「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 『壬申の乱』 その舞台と経緯

※ 新説 日本書紀(第33回 飛鳥時代④/壬申の大乱)
 (令和5年2月3日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より
 「神功皇后紀を読む会」加来野 英俊氏作成のPowerPointを引用

(16)壬申の乱:吹負のその後の行動

7/22 ② 
不破軍
 近江の将智尊(ちそん)が精兵を率い先鋒として、不破軍の侵入を防いでいたが、大分(おほきだの)(きみ)(わか)()という勇敢な士が、敵陣中に飛び込むと、忽ち、敵陣は乱れ、散り散りになり、大友皇子、左右の大臣たちも辛うじて逃げることができた。
 男依等、粟津(あはずの)(をか)(もと)に軍をまとめた。
 羽田(はたの)(きみ)矢國(やくに)出雲(いづもの)(おみ)(こま)三尾(みを)を攻撃して降参させた。
倭京軍
 将軍吹負の地を平定し終わったので、大坂を越えて、難波に行った。彼以外の別将たちは、各々上中下の三つの道を進んで、(やま)(さき)に到って、川の南に駐屯した。
 将軍吹負は難波の小郡(をごほり)に留まって、以西の國司に官鑰(かぎ)驛鈴(すず)・傳印を進上させた。

  ※ 7/22  以降の吹負の行動

地図「(16)壬申の乱:吹負のその後」

倭京軍
7/22
・将軍吹負倭の地を平定。大坂を越え、①難波の小郡に至る。
・将軍吹負①難波小郡に留まり、以西の国司等に官鑰(かぎ)驛鈴(すず)伝印を進上させた。

※ 将軍吹負は、倭を平定。中道(七曲峠)を越えて、①難波の小郡(現・須磨園)へ入り、周防
 灘沿いの各国・紀(現築上町)・上毛野(現・豊前市・上毛町)、下毛野(現・中津市)等の
 国司に官鑰駅鈴伝印を提出させた。

 天武の凱旋準備もあったであろう。

 これらの国は、近江軍飛鳥川(現・今川)下流域に上陸したことに依り、参戦出来なかった。
 結果として、秦氏等は早く東遷せざるを得なかったか。

  「上中下の道」につきましては、講演『白村江の戦いと壬申の乱(令和元年12月1日)』で詳細に説明されて
 います。 こちら のページをご参照下さい。