「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
倭国大乱は呉越の戦い⁉
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アウフヘーベン(止揚)
矛盾、
ジレン
マ
ジンテーゼ(総合命題)倭国=豊国説
記紀は豊国中心の史書(倭国~日本国の歴史)
英彦山から沖ノ島までの遠賀川流域が倭国
合 神武・卑弥呼・神功・天智は豊国側の王
倭の五王と阿毎多利思比孤・天武は筑紫側の王
壬申の乱も豊国での戦い
テーゼ(命題)九州王朝論
邪馬壱国博多湾岸説
記は正しく書紀は偽書
神武は奈良県に東征した
正 東鯷国所在不明
狗奴国所在不明
水沼皇都の比定なし
万葉集に九州人の歌なし
アンチテーゼ(反命題)豊前王朝論
邪馬台国田川説
記紀はともに正しい
神武は筑豊に東征した
反 東鯷国を近畿に比定
狗奴国を火の国に比定
水沼皇都を久留米に比定
万葉集は九州王朝の勅撰
◆ 魏志倭人伝には、魏略にある「聞其舊語,自謂太伯之後」が書かれていない
◆ 紀元前473年の滅ぼされた呉と後の紀元前334年に滅ぼされた越の人々は、何処へ行ったか?
◆ 呉王夫差の公子忌が、前473年に来朝し、火国山門に住んだ
◆ 弥生時代の火国、菊池川流域は水田地帯
◆ ジャポニカ種の稲とアイラトビカズラが、夫差の子が火国山門にきたことを裏付ける
◆ 楚に滅ぼされた越の人々は、豊国(=倭国)古遠賀湾の沿岸を中心に来ている
■ 弥生早期~弥生終末の北部九州と鉄の文化
弥生
早期
弥生
前期
弥生
中期
弥生
後期
弥生
終末
前400
前300
前200
前100
0
100
200
◆ おのころ島の発見
・・・ 伊邪那岐命が降臨したおのころ島は、水巻町の頃末という土地にある多賀山である
・・・ 多賀山の近くの立屋敷遺跡から遠賀川式土器と高床式建物の柱痕跡が見つかっている
◆ 伊弉諾尊が降臨して治めた 日本 とは
・・・ 伊弉諾尊自らが浦安の国=入り江のある国。細戈(くわしほこ)の千足(ちだ)る国=
細形銅剣のある国。と言っている
◆ 伊弉諾尊が流した涙の中から生まれた「香山の畝尾の本の座す神」の山は
・・・ 3連山である香春岳の天香山(三ノ岳)から畝でつながった尾っぽの山(一ノ岳)が、
畝尾山である
◆ 長江流域から渡ってきた蛇神を祭る一族が、八俣の大蛇一族で
その一人が、天叢雲劒の持主の天村雲尊である
◆ 素戔烏尊の建てた出雲王朝も筑豊にあった
◆ 素戔烏尊、天照大神に殺される
・・・ 出雲王朝の終焉。素戔烏尊の終焉地は、田川市夏吉にある岩屋第一鍾乳洞
◆ 天照大神は男神の饒速日尊であり、建てた国は金印に彫られた「倭奴国」
・・・ 天満倭国=倭奴国成立、前14年に饒速日、豐葦原瑞穗國の笠置山に降臨
◆ 饒速日尊(天照大神)の倭奴国の範囲は、立岩式石包丁の分布が示す
◆ 後漢の光武帝から金印を貰ってきた倭奴国王は、天香語山命
・・・ 後57年に倭奴国王、漢光武帝に遣使。金印を受く
◆ 樂浪郡(平壌)から倭国(香春)までの距離が、12000里
・・・ 帯方郡(ソウル)からの距離が、12000里ではない
◆ 倭人は、中国の周の時代から遣いを出していた
・・・ 周代の官職、「大夫」が示す
◆ 饒速日尊の建てた天満倭国(倭奴国)を神武天皇が侵略してきた
・・・ 神武第一次東征は、失敗する
◆ 日向から博多湾岸委に出る途中、お佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)を陥落
・・・ お佐賀の大室屋を滅ぼした時に生まれた言葉が、「おしゃかになる」
◆ 神武第二次東征は、「日を背にして戦う神策」を実行
・・・ 南の宮崎県を回って、豊予海峡を北上していく
・・・ 求菩提山に神武天皇の道案内する頭八咫烏がいた。その八咫烏の起源は、
インド方面のガルーダ神である
・・・ 英彦山から中洲(今の香春から直方辺り)へ進軍していく。菟田の穿邑は、
川崎町の中元寺川の甌穴群のある辺りである
・・・ 天香山の攻略で、攻めた敵が赤銅の八十梟帥であり、銅の採れる山は、
香春三ノ岳が天香山に決まっている
立岩神社にある船体が真っ二つに折られた天磐船は、神武天皇が来た証拠
立岩遺跡からは、弥生時代の人骨が出土。立岩式石包丁が出土した遺跡からは、
弥生時代の絹も見つかっている
・・・ 長髄彦と戦った場所の鳥見野は、直方市頓野である
◆ 神武天皇が建てた国が、邪馬台(やまと)国である
・・・ 「邪馬台国」は、「やまと国=倭国」である。日本の古典では、「邪馬台=やまと」である
・・・ 橿原宮は、香春町の鶴岡八幡宮である
畝傍東北陵は、香春町にある「おほきんさん」とよばれる弥生時代の円墳がある
◆ 綏靖天皇から崇神天皇までが、倭国大乱の時代
◆ 香春町宮原に大きな前方後円墳跡がある
・・・ 埴輪が出土された記録が無い古い遺跡(古墳?)である
◆ 倭国大乱を鎮めるために「倭の国を最初に建てた大物主」を祀った崇神天皇
・・・ 『日本書紀』の中の歌に「 倭 成す 大物主」とある
◆ 『魏志韓伝・倭人伝』、『日本書紀 神功皇后紀』から割り出した卑弥呼の即位は、西暦200年
・・・ 新羅本紀173年の記事は、干支が一巡狂っている
◆ 『後漢書』が近畿地方に「東鯷国」の存在を記録している
・・・ 倭国(邪馬台国)が、近畿にあるハズがない
◆ 三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から貰ってきた鏡ではない
・・・ 東鯷国(近畿地方)で呉の職人が造った鏡、呉鏡である
◆ 『魏志倭人伝』に書かれた女王国までの距離一万二千里は、帯方郡からではない
・・・ 陳寿が楽浪郡と帯方郡の位置をよく解っていなかった
◆ 神功皇后が滅ぼした「筑紫の末羅縣」が、卑弥呼の時代の末盧國である
・・・ 『古事記』仲哀天皇記に出てくる勝門比売から末盧國は、宗像以外にない
◆ 末盧國が宗像であれば、そこから「東南陸行五百里」の所が伊都国
・・・ その伊都国の津があった場所が、新北津である
◆ 魏志倭人伝の「海を千里渡る」とあるように対馬国、次に一支国に至る。さらに千里海を渡る
・・・ 東にある宗像は、ピッタリ70km前後あり、そこが末盧国である
◆ 末盧国が宗像であれば、「東南陸行五百里」の伊都国へ無理なく行ける
・・・ 不彌国が、邪馬台国の玄関であれば、田川が邪馬台国になる
◆ 香春神社の祭神、辛国息長大姫大自命は韓半島から戻ってきている
・・・ 香春ノ神が比売大神であるなら、卑弥呼は意富加羅国からの出戻りの姫
◆ 理科系の先生の応援による発見された卑弥呼の墓のフラクタル性
◆ 卑弥呼の墓は、田川郡内にある直径が140m~150mの円の部分がある墓
・・・ 赤村内田は、神武天皇が即位した橿原宮(香春町の鶴岡八幡神社)から近い
赤村内田にある前方後型地形は、円の部分が丁度150mある
赤村内田にある前方後型地形の1975年の写真からは堀の跡が見られる
ここの竹林の中から弥生時代(卑弥呼の時代)の土器片が出土している
◆ 垂仁天皇が「殉葬を止めよ」と命じたより前に造られた卑弥呼の墓は、殉葬墓
・・・ 垂仁天皇の弟の倭彦命の墓に人を殉葬したと同じ記述が『魏志倭人伝』に
書かれている
◆ 埴輪が出土されている箸墓古墳は、殉葬墓である卑弥呼の墓では絶対無い
・・・ 『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼の墓は明らかに殉葬墓である
◆ 赤村内田にある前方後円型地形は、土木工学の見地から人工物
・・・ 赤村内田にある前方後円型地形のフラクタル次元の数値は、奈良県の箸墓子古墳と
ほぼ同じ数値
◆ 卑弥呼は、狗奴国との戦いに敗れて、自決に追い込まれた
◆ 狗奴国王は、卑弥弓呼と「弓」の字が入っているように、菊鹿盆地は鉄鏃が多く出土
◆ 『魏志倭人伝』に鉄鏃の記事があるが、奈良から弥生時代の鉄鏃が出土されていない
◆ 景行天皇は肥後から出てきた。狗奴国王卑弥弓呼ではないか?
◆ 景行天皇と日本武尊は、親子では無い
・・・ 景行天皇が土蜘蛛と戦った場所と日本武尊が荒ぶる神と戦った場所が一致する
◆ 日本武尊の妃、宮簀媛は香春三ノ岳の近くにいた
◆ 日本武尊が敗れた伊吹山の神は、千羽矢降る神
・・・ 多くの羽付きの矢を降らせる神が、千羽矢降る神と考えている
◆ 足立山に残る白猪の伝承は、日本武尊の白猪の伝承
◆ 城野遺跡の石棺は水銀朱が使われている。その水銀朱の記事が『魏志倭人伝』にある
・・・ 筑豊は、絹・鉄鏃・水銀朱と全部揃っている
◆ 清水原が、日本武尊が足を浸して我に返った泉「居醒泉」
◆ 古宮八幡宮の神幸祭の「おまがり様」は、三重のように曲がった日本武尊の足
◆ 古宮神社の摂社に白鳥神社がある。ここが日本武尊の白鳥陵
◆ 田川市伊田の白鳥神社が、日本武尊の2基目の白鳥陵
◆ 鞍手町の鎧塚古墳が、日本武尊の3基目の白鳥陵
・・・ 日本武尊の鎧だけ持ち帰ったのが、鞍手町にある鎧塚古墳である