「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 『壬申の乱』 その舞台と経緯

※ 新説 日本書紀(第33回 飛鳥時代④/壬申の大乱)
 (令和5年2月3日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より
 「神功皇后紀を読む会」加来野 英俊氏作成のPowerPointを引用

(14)壬申の乱:開戦(7/22-②、7/23)

7/22 ② 
不破軍
 近江の将智尊(ちそん)が精兵を率い先鋒として、不破軍の侵入を防いでいたが、大分(おほきだの)(きみ)(わか)()という勇敢な士が、敵陣中に飛び込むと、忽ち、敵陣は乱れ、散り散りになり、大友皇子、左右の大臣たちも辛うじて逃げることができた。
 男依等、粟津(あはずの)(をか)(もと)に軍をまとめた。
 羽田(はたの)(きみ)矢國(やくに)出雲(いづもの)(おみ)(こま)三尾(みを)を攻撃して降参させた。
倭京軍
 将軍吹負、の地を平定し終わったので、大坂を越えて、難波に行った。彼以外の別将たちは、各々上中下の三つの道を進んで、(やま)(さき)に到って、川の南に駐屯した。
 将軍吹負は難波の小郡(をごほり)に留まって、以西の國司に官鑰(かぎ)驛鈴(すず)・傳印を進上させた。
7/23 
不破軍
 男依(をより)等、近江の将、犬養連五十()(きみ)および(たにの)(あたい)盬手(しほて)粟津(あはづの)(いち)に斬る。
近江朝
 秋七月庚寅朔壬子((二十三日))に、大友皇子、逃げて入らむ所無し。乃ち還りて山前(やまさき)に隠れて、自ら縊れぬ
※ 扶桑略記第五(天智天皇九年)
 十二月三日。天皇崩。同十二月五日。大友皇太子。即為帝位。生年廿五。一云。天皇駕馬。幸山階郷。更無還御。永交山林。不レ知崩所。只以履沓落處山陵。以往諸皇不因果。恒事煞害

  ※ 7/22〜7/23  開戦➉-2  勢田の戦い、大友皇子縊死(いし)  

地図「(14)壬申の乱:開戦➉-2」

不破軍
7/22
・近江の将智尊(ちそん)、精兵を以て先鋒とし、橋の中ほどを断ち板を渡す。
大分(おほきだの)(きみ)(わか)()という勇士が橋板を渡り敵陣中に斬りこみ後続続き、敵陣は大混乱に陥る。
大友皇子左右大臣は辛うじて逃げた。
男依等、粟津岡の下に陣を敷く。
羽田(はたの)(きみ)矢國(やくに)出雲(いづもの)(おみ)(こま)三尾城を攻め落とした。

倭京軍
7/22
・(将軍吹負以外の)別将たちは各々上・中・下の各道山前(やまさき)に向かって進軍、山前に至り川の
 南に駐屯した。

※ 14-2)上・中・下の各道:現田川市郡と飯塚を結ぶ道であり、南から順に上・中・下であろう。
※ 14-3)山前:小竹町山崎

  「上中下の道」につきましては、講演『白村江の戦いと壬申の乱(令和元年12月1日)』で詳細に説明されて
 います。 こちら のページをご参照下さい。

不破軍近江軍
7/23
男依等、近江の将犬養連五十()(きみ)及び(たにの)(あたい)塩手(しほて)を粟津市に斬る。
左右大臣群臣は散り散りに逃げた。
大友皇子、逃げるも隠れる所無し。山前(やまさき)にて縊死(いし)
物部連麻呂一二の舎人は帰順。

不破軍近江軍
7/24
将軍たちは悉く筱浪に会合、左右大臣諸々の罪人を探し出して捕えた。

不破軍近江軍
7/26
将軍たち不破行宮に向かい、大友皇子の首級を捧げ、軍営の前に献上した。 ⇒    終戦