 伊賀郡:伊賀駅家を焚く。

※3-1)屯田:天皇の供御米を作る田。(赤村・我鹿神社所傳古謡集参照)
※3-2)莵田郡家:田原にあったか。その手前東田原から図に示すコースを通り、大坂
         山の上道を通り大野へ至る。

(3)天武の開戦準備(東国へ進発③): 横河に 6/24夜半に着く ・・・   コース を示す

 大野で日没、暗くて進めない為、村の家の(まがき)を壊して(ともしび)とした。隠郡に至り、(なばりの)駅屋(うまや)
焼く。村中に「天皇、東国に入ります、人夫(おおみたから)諸々出迎えよ」と呼びかけるが、誰も出て来な
かった。

※3-3)隠郡の駅屋:御所ヶ谷峠を越える手前か。(隠郡は、谷間にある)

(4)天武の開戦準備(東国へ進発④): 6/25 三重郡家に到着 ・・・   コース を示す

6/25 
天武天皇
 伊賀の中山:郡司等、数百の衆を率いて集まる。
 莿萩野(たらの)(等覚寺):夜明けに到着。しばらく食事休憩。
 積殖(つむえ)の山口香深(甲賀)越えの高市皇子一行と遭遇。 従者:(たみの)(あたひ)大火(おほひ)・赤染(みやつこ)徳足(とこたり)・大蔵(あたひ)廣隅(ひろすみ)・坂上直國麻呂・古市黒麻呂・竹田(だい)(とく)膽香瓦(いかごの)臣安倍。
 大山を越えて鈴鹿郡に至る。(くにの)(みこともちの)(かみ)三宅連石床(いはとこ)(すけ)三輪君子首(こびと)及び湯沐(ゆの)(うながし)田中臣(たり)麻呂(まろ)・高田臣新家(にひのみ)等と遭遇。五百人の兵で鈴鹿の山道を塞ぐ。
 川曲(かわわ)坂下(さかもと)で日暮れ。皇后の疲れを見てしばらく休憩。雨が降りそう。寒さ、雷、強雨で、従者達は着物が濡れ、寒さに堪えられなくなった。
 三重郡家に到着したところで、小屋を1軒燃やして暖を取らせる。夜半に鈴鹿の関司よりの使者、山部王・石川王を関に止めおいていると。天皇、(みちの)(あたひ)益人(ますひと)を迎えの使者として送った。

(5)天武の開戦準備(東国へ進発⑤): 6/26 桑名郡家に宿る ・・・   コース を示す

6/26 
天武天皇
 朝、朝明(あさけ)郡の迹太(とほ)(貫川)の辺で、天照大神を望拝。
 益人(ますひと)が(山部王・石川王でなく)大津皇子と共に戻る。
 従者:大分君(おほきだのきみ)恵尺(ゑさか)・難波吉士三綱・駒田(すぐり)忍人(おしひと)・山邊君安麻呂・小墾田(おはりだの)猪手(ゐて)泥部(はづかしべの)眂枳(しき)・大分君稚臣(わかみ)・根連金身・(ぬり)(べの)友背(ともせ)等の輩
 朝明郡家に到着寸前に男依が駅馬で、美濃の師三千人を発し、不破道を塞いだことを奏上。
 郡家に到着後直ちに高市皇子を派遣して、軍を統括させた。
 山背部(やましろべの)小田・安斗連阿加布を東海へ、稚桜部臣五百瀬・土師連馬手を東山道に派遣し、それぞれの軍を起こす。
 天皇、この日に桑名郡家に宿り、そこに留まる。

(6)壬申の乱:開戦前夜(近江朝側)

6/26 
近江朝
 大海人皇子の東国入りで京の内、大騒ぎ。
 大友皇子、ただちに大海人皇子を追撃という言に従わず。
 大友皇子東国倭京筑紫吉備國の4方面に挙兵の使者を派遣。
 筑紫大宰栗隈王は兵を動かさず、佐伯連(をとこ)空しく還る。
吹負(ふけひ)
 病と称して、倭京の家に退出。情勢を見て、大海人皇子が優勢と知る。
 馬来田(まぐた)天皇に従う。吹負(ふけひ)はまず手柄を立ててからと、同族や豪傑数十人を集める。

(7)天武の開戦準備(東国へ進発⑥): 6/27 行宮を野上に起こす ・・・   コース を示す

6/27 
吹負(ふけひ)
 高市皇子より桑名郡家に使者。御所が遠くて連絡が不便。
天武天皇
 皇后桑名に留めて、不破に入り給う。
 天皇不破郡家に到着目前に尾張國(みこともちの)(かみ)(ちひさ)()(べの)(むらじ)鉏鉤(さひち)、二萬の兵を率いて参加。その軍を分けてあちこちの道を塞ぐ。  野上(のがみ)(河内ダム付近)に到るころ、高市皇子和蹔(わざみ)上事役(こうじゃく))よりお迎えに上がる。
 昨夜、近江朝よりの(ふみの)(あたひ)(くすり)忍坂直大麻呂を捕える。磐鍬(いはすき)は逃げ帰った。…
 皇子和蹔(わざみ)に帰る。
 天皇:行宮を野上(のがみ)に起こす。
6/28 
天武天皇
 和蹔(わざみ)にお出でになり、軍事について検査し、考えられる。

(8)壬申の乱:開戦(6/29) ・・・   コース を示す

6/29 
天武天皇
 天皇和蹔(わざみ)にお出でになり、高市皇子に命令を下すとともに、軍衆に号令をおかけになった。
 野上に帰還。
 
吹負(ふけひ)
 留守司坂上(あたひ)熊毛(くまけ)と内応を図る。((はたの)(みやつこ)(くま)、1人、2人の(あやの)(あたひ)等)
 近江の使者:穂積(ほづみの)(おみ)百足(ももたり)小墾田(をはりだ)の兵庫で、兵を近江へ運ぶ)を斬る。  
 穂積(おみ)五百枝(いほえ)・物部(おびと)日向(ひむか)―捕えたが、しばらくして赦し、軍中に置く。
 高坂王・稚狭(わかさの)王―軍に従わせる。
 大伴連安麻呂、坂上直(おきな)佐味(さみの)(きみ)宿(すく)()()()等を不破宮に遣し、報告。
天武天皇
 吹負(ふけひ)を将軍にする―三輪君高市麻呂、(かもの)(きみ)蝦夷(えみし)等、大勢の豪傑が配下に―近江を攻撃。

(9)壬申の乱:開戦(7/1、7/2 ②) ・・・   コース を示す

7/1 
倭京軍
 吹負ら、まず乃楽(なら)に向かう。
 将軍吹負、乃楽に向かって稗田に到った日、河内から軍兵が多数やって来るという情報がもたらされた。
 坂本臣(たから)・長尾直眞墨(ますみ)倉墻(くらかきの)直麻呂・民直小鮪(をしび)・谷直根麻呂に3百人の軍士をつけて、龍田(高安城:馬ヶ岳)を防御させる。
 佐味(さみの)(きみ)(すくな)麻呂(まろ)に数百人つけて、大坂に駐屯させた。
 鴨君蝦夷(えみし)に数百人つけて、石手道(いわてのみち)(仲哀峠か?)を守らせた。
 坂本臣財等は(ひら)(しの)()に宿営することにしていたが、近江の軍が高安城に居ると聞いて出発した。近江軍は(たから)等が来ると聞いて、税倉を悉く焼いて、散り散りに逃げ去っていた。そこで高安城で宿営した。
7/2 ② 
東道軍
 (きの)(おみ)阿閉麻呂(あへまろ)(おほの)(おみ)品治(ほむぢ)三輪(みわの)(きみ)()(びと)(おき)(そめの)(むらじ)(うさぎ):数万の衆、伊勢大山を越えてへ。
 (おほの)(おみ)品治(ほむぢ)は三千の兵とともに莿萩野(たらの)に駐屯させる。
 田中臣(たり)麻呂(まろ)倉歷道(くらふのみち)を守らす。
倭京軍
 高安城より曙に西の方を臨むと、大津丹比の両道より多数の軍兵が押し寄せる。近江の将、壹伎(いきの)(ふびと)韓國(からくに)の軍とのこと。
 (たから)()高安城より降りて衛我河(えがのかわ)を渡って、韓國(からくに)と河の西で戦うが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。
 (きの)(おみ)大音(おおね)が守っている(かしこの)(さかの)(みち)に退いて、大音(おおね)の軍営にいる。
 河内國(みこともちの)(かみ)来目(くめの)(おみ)(しほ)()、不破宮に帰順しようとして、発覚。自殺。

(10)壬申の乱:開戦(7/2 ①) ・・・   コース を示す

7/2 ① 
不破軍
 村國(むらくにの)(むらじ)男依(をより)(ふみの)(おびと)根麻呂(ねまろ)和珥(わに)(べの)(おみ)(きみ)()膽香瓦(いかごの)(おみ)安倍(あへ):数万の衆を率て、不破より出でて直に近江に入らしむ。近江軍と識別するため赤色の印を付けさせる。
近江軍
 山部王、蘇我臣果安(はたやす)巨勢(こせの)比等(ひと):数万、犬上川に布陣。
 山部王、蘇我臣果安・巨勢臣比等の為に殺される。この乱で進軍できず、蘇我臣果安、犬上より返って自死す。
 近江、精兵により、忽ち玉倉部邑を攻撃するも、出雲臣(こま)により反撃され、追い出される。
不破軍
 近江の将軍、羽田(はたの)(きみ)()(くに)、その子大人(うし)()、己が族を率いて来降。(おの)(まさかり)を授け、将軍に拝し、北越に入らしむ。

(11)壬申の乱:開戦(7/3、7/4) ・・・   コース を示す

7/3 
倭京軍
 将軍(ふけ)()乃楽(なら)(やま)の上に駐屯。
 古京を赤麻呂、忌部(いみべの)(おびと)()(びと)に守らせる。赤麻呂ら、古京で、道路の橋の板を解体して、楯を作り、京の邊の(ちまた)に立てて守る。
7/4 ① 
倭京軍
 将軍吹負、近江に敗戦。
 東道将軍紀臣阿閉麻呂(あへまろ)、倭京将軍大伴連吹負が近江軍に敗れたと聞き、軍を分けて、置始(おきそめの)(むらじ)(うさぎ)に千餘騎を率いて、倭京に急行させた。
 吹負、軍を解散し、一・二人の騎士を連れて逃げ、墨坂にて(うさぎ)の軍に遭遇した。戻って金綱井に駐屯し、逃げ散った卒を招集した。
 近江軍が大坂道より到ると聞いて、将軍は軍を率いて西に向かった。当麻の衢に到って、壹伎(いきの)(ふびと)韓國(からくに)葦池の畔で戦う。来目(くめ)という勇士の御蔭で、近江軍は悉く敗走。
7/4 ② 
東道軍
 軍を分けて、上中下の道に当てて、駐させる。将軍は中の道へ。
 近江将、犬養連五十()(きみ)中道より来て村屋に留まり、別将廬井(いほゐの)(みやつこ)(くぢら)を二百名の精兵をつけて派遣、将軍の軍営を衝く。この時、麾下の軍勢が少なく防ぐことが難しかったが、大井寺の奴、徳麻呂等5人の弓で鯨の軍は進めなかった。  
 三輪君高市麻呂・置始連莵、上道に当たって、箸陵の下で戦う。近江軍に大勝。勝ちに乗って、鯨の軍の後ろを断ったので、鯨の軍はすべて解散して逃げ散った。鯨は辛うじて逃げることができた。
 伊勢からの紀阿閉麻呂等の本隊が続々到着してきた。

(12)壬申の乱:開戦(7/5、7/6) ・・・   コース を示す

7/5 
近江軍
 近江の別将、田邊小隅(をすみ)鹿深(かふかの)を越え、こっそり倉歷(くらふ)に到る。夜半に軍営を急襲。
東道軍
 足麻呂側の陣は乱れ、足麻呂のみ免れた。
7/6 
近江軍
 小隅、莿萩野(たらの)を急襲したが、(おほの)(おみ)品治(ほむぢ)がよく防いで、精兵により追撃した。
 小隅はようやく逃れ、再び襲ってくることはなかった。

(13)壬申の乱:開戦(7/7〜7/22-①) ・・・   コース を示す

7/7 
不破軍
 男依(をより)等、近江軍と戦って、息長(おきなが)の横河(黒川)に破り、その将の境部(さかひべの)(むらじ)(くすり)を斬った。
7/9 
不破軍
 男依等、近江の将、秦友足(ともたり)鳥籠山(とこのやま)(高尾山?)で討伐して斬る。
7/13 
不破軍
 男依等、安河の濱の戦いで大勝。社戸(こそへの)(おみ)(おほ)(くち)土師(はじの)(むらじ)千嶋(ちしま)を捕獲。
7/17 
不破軍
 栗太(くるもと)の軍を討伐しながら追う。
7/22 ① 
不破軍
 男依等、瀬田に到る。大友皇子および群臣が橋の西側に大きな陣を張っていた。

(14)壬申の乱:開戦(7/22-②、7/23)  コース を示す

& (15)天智の死の疑義    コース を示す

7/22 ② 
不破軍
 近江の将智尊(ちそん)が精兵を率い先鋒として、不破軍の侵入を防いでいたが、大分(おほきだの)(きみ)(わか)()という勇敢な士が、敵陣中に飛び込むと、忽ち、敵陣は乱れ、散り散りになり、大友皇子、左右の大臣たちも辛うじて逃げることができた。
 男依等、粟津(あはずの)(をか)(もと)に軍をまとめた。
 羽田(はたの)(きみ)矢國(やくに)出雲(いづもの)(おみ)(こま)三尾(みを)を攻撃して降参させた。
倭京軍
 将軍吹負、の地を平定し終わったので、大坂を越えて、難波に行った。彼以外の別将たちは、各々上中下の三つの道を進んで、(やま)(さき)に到って、川の南に駐屯した。
 将軍吹負は難波の小郡(をごほり)に留まって、以西の國司に官鑰(かぎ)驛鈴(すず)・傳印を進上させた。
7/23 
不破軍
 男依(をより)等、近江の将、犬養連五十()(きみ)および(たにの)(あたい)盬手(しほて)粟津(あはづの)(いち)に斬る。
近江朝
 秋七月庚寅朔壬子((二十三日))に、大友皇子、逃げて入らむ所無し。乃ち還りて山前(やまさき)に隠れて、自ら縊れぬ
※ 扶桑略記第五(天智天皇九年)
 十二月三日。天皇崩。同十二月五日。大友皇太子。即為帝位。生年廿五。一云。天皇駕馬。幸山階郷。更無還御。永交山林。不レ知崩所。只以履沓落處山陵。以往諸皇不因果。恒事煞害

(16)壬申の乱:吹負のその後の行動 ・・・   コース を示す

上記「7/22-②」の記載通り、 倭京軍の将軍 吹負は、 山前(やまさき) へは進軍せず。

(17)壬申の乱:戦後処理

8/25 
 八月庚申朔甲申、命高市皇子、宣近江群臣犯状。則重罪八人坐極刑。仍右大臣中臣連金於淺井田根。是日、左大臣蘇我臣赤兄・大納言巨勢臣比等及子孫、并中臣連金之子蘇我臣果安之子配流以餘悉赦之。 ・・・
 高市皇子、近江の群臣の罪状を宣告、重罪8人を死刑。右大臣中臣連金を浅井の田根にて斬る。左大臣蘇我臣(あか)()・大納言巨勢(こせの)()()、および子孫、中臣連金の子、蘇我臣果安(はたやす)の子を配流。その他はすべて赦す。
 これ以前に、尾張國(みこともちの)(かみ)(ちさひ)()(べの)(むらじ)(さひ)()は山に匿れて自死。
8/27 
 有功者たちを賞め、寵を与える。

(18)天武凱旋 と 飛鳥浄御原宮遷都 ・・・   コース を示す

9/8 
 車駕帰還の途につかれる。伊勢の桑名に宿り給う。
9/9 
 鈴鹿に宿り給う。
9/10 
 阿閉(あへ)に宿り給う。
9/11 
 名張に宿り給う。
9/12 
 倭京に到り、嶋宮に御す。
9/15 
 嶋宮より岡本宮に移る。
天武天皇元年(六七二) 
 是歳、宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御(きよみ)(はらの)と謂ふ。

(19)天武崩御と壬申の乱のまとめ

天武天皇十五年((六八六))
 六月の戊寅((十日))に、天皇の病を(うらな)ふに、草薙劒に祟れり。即日に、尾張国の熱田社に送り置く。
鳥元年((六八六)) 
 九月丙午((九日))に、天皇の病、遂に()えずして、正宮に崩りましぬ。
 以上をまとめると、壬申の乱は、確実に、「最後の豊国北伐」である。
 万が一、天智天皇の死が織幡神社突端の岬からの入水自殺の結果であれば、壬申の乱は「豊君の天智天皇」と「大海人皇子=筑紫君薩野馬」との直接の争いであった可能性が高い。
 勝利した天武が三種の神器の中心である草薙の剣に祟られて病死する様は、日本書紀中最も特筆大書されるべきであろう。