「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
倭国大乱は呉越の戦い⁉
■ 王朝交替(天村雲尊/素戔烏尊/饒速日尊)
● 長江流域から渡ってきた蛇神を祭る一族が、八俣の大蛇一族。
その一人が、天叢雲劒の持主の天村雲尊である
・・・ 八俣の大蛇一族、大蛇ではありません。劒を持っている。天叢雲劒を持っているから、蛇で
ある訳がない。蛇神を祭った。中国でいう伏羲とか女媧という体は人間で足の方はどういうか
蛇の尻尾という神を祭った一族だろうと思っている。
やはり中国の長江一帯から渡ってきて、この豊国の土地で弥生時代の前期・中期に青銅の剣も
造られているが、鉄剣も造られたのではないだろうか?。
素戔烏尊が、八俣遠呂智退治で尾を斬った時に自分の劔が欠けてしまった。という事は、八俣
遠呂智一族が持っていた劔は鉄剣であった可能性がある。考古学とは、一致しません。
この天叢雲劒が、後の日本武皇子の時代に草薙劒と言われた。今年(2020年)5月1日に上皇
陛下から現在の天皇陛下に渡されたのは、草薙剣である。
私はこの草薙剣は、福岡県の鞍手・遠賀川流域にあったと言っている。
草薙剣の元の名前が、天叢雲劒であるから、この劔を持っていたのは、たぶん、天村雲尊である。
この天村雲尊は、英彦山上宮に祀られている神である。八俣遠呂智一族の一人の神では、なかった
かと思っている。
・・・ 鞍手町中山の剣岳の下にある八剱神社に祀られている神は、日本武尊、妻の宮簀姫と八俣遠呂智退治を
した素戔男尊の三祭神である。地域伝承を大事にしている。『古事記』、『日本書紀』には、書かれて
いない。
奈良県には、八剱神社は殆どない。鞍手・遠賀の土地には、八剱神社の大きな社が、8つある。その
中心が、鞍手町中山の八剱神社である。
● 素戔烏尊の建てた出雲王朝も筑豊にあった
● 素戔烏尊、天照大神に殺される
・・・ 筑豊には、数々の王朝交替があった。つまり、天孫降臨というのは、1回キリではなく、何回も外から
新しい権力者がやって来て、前の権力者を倒して自分が支配者となっていく。
そういうクーデターが、この土地の弥生時代には、何回もあったのではないだろうか?
最終的にやって来たのが、男神の天照大御神である。
この古事記の記事の「高天原皆暗く、葦原の中つ国悉に闇し」とあるように筑豊の土地は、暗くなった。
これは神話の世界では、天照大神(日神)が天岩屋戸に隠れたとなっているが、日食なんかではない。
豊後辺りの火山が噴火して、火山灰が成層圏に入り込んで何十日も暗かった。
ここに「・・・鏡を作らしめ」と書いているように、鏡が日食が起きる短い時間で出来ますか?
金属を溶かして鋳型に入れて、磨いてと何日もかかる。古事記にもそのように書いている。
神話では、何日も暗くなった原因は、速須佐男命が乱暴を働いたからとなっている。その速須佐男命に
「千座の置戸を負せ、」とあるようにスレート上の石を速須佐男命の体の上に何枚も重ねて圧殺した。
速須佐男命は、天照大御神に殺されたと言っている。
・・・ 速須佐男命が殺された場所が、田川市夏吉という土地である。昔は、夏(羽)焼ノ庄と呼ばれていた。
そこに「ごうや」という地名がある。天岩屋戸の岩屋と書く。この岩屋をわざと「ごうや」と読ませる。
鍾乳洞が幾つもあるが、その第一鍾乳洞の前で、速須佐男命が天照大御神に殺された。その執行人が、
手力男命であったのだろうと思われる。
● 天照大神は男神の饒速日尊であり、建てた国は金印に彫られた「倭奴国」
・・・ 男の天照大神は、饒速日尊であると考えている。紀元前14年に金印に「漢委奴國王」と彫られた
倭奴(いぬ)国が成立した。
「かんのわのなのこく」と読むのでない。近畿説の学者のいい加減なインチキである。倭奴国は、
「いぬの国」あるいは、「いのの国」である。
天物部氏が、「山島に居し、分かれて百余国を為す」とある島や山にいる状態であった。その
倭奴国の別名が、天満倭(そらみつやまと)国である。
したがって、大宰府の天満宮に祀られているのは、本来は饒速日尊(天神様)であり、菅原道真公
ではありません。平安時代になって後から合祀された。
饒速日は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という。日の神である。神社の名が、天照宮という。
天照大神には、女神としての大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)の天照と饒速日の天照と実は
『古事記』、『日本書紀』には、二神が書かれている。これを今までは、分析できなかった。
● 饒速日尊(天照大神)の倭奴国の範囲は、立岩式石包丁の分布が示す
・・・ 笠置山から採れる輝緑凝灰岩から造られるのが、有名な立岩式石包丁である。饒速日も稲が沢山
採れる所に侵略している。
図に示す立岩式石包丁の分布する範囲は、福岡県全域、大分県・熊本県・佐賀県の一部も含まれる。
この辺りを饒速日(天照大神)は、領有していたと思われる。
● 後漢の光武帝から金印を貰ってきた倭奴国王は、天香語山命
・・・ 饒速日の次の王が、天香語山命という。。金印が博多の志賀島から出土したというのは、嘘だろうと
思っている。元々は、香春岳の麓にあったのではないかと思っている。最低限、笠置山の麓にあった
のではないか?
天香語山命であるから、香春三ノ岳の麓の宮殿にあったのでないだろうかと思います。何故、この
金印が博多に移ったか後でやりましょう。
● 樂浪郡(平壌)から倭国(香春)までの距離が、12000里
・・・ 倭奴国(天香語山命)の時代に後漢の光武帝に遣いを出して、金印を貰ってきたことが、謝承後漢書に
書いている。范曄後漢書ではありません。
この謝承後漢書に「樂浪郡儌、去其國万二千里。」の所に倭国があると書かれている。樂浪郡徼は、
「とりで」という意味があるので、樂浪郡の中心=平壌から12,000里というのが、一番古い倭国
までの距離の記録だと思っている。
・・・ 帯方郡は、ソウルである。楽浪郡から12,000里は、私の抜き出した里では、810kmで
ピッタリである。
● 倭人は、中国の周の時代から遣いを出していた
・・・ 後漢書に倭国から来た人は、みんな自ら大夫というと書かれている。この太夫というのは、
周代の官職名である。
倭人(香春の人々)は、紀元前1100年ころの中国の周に遣いを出していた。
・・・ 周という時代の里の長さを香春の倭人たちは、持ち帰って来ていたのではないだろうか。中国の文献を
全部ひも解いた。
1歩というのは、今の日本では2歩となる。
孟子の中に、50歩100歩という諺がある。50歩が、1里ではなかったか。日本書記の孝徳紀に
50戸を1里とするがある。これを歩にすれば、1里が成り立つのではないか。
1歩の長さは判っているので、1里は67.5mとなるので、1000里は、67.5kmとなる。
これで古田武彦氏の短里に近い。私は、中国に残された物指し(1尺)から逆算しただけである。
『史記』管晏列伝にある晏子と御者の背丈もこの尺で当たった。