「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 倭国大乱は呉越の戦い⁉
 (令和元年10月6日(日)、久留米大学公開講座(郷土の民俗古代史 2019)より

 倭国大乱は呉越の戦い⁉

■ 倭国大乱は、手研耳命の暗殺により始まる

● 綏靖天皇から崇神天皇までが、倭国大乱の時代

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
綏靖天皇
 倭国大いに乱れ、歴年((146~189))主無し
手研(たぎし)耳命(みみのみこと) 暗殺さる
136年春3月 
「神日本磐余彦天皇崩ず。
 時に神渟名川耳尊、特に心を喪葬
 の事に留む。
 其の庶兄(いろね)手研耳命、行年(すで)()
 て、久しく朝機を()たり」。
139年 
「(手研耳命、)(ふたり)の弟を害せむこ
 とを図る。時に、太歳(おおとし) 己卯( つちのとう)」。

 

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
綏靖天皇
犀川よ 雲立ちわたり
 畝尾山 木の葉さやぎぬ
 風吹かむとす
 神渟名川耳尊がその兄の持つ弓矢を
取って、手研耳命を射る
 一の矢が胸にあたり、二の矢が背に
あたり、ついに殺した。
綏靖の陵
 (やまと)桃花鳥田(つきだの)丘上(おかのうえの)(みささぎ)(田川市糒
の天神山古墳4基中の一か、附近に月
ノ輪)に葬る

 

● 香春町宮原に大きな前方後円墳跡がある

・・・ 香春町の宮原にGoogleマップで、大きな前方後円墳の跡が見られる。この辺りから甕棺が出土した
   記録が残っている。前方後円墳の跡の周りに道路とかぶさるように堀らしき跡も見えている。
    ここの記録を遡っても埴輪が発見されていない事が、意外と重要である。

倭国大乱時の「冢」か(1)
Google Earth「香春町宮原」

宮原遺跡

香春町宮原 170m

 

倭国大乱時の「冢」か(2)
Google Earth「香春町宮原」

宮原遺跡

 

倭国大乱時の「冢」か(3)
Google Earth「香春町宮原」

宮原遺跡

 

・・・ ここの遺跡は、かなり古い。後漢鏡である内行花文鏡が出土している。
    邪馬台国近畿説の人たちは、奈良県のホケノ山古墳が一番古いというが、香春町の宮原遺跡
   (古墳?)が絶対に100年位古い。
    奈良県を基準にしないで、福岡県を基準にすれば、古墳が造られたのはもっと前になる。

倭国大乱時の「冢」か
弥生中期~後期
宮原遺跡(古墳?)
田川郡香春町
箱式石棺4
 (大型石棺) 舶載大型鏡1
 (大型石棺) 仿製小型内行花文鏡1
 (大型石棺) 鉄剣(刀)
 (大型石棺)内行花文鏡2
 (大型棺) (大小各1)後漢鏡後半
3世紀中葉
ホケノ山古墳
桜井市箸中
帆立貝形前方後円墳 全長90m 
石囲い木槨 舟形木棺
(木槨内)画文帯同向式神獣鏡1
(足 元)素環頭太刀など刀剣類5
(木槨外?)半肉彫り神獣鏡 
(木槨外?)内行花文鏡等の鏡片23

100年以上

の隔たり

⇔
「ホケノ山古墳」
Google Earth「香春町宮原」

*.インターネット上の画像

 

・・・ 前方後円墳跡の近くから4基石棺か出土されたそうである。

倭国大乱時の「冢」か
「箱式石棺墓(香春町歴史資料館)」

石棺

 

● 倭国大乱を鎮めるために「倭の国を最初に建てた大物主」を祀った崇神天皇

・・・ 西暦174年に崇神天皇は、即位したのではないだろうか。
    ここの記事に大物主が、登場する。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇
174年、祟神天皇即位。
178年、「国内に疫病が多く、民の
  大半が死亡する
。」
179年、「人民が流浪し、ある者は
  反乱した

  天皇は天照大神・(やまと)大国魂(おおくにたま)(=
  大物(おおもの)(ぬしの)(かみ)、二神を、宮殿内に共
  に祭り、(あまつかみ)  (くにつかみ)に罪を請う
  た。」
180年春、「時に大物主神が、神明(あまてらす)
  (やまと)迹迹日(ととび)百襲(ももそ)姫命(ひめのみこと)に憑いて、我
  を祭らば国は治まるであろうと告
  げた
。神の教えのとおりに祭った
  が霊験はなかった。」

 

・・・ 神明倭迹迹日百襲姫命が祭ったが、収まらなかったので、次に大田田根子を捜してきて祭らせた。
   大田田根子のいた処は、茅渟県の陶邑は、宗像市須恵である。

    『日本書紀』にある疫病が終息して、人民が賑わった時に詠われた歌(やまと)成す 大物主
   「倭の国をお創りになった大物主」であり、神武天皇が建てた倭王朝の前に筑豊には、大物主が
   倭の国を建てていると詠われている。
    神武天皇が滅ぼした国で、元から祀られていた神であろう。倭の国の神様を祀る事が人々の幸せに
   繋がるという事で、崇神天皇は、諡の通り神様を崇め奉ることしか為さらなかった天皇である。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇
180年秋、「天下に布告し、大田(おおた)田根子(たねこ)
  を求めると茅渟(ちぬの)(あがた)陶邑(すえのむら)宗像市須
  恵
)に彼を捜し当て、11月に大物主
  神を祭らせた

  すると、疫病が初めて終息し、国内が
  次第に静まり、五穀がみのり、人民が
  賑わった
。」
 この神酒(みき)は わが神酒ならず
 (やまと)成す 大物主
 ()みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久
183年武埴安彦(たけはにやすびこ)の乱。
184年、四道将軍が、戎夷(ひな)を平定。
霊帝の光和(178~184)中、
  倭国乱相攻伐歴年