「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 『壬申の乱』 その舞台と経緯

※ 新説 日本書紀(第33回 飛鳥時代④/壬申の大乱)
 (令和5年2月3日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より
 「神功皇后紀を読む会」加来野 英俊氏作成のPowerPointを引用

(4)天武の開戦準備(東国へ進発④): 6/25 三重郡家に到着

6/25 
天武天皇
 伊賀の中山:郡司等、数百の衆を率いて集まる。
 莿萩野(たらの)(等覚寺):夜明けに到着。しばらく食事休憩。
 積殖(つむえ)の山口香深(甲賀)越えの高市皇子一行と遭遇。 従者:(たみの)(あたひ)大火(おほひ)・赤染(みやつこ)徳足(とこたり)・大蔵(あたひ)廣隅(ひろすみ)・坂上直國麻呂・古市黒麻呂・竹田(だい)(とく)膽香瓦(いかごの)臣安倍。
 大山を越えて鈴鹿郡に至る。(くにの)(みこともちの)(かみ)三宅連石床(いはとこ)(すけ)三輪君子首(こびと)及び湯沐(ゆの)(うながし)田中臣(たり)麻呂(まろ)・高田臣新家(にひのみ)等と遭遇。五百人の兵で鈴鹿の山道を塞ぐ。
 川曲(かわわ)坂下(さかもと)で日暮れ。皇后の疲れを見てしばらく休憩。雨が降りそう。寒さ、雷、強雨で、従者達は着物が濡れ、寒さに堪えられなくなった。
 三重郡家に到着したところで、小屋を1軒燃やして暖を取らせる。夜半に鈴鹿の関司よりの使者、山部王・石川王を関に止めおいていると。天皇、(みちの)(あたひ)益人(ますひと)を迎えの使者として送った。

  ※ 6/24朝 吉野宮を出発した一行は、6/25朝、莿萩野へ到着。  

 *馬にも乗っているが、ここまで 101km歩行速度4~5km⁄ hとしても相当強行軍

  横河~18km~伊賀郡家(平尾台自然観察センター)~3km~伊賀中山(中峠)~4km~莿萩野(等覚寺)
  ~4km~積殖山口~6km~大山(高城山)~2km~川曲坂本~2km~鈴鹿関~2km~ 三重郡家(朽網)

 *大野~莿萩野まで44km

地図「(4)天武の開戦準備(東国へ進発①): 6月24日 吉野宮を出発」

 ① 横河~伊賀郡家までのコース  ・・・  黄線 のコースか?   赤線 のコースか?
 * 黄線 がこれまでの経路、 青の部分 が池田池、 赤線 が新しく想定した経路。距離は若干 赤線 の方が短い。
   黄線 のコースであれば、『仁徳紀』「十三年冬十月 和珥池を造る。是の月、横野堤を築く。」の記録が、
  池田堤であるなら、この時代まで残っていたとすると横河~伊賀郡家までのコースも違うのではないか?
  上図は、 赤線 のコースで示しており、横河~諫山~伊賀郡家となる。

地図「横河~伊賀郡家までのコース」

 黄線 のコース
 横河から平尾台への分岐

写真「横河から伊賀郡家への分岐」

正面:幸の山

写真「横河から伊賀郡家への分岐」

左:塔ヶ峰

 ② 平尾台自然観察センター案内板(御陵山、中峠)

写真「平尾台自然観察センター案内板」

 ③ 等覚寺地区 

写真「等覚寺観光案内図」

 ③ 等覚寺地区から ④ 高城山(大山)を望む 

写真「等覚寺地区から高城山(大山)を望む」

 ④ 京都トンネル(高城山の下を抜ける)

写真「京都トンネル」

 ② 伊賀郡家~ ⑤ 川曲坂本(宇原神社)までの位置関係 

地図「伊賀郡家~川曲坂本(宇原神社)までの位置関係」
② 伊賀郡家
③ 莿萩野 6/25朝
積殖の山口
④ 大山
⑤ 川曲の坂下
  6/25日没

 ④ 大山(京都峠・旧道)

写真「京都峠・旧道」
写真「京都峠・旧道」