「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 『壬申の乱』 その舞台と経緯

※ 新説 日本書紀(第33回 飛鳥時代④/壬申の大乱)
 (令和5年2月3日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より
 「神功皇后紀を読む会」加来野 英俊氏作成のPowerPointを引用

(9)壬申の乱:開戦(7/1、7/2 ②)

  ※ 6/29 開戦③ 戦端開く 

将軍吹負は、①飛鳥寺から②稗田へ向かい、諸将を分け方々の守備を命じ、上つ道から③乃楽へ進軍。

地図「(8)壬申の乱 開戦③:6/29 戦端開く」
上つ道

 ③ 田川市奈良の台地(後方:大坂山) 

写真「田川市奈良の台地、後方は大坂山」

※ 8-1)平石野:御所ヶ谷を下ったあたり  
※ 8-2)④高安城:馬ヶ岳山頂  
※ 8-3)河内:祓川以西のことか。

7/1 
倭京軍
 吹負ら、まず乃楽(なら)に向かう。
 将軍吹負、乃楽に向かって稗田に到った日、河内から軍兵が多数やって来るという情報がもたらされた。
 坂本臣(たから)・長尾直眞墨(ますみ)倉墻(くらかきの)直麻呂・民直小鮪(をしび)・谷直根麻呂に3百人の軍士をつけて、龍田(高安城:馬ヶ岳)を防御させる。
 佐味(さみの)(きみ)(すくな)麻呂(まろ)に数百人つけて、大坂に駐屯させた。
 鴨君蝦夷(えみし)に数百人つけて、石手道(いわてのみち)(仲哀峠か?)を守らせた。
 坂本臣財等は(ひら)(しの)()に宿営することにしていたが、近江の軍が高安城に居ると聞いて出発した。近江軍は(たから)等が来ると聞いて、税倉を悉く焼いて、散り散りに逃げ去っていた。そこで高安城で宿営した。
7/2 ② 
東道軍
 (きの)(おみ)阿閉麻呂(あへまろ)(おほの)(おみ)品治(ほむぢ)三輪(みわの)(きみ)()(びと)(おき)(そめの)(むらじ)(うさぎ):数万の衆、伊勢大山を越えてへ。
 (おほの)(おみ)品治(ほむぢ)は三千の兵とともに莿萩野(たらの)に駐屯させる。
 田中臣(たり)麻呂(まろ)倉歷道(くらふのみち)を守らす。
倭京軍
 高安城より曙に西の方を臨むと、大津丹比の両道より多数の軍兵が押し寄せる。近江の将、壹伎(いきの)(ふびと)韓國(からくに)の軍とのこと。
 (たから)()高安城より降りて衛我河(えがのかわ)を渡って、韓國(からくに)と河の西で戦うが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。
 (きの)(おみ)大音(おおね)が守っている(かしこの)(さかの)(みち)に退いて、大音(おおね)の軍営にいる。
 河内國(みこともちの)(かみ)来目(くめの)(おみ)(しほ)()、不破宮に帰順しようとして、発覚。自殺。

  ※ 7/1 〜 7/2_②  開戦④  衛我河(えがのかわ)の戦い  

 ・・・ 「矢印の中抜き」は、敗戦を示す

地図「(9)壬申の乱:開戦(7/1〜7/2 ②)」
坂本臣財
紀臣大音
壱伎史韓国

7/1
 将軍吹負の別動隊・坂本臣(たから)等は平石(ひらしの)()に宿営することにしていたが、近江軍が①高安城
 いると聞き進軍。
 ②高安城では等が来ると知り、税倉を焼き散り散りに逃げ去った為、城内に宿営した。

7/2
 曙に②高安城から西方を見ると、大津・丹比両方の道から多数の軍兵が押し寄せる。近江の将壱伎(いきの)
 (ふびと)韓国(からくに)
とのこと。
 等、②高安城を下り 衛我(ゑがの) を渡り川の西で戦うも、多勢に無勢で防ぎきれず、紀臣大音(おほね)が守備
 する(かしこ)坂道(石手道・七曲峠)まで撤退、軍営に加わる。

※ 近江軍は陸路が封鎖で使えない為、船で飛鳥川河口(現・今川)から上陸した。
 9-1)大津道:今川沿い
 9-2)丹比道:椿市~勝山黒田~稗田~今川

 河内国司守来目(くめの)塩籠(しほこ)は、兵を集め不破軍に帰順しようとした事が韓国に発覚、自死。

  ※ 7/2_⑥  開戦⑥  

地図「(9)壬申の乱:開戦(7/2 ⑥)」
大山

7/2
 天武帝紀臣阿閉麻呂多臣品治三輪君子首置始連莵・等数万の兵を率い、①伊勢の大山
 越え、倭京へ進発を命じる。

 積殖(つむえ)の山口多臣品治、三千の兵を率い、莿萩野(たらの)に駐屯。田中臣足麻呂倉歴道(くらふのみち)の守備を
 命じる。