「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 『壬申の乱』 その舞台と経緯

※ 新説 日本書紀(第33回 飛鳥時代④/壬申の大乱)
 (令和5年2月3日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より
 「神功皇后紀を読む会」加来野 英俊氏作成のPowerPointを引用

(12)壬申の乱:開戦(7/5、7/6)

7/5 
近江軍
 近江の別将、田邊小隅(をすみ)鹿深(かふかの)を越え、こっそり倉歷(くらふ)に到る。夜半に軍営を急襲。
東道軍
 足麻呂側の陣は乱れ、足麻呂のみ免れた。
7/6 
近江軍
 小隅(をすみ)莿萩野(たらの)を急襲したが、(おほの)(おみ)品治(ほむぢ)がよく防いで、精兵により追撃した。
 小隅はようやく逃れ、再び襲ってくることはなかった。

  ※ 7/5、7/6  開戦⑦  中峠の戦い  (東道軍の別動隊・多臣品治の動向)

地図「(12)壬申の乱:開戦⑦」
別動隊 多臣品治の進路
近江軍 田辺小隅の進路

7/5
東道軍の別動隊 (おほの)(おみ)品治(ほむぢ)は三千の兵を率い、積殖(つむえ)の山口から分かれ莿萩野(たらの)に駐屯。
 近江軍の別将田辺小隅(をすみ)率いる兵が鹿深(かふかの)山(福智山系・甲賀)を越え、倉歴(くらふ)に到り、
 先遣隊として野営していた田中臣足麻呂の軍へ夜襲を掛ける。
 隙を突かれた軍営は大混乱に陥り、只田中臣足麻呂一人だけ合言葉「金」と言って逃げ、
 多臣品治の軍と合流。

7/6
田辺小隅、なおも②莿萩野の本営を突こうとするも、多臣品治の軍に逆に反撃され、田辺
 小隅
一人のみ逃げ返り、以後再び来ることは無かった。