「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 倭国大乱は呉越の戦い⁉
 (令和元年10月6日(日)、久留米大学公開講座(郷土の民俗古代史 2019)より

 倭国大乱は呉越の戦い⁉

■ 王朝交替(天村雲尊/素戔烏尊/饒速日尊)

● 長江流域から渡ってきた蛇神を祭る一族が、八俣の大蛇一族。
 その一人が、天叢雲劒の持主の天村雲尊である

・・・ 八俣の大蛇一族、大蛇ではありません。劒を持っている。天叢雲劒を持っているから、蛇で
   ある訳がない。蛇神を祭った。中国でいう伏羲とか女媧という体は人間で足の方はどういうか
   蛇の尻尾という神を祭った一族だろうと思っている。
    やはり中国の長江一帯から渡ってきて、この豊国の土地で弥生時代の前期・中期に青銅の剣も
   造られているが、鉄剣も造られたのではないだろうか?。

    素戔烏尊が、八俣遠呂智退治で尾を斬った時に自分の劔が欠けてしまった。という事は、八俣
   遠呂智一族が持っていた劔は鉄剣であった可能性がある。考古学とは、一致しません。

    この天叢雲劒が、後の日本武皇子の時代に草薙劒と言われた。今年(2020年)5月1日に上皇
   陛下から現在の天皇陛下に渡されたのは、草薙剣である。
    私はこの草薙剣は、福岡県の鞍手・遠賀川流域にあったと言っている。

    草薙剣の元の名前が、天叢雲劒であるから、この劔を持っていたのは、たぶん、天村雲尊である。
   この天村雲尊は、英彦山上宮に祀られている神である。八俣遠呂智一族の一人の神では、なかった
   かと思っている。

八俣遠呂智退治の真相
八俣 yaata
   ↓
八幡 yaata
 『草薙劒』、此を倶娑那伎能(くさなぎの)()留伎(るぎ)
と云ふ。一書に云ふ。本の名は天叢雲(あめのむらくもの)
(つるぎ)
(けだ)大蛇(おろち)()る上に、常に雲氣(うんき)
り。(かれ)以ちて名づくるか。日本(やまと)(たけるの)()
()に 至りて、名を改め草薙劒と曰ふ
(日本書紀 神代第八段)
※ 天村雲尊 = 八俣の大蛇一族
         即ち八幡神の長か

 

・・・ 鞍手町中山の剣岳の下にある八剱神社に祀られている神は、日本武尊、妻の宮簀姫と八俣遠呂智退治を
   した素戔男尊の三祭神である。地域伝承を大事にしている。『古事記』、『日本書紀』には、書かれて
   いない。
    奈良県には、八剱神社は殆どない。鞍手・遠賀の土地には、八剱神社の大きな社が、8つある。その
   中心が、鞍手町中山の八剱神社である。

八俣遠呂智退治の真相
絵「剣岳城」

八剱神社(中山、剣岳)
日本武尊、宮簀姫、素戔男尊
三祭神を祀る

写真「八剱神社」
地図「鞍手町中山周辺」

 

● 素戔烏尊の建てた出雲王朝も筑豊にあった

出雲王朝の成立
 出雲王朝は、北九州市を根拠地にした素戔烏
が天の香山とその周辺にいた八幡神を征伐し、
建てた王朝ではないか。
 また、八俣の大蛇一族から奪った剣は八剱の
はず、
八剣神社
が筑豊に
濃密に分
布し、日
本武尊の
草薙の劒
とも深く
関わる。
写真「香春岳」

 

● 素戔烏尊、天照大神に殺される

・・・ 筑豊には、数々の王朝交替があった。つまり、天孫降臨というのは、1回キリではなく、何回も外から
   新しい権力者がやって来て、前の権力者を倒して自分が支配者となっていく。
    そういうクーデターが、この土地の弥生時代には、何回もあったのではないだろうか?

    最終的にやって来たのが、男神の天照大御神である。
    この古事記の記事の「高天原皆暗く、葦原の中つ国悉に闇し」とあるように筑豊の土地は、暗くなった。
   これは神話の世界では、天照大神(日神)が天岩屋戸に隠れたとなっているが、日食なんかではない。
    豊後辺りの火山が噴火して、火山灰が成層圏に入り込んで何十日も暗かった。

    ここに「・・・鏡を作らしめ」と書いているように、鏡が日食が起きる短い時間で出来ますか?
   金属を溶かして鋳型に入れて、磨いてと何日もかかる。古事記にもそのように書いている。

    神話では、何日も暗くなった原因は、速須佐男命が乱暴を働いたからとなっている。その速須佐男命に
   「千座の置戸を負せ、」とあるようにスレート上の石を速須佐男命の体の上に何枚も重ねて圧殺した。
    速須佐男命は、天照大御神に殺されたと言っている。

出雲王朝の終焉
 かれここに天照大御神見畏こみて
天の石屋戸を開きてさし隠りまし
き。
 ここに高天原皆暗く、葦原の中つ
悉に闇し。これに因りて、常夜往
く。
 ここに万の神の声は、さ蝿なす満
ち、万の妖悉に発りき。・・・
 天の金山の(まがね)を取りて、鍛人天津
麻羅を求ぎて、伊斯許理度売の命に
科せて、鏡を作らしめ、 ・・・
天の香山の真男鹿の肩を・・・
 (手力男の神)、速須佐の男の命
千座の置戸を負せ、また鬚と手足
の爪とを切り、祓へしめて、神逐ひ
逐ひき。

 

・・・ 速須佐男命が殺された場所が、田川市夏吉という土地である。昔は、夏(羽)焼ノ庄と呼ばれていた。
   そこに「ごうや」という地名がある。岩屋戸の岩屋と書く。この岩屋をわざと「ごうや」と読ませる。
    鍾乳洞が幾つもあるが、その第一鍾乳洞の前で、速須佐男命が天照大御神に殺された。その執行人が、
   手力男命であったのだろうと思われる。

素戔烏尊の終焉地
地図「田川市夏吉」

夏(羽)焼ノ庄

写真「岩屋第一鍾乳洞」
写真「岩屋第一鍾乳洞」

 岩屋第一鍾乳洞 

写真「岩屋第一鍾乳洞」

 

● 天照大神は男神の饒速日尊であり、建てた国は金印に彫られた「倭奴国」

・・・ 男の天照大神は、饒速日尊であると考えている。紀元前14年に金印に「漢委奴國王」と彫られた
   倭奴(いぬ)国が成立した。
   「かんのわのなのこく」と読むのでない。近畿説の学者のいい加減なインチキである。倭奴国は、
   いぬの国」あるいは、「いのの国」である。

    天物部氏が、「山島に居し、分かれて百余国を為す」とある島や山にいる状態であった。その
   倭奴国の別名が、天満倭(そらみつやまと)国である。
    したがって、大宰府の天満宮に祀られているのは、本来は饒速日尊(天神様)であり、菅原道真公
   ではありません。平安時代になって後から合祀された。

    饒速日は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という。日の神である。神社の名が、天照宮という。
   天照大神には、女神としての大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)の天照と饒速日の天照と実は
   『古事記』、『日本書紀』には、二神が書かれている。これを今までは、分析できなかった。

天満倭国=倭奴国成立
前一四 饒速日、葦原瑞穗國の笠置山に降臨。
 (瓊々杵、日向のクシフル岳に降臨。)
 天満倭国=倭奴国が成立する。 
  饒速日は古遠賀湾沿岸部を領有、中洲(なかつくに)皇都を
 建設。天物部八十氏が筑豊の山や島を領有し、
 「山島に居し、分かれて百余国を為す」。
  瓊々杵は博多湾岸を領有し、百余国の一角を
 形成する。
「写真」

笠置山

「写真」

天照宮(磯光)

天照国照
 彦天火明櫛玉饒速日尊

 

● 饒速日尊(天照大神)の倭奴国の範囲は、立岩式石包丁の分布が示す

・・・ 笠置山から採れる輝緑凝灰岩から造られるのが、有名な立岩式石包丁である。饒速日も稲が沢山
   採れる所に侵略している。
    図に示す立岩式石包丁の分布する範囲は、福岡県全域、大分県・熊本県・佐賀県の一部も含まれる。
   この辺りを饒速日(天照大神)は、領有していたと思われる。

前一四 饒速日(天照大神)、
   葦原瑞穗國の笠置山に降臨
「発掘『倭人伝』」下條信行氏原図
「立岩式石包丁と今山産の石斧の分布図」

 

● 後漢の光武帝から金印を貰ってきた倭奴国王は、天香語山命

・・・ 饒速日の次の王が、天香語山命という。。金印が博多の志賀島から出土したというのは、嘘だろうと
   思っている。元々は、香春岳の麓にあったのではないかと思っている。最低限、笠置山の麓にあった
   のではないか?
    天香語山命であるから、香春三ノ岳の麓の宮殿にあったのでないだろうかと思います。何故、この
   金印が博多に移ったか後でやりましょう。

天満倭国=倭奴国成立
後五七 倭奴国王(天孫本紀に云う
 天香語山命か)、漢光武帝に
 遣使。金印を受く。
『翰苑』「憑山負海鎮馬臺以建都」
「金印(漢委奴国王)」
「金印の印影(漢委奴国王)」

 

● 樂浪郡(平壌)から倭国(香春)までの距離が、12000里

・・・ 倭奴国(天香語山命)の時代に後漢の光武帝に遣いを出して、金印を貰ってきたことが、謝承後漢書に
   書いている。范曄後漢書ではありません。

    この謝承後漢書に「樂浪郡儌、去其國万二千里。」の所に倭国があると書かれている。樂浪郡徼は、
   「とりで」という意味があるので、樂浪郡の中心=平壌から12,000里というのが、一番古い倭国
   までの距離の記録だと思っている。

倭奴国と楽浪郡の里程
倭國
憑山負海鎭馬臺以建都
 後漢書曰、倭在朝(鮮)東南大海中、
依山島居、凡百餘國。自武帝滅 朝鮮、
使譯通漢於者州餘國、稱王、 其大倭王
治邦臺

 樂浪郡儌、去其國万二千里。甚地大
較在會稽東。与朱雀・儋耳相近。
(謝承後漢書)
樂浪郡 → 樂浪郡
(隋書俀國傳)
(さかい、とりで
「范曄後漢書」
※ 樂浪郡徼は、樂浪郡治の謂いか

 

・・・ 帯方郡は、ソウルである。楽浪郡から12,000里は、私の抜き出した里では、810kmで
   ピッタリである。

楽浪式土器伝播図(倭国)
「原の辻貿易(弥生中期後半の交易活動)」

 

● 倭人は、中国の周の時代から遣いを出していた

・・・ 後漢書に倭国から来た人は、みんな自ら大夫というと書かれている。この太夫というのは、
   周代の官職名である。
    倭人(香春の人々)は、紀元前1100年ころの中国の周に遣いを出していた。
    

一〇七 倭王帥升等、後漢の安帝に
   生口(奴隷)一六〇人を献ず。
中元之際紫綬之榮
 漢書地志曰、
夫餘樂浪海中有倿人、分爲
 百餘國、以歳時獻見。」
 後漢書
「光武中元年二、倭國奉 貢朝賀、
 使人自稱大夫。光武賜 以印綬。
 安帝初元年倿王師升等、獻
 主口百六十。」
(翰苑)
※ 大夫(代の官職)

 

・・・ 周という時代の里の長さを香春の倭人たちは、持ち帰って来ていたのではないだろうか。中国の文献を
   全部ひも解いた。
    1歩というのは、今の日本では2歩となる。
    孟子の中に、50歩100歩という諺がある。50歩が、1里ではなかったか。日本書記の孝徳紀に
   50戸を1里とするがある。これを歩にすれば、1里が成り立つのではないか。
    1歩の長さは判っているので、1里は67.5mとなるので、1000里は、67.5kmとなる。
   これで古田武彦氏の短里に近い。私は、中国に残された物指し(1尺)から逆算しただけである。     

    『史記』管晏列伝にある晏子と御者の背丈もこの尺で当たった。

倭人は周里を用いた
歩と里の概念
孝徳紀
 「五十戸とす」
  歩 (ふたあし)
   (五〇歩
  尺 (新字源)
= 一・三五㍍
= 六七・五㍍
= 二二・五cm
『史記』 管晏列伝 司馬遷
晏子 「六尺に満たず」
御者 「八尺の大男」
一・三五m
一・八m
秦  歩 (ふたあし)
  里 (三〇〇歩)
= 一・三五㍍
= 四〇五㍍
  歩 (ひとあし)
   (三〇〇歩)
= 〇・二四㍍
= 七二㍍
絵「1歩=2跬(跬:半歩、一足)」