「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 倭国大乱は呉越の戦い⁉
 (令和元年10月6日(日)、久留米大学公開講座(郷土の民俗古代史 2019)より

 倭国大乱は呉越の戦い⁉

■ 神武天皇、邪馬台(やまと)国 = 倭国を創始

● 饒速日尊の建てた天満倭国(倭奴国)を神武天皇が侵略してきた

・・・ 次に筑豊の土地に神武天皇が侵略してきた。その神武天皇の出身地を菊池・山鹿だと言い切っている。
   呉の人々がやって来た所の出身である。ちょっとして、呉王夫差の子孫かも知れないが、証拠はありません。
   DNAが見つからない限りは。

    菊池・山鹿の地で生まれた神武天皇が、筑豊の国へ侵略してきたのが、「神武東征」ではないかという
   豊前王朝説の大芝英雄氏の後を受け継いで『古事記』『日本書紀』から詳しく解き明かしたらどうも
   事実ではないだろうかとなってきた。

    神武天皇は、山鹿の日向から博多湾岸に出てくる。その途中で滅ぼしたのが、大室屋(吉野ヶ里遺跡)
   である。

    豊国(豊前)側では、西暦107年に倭国王帥升が後漢の安帝に生口(奴隷)一六〇人を出している。

    神武東征は、『日本書紀』の分析から1回ではなく、2回あったと解明した。第一次東征では長髄彦軍に
   敗戦し、引き揚げてきたのが、博多湾の草香津である。その草香津は、大濠公園の所で池が海だった頃で
   ある。

    五月に五瀬命が亡くなり、竈山に葬ったとある。竈山は、和歌山県では、ありません。大宰府の宝満山で
   ある。その竈山の宮に留まって、3年間再軍備をしたと考えられる。

神武第一次東征 (日向→筑紫
後八三年 お佐賀の大室屋吉野ヶ里遺跡
  陥落。鸕鷀草葺不合尊の佐賀平野攻略戦。
一〇七年 倭国王帥升、後漢の安帝に生口
  (奴隷)一六〇人を献ず。この倭国王は
  天孫本紀に云う天忍人命か。
 この頃から
  韓半島・倭奴国乱れ、以後、漢への遣使が
   途絶する。
一一四年 磐余彦、冬十月 諸兄・諸皇子らと
  第一次東征を開始。
 十一月 岡水門に至り、軍備を整える。
一一五 春三月 遠賀湾を遡り、夏四月、
  長髄彦軍と交戦、五瀬命負傷し、敗戦。
  博多湾住吉神社近くの草香津に帰還。
 五月 五瀬命死去、竈山宝満山)に葬る。
 竈山の高千穂の宮において、三年間再軍備。

 

● 日向から博多湾岸委に出る途中、お佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)を陥落

・・・ このお佐賀の大室屋を滅ぼした時に生まれた言葉が、「おしゃかになる」ではないかと九州弁で
   考えている。「おさかになる」ではなく、「おしゃかになる」である。
    「お釈迦になる」は、お釈迦様になるのだから、良い事である。何故、ダメになるのか、国語の
   教師をしていて、生徒に聞かれて困っていた。
    「お佐賀の大室屋」=この大きな建物が潰れたから ⇒「おしゃかになる(福永語源説)。

神武第一次東征 (日向→筑紫
 お佐嘉の 大室屋に 人多に 入り居りとも
人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の
子らが 頭椎い 石椎いもち 撃ちてし止まむ
 お佐嘉なる 夷を一人 百な人 人は云へ
ども 抵抗もせず
写真「吉野ヶ里遺跡」

 

● 神武第二次東征は、「日を背にして戦う神策」を実行

・・・ 第一次東征では敗れたので、遠賀湾の北側から攻めるのは拙かろうと今度は、南の宮崎方面に
   回って、そこから豊予海峡を北上していく。早吸日女神社のある所から珍彦が道案内をする。

    英彦山の南側の地を手なずけてから、いよいよ英彦山の北側、豊国(豊前)の国を攻める。

神武天皇の第二次東征
一一八 春二月、第二次東征開始。
  「日を背にして戦う神策」を実行に
  移す。
   速吸門(速吸日女神社)に至り、
  珍彦を道案内とする。菟狹(安心院
  妻垣神社
)に至り、一柱騰宮に入る。
(日本書紀要約)
 数ヶ月、狹野
嶽(求菩提山)
に通い、「 頭 
大天狗(豊前
坊)及び「 八咫
烏 
」(求菩提山
八天狗)一族と
同盟を結ぶ。
 この間、吉野
の国樔(玖珠)

部らを巡撫。
「写真」

安心院妻垣神社

 

・・・ 求菩提山にある江戸時代の木造である。ちょうど、八箇( やたり )いる。八箇烏、八咫烏である。
   その八咫烏の起源は、インド方面のガルーダ神である。ガルーダ神を祭る人々だろうと考えている。
    頭が鷲、体は人間、背中に翼。全体が金ぴかである。上にヴィシュヌ神をのせている。

頭八咫烏

求菩提山八天狗像

「写真」

頭八咫烏のルーツ

「写真」

ガル-ダ神
(ガルダ衆→カラス)

 

・・・ 英彦山から中洲(今の香春から直方辺り)へ進軍していく。
    菟田の穿邑は、川崎町の中元寺川の甌穴群のある辺りである。この場所の上の所に  天降神社 という
   神武天皇が立ち寄ったという伝承がある神社がある。
    豊前川崎町の「川崎」というのは、神武天皇が名付けたと『川崎町史』に書かれている。

神武天皇の第二次東征の
豊国北伐
一一八年 六月、「天皇獨り、皇子手研
   耳命と軍を帥ゐて進む。
   既にして皇師中洲に趣かんと欲す。」
  七月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。
  八月、菟田の穿邑に至る。菟田縣
   血戦に
   勝つ。
「写真」

川崎町天然記念物
中元寺川・甌穴

 

・・・ 『日本書紀 神武天皇紀』の半分くらいは、神武天皇の天香山の攻略のことについて書かれている。
   攻めた敵が、赤銅の八十梟帥であり、銅の採れる山、香春三ノ岳が天香山に決まっている。奈良県には、
   絶対に存在しえない。

      立岩神社 に写真のような折られた石がある。これは、天磐船(あまのいわふね)という饒速日が
   侵略の際にあちこちに建てたモニュメント(記念碑)である。
    その船体の石の部分が、真っ二つに折られている。これが、神武天皇が、立岩に来たという第一次
   証拠だと思っている。
    立岩遺跡からは、弥生時代の人骨も出ている。

神武天皇の第二次東征
一一八年九月 天香山香春岳)攻略にかかる。
  十月 赤銅の八十梟帥国見丘岩石山)に
   破る。
(日本書紀)
  十一月 立岩丘陵(飯塚市)に籠る磯城彦
   攻めようとして、神武は川と海の混ざる
   広大な沼を徒歩で渡り、片島(飯塚市)に
   上陸、遂に「熊野の神邑」を攻撃し、磯城
   彦を滅ぼす。
   「天磐盾(立岩神社)に登り」、東征成就
   を天祖に祈願する。
写真「立岩神社」
写真「立岩遺跡の人骨」

 

・・・ 立岩式石包丁が出土されている遺跡から絹が巻かれた鉄剣・鉄矛が出土している。弥生時代の絹で
   ある。筑豊では、弥生時代から絹が織られていた。
    弥生時代に今も大工が使う「やりがんな」が使われていた。柱がツルツルに削られていて、その
   御殿が紀元前の時代に添田町に建てられていたという証拠となる。

彦山北麓の絹
台地に広がる金の原遺跡(添田町史)
① 中元寺から川崎町上真崎にかけて南北
 三キロに広がる。
 東は庄原遺跡に接する。(宮殿
② 農耕作業中に
 縄文時代~弥
 生時代の遺物
 を採集。
③ 土器片と石器
 類が出土。
 立岩式石包丁
 も出土。(
「写真」

庄原遺跡 金属溶解炉跡

写真「庄原遺跡のやりがんな鋳型」

やりがんな鋳型

「写真」

鉄剣、鉄矛

 

・・・ これは、邪馬台国の会が出している資料である。弥生時代の絹は、青・緑・橙色の下の線の遺跡から
   出土している。圧倒的に北部九州である。奈良県は、赤線の遺跡、古墳時代である。
    卑弥呼は、『魏志倭人伝』の中で絹は、倭錦と書かれている。それを献上している。また、茜草で
   染めた絹、「絳」という文字も書かれている。『魏志倭人伝』を正確に読むとそのようになる。
    奈良県には、弥生時代の絹が出土された遺跡がない。だらか、奈良県に卑弥呼が居たハズが無い。
   巻向遺跡を邪馬台国の卑弥呼の遺跡として発掘している学者たちは、みんな詐欺師?絶対にありえない。
    水田跡も碌々ないし、どのようにして、7万人戸の人を養うのでしょうか?
    

絹の出土地
「絹の出土した遺跡の分布地図」

 

・・・ 長髄彦と戦った場所、鳥見野が、  直方市頓野 と思われる。
    戦前は、この時に金色のトビが飛んできて、神武天皇軍を助けた。ピカッーと光って、敵の眼が眩んで
   神武天皇が勝利することができたというのは、有名な話である。

    金色のトビの正体は、八咫烏である。八咫烏一族が、鏡を沢山作って持ってきて、太陽光で敵の眼を
   眩ましたのではないだろうか。
    八咫烏の鏡の「烏」を省くと八尺鏡(やたかがみ)である。この神話の奥にあるのは、三種の神器の
   八尺鏡は、八咫烏の鏡であると考えている。これも福永説であるが、何一つ証拠は、ありません。

神武天皇の第二次東征
一一八年  十二月 長髄彦との最後の
  決戦に臨む。
 「十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師
  遂に長髓彦を撃つ。」
  苦戦を強いられたようだが、辛勝
  し、終に長髓彦を殺す。
  倭奴国滅亡

鳥見野(直方市頓野)

絵「鳥美野の戦い(金色の鵄)」

 

● 神武天皇が建てた国が、邪馬台(やまと)である。国である。

・・・ 考古学の人たち、歴史学の先生、教科書がみんな、邪馬台国を「やまたい国」と読むが、『古事記』、
   『日本書紀』、『万葉集』、それから『続日本紀』、『続日本紀』の平安時代の六国史に至っても、
   この「」の字は、「」と読ませている。
    元々この「邪馬台国」は、「やまと国=倭国」である。日本の古典では、「邪馬台=やまと」である。
   歴史学者たち、特にNHKの番組に出演する学者たちは、碌々日本の古典を読んでいない。
    「邪馬台=やまと」と読むが、奈良県(大和)に「邪馬台国」があったとは、言っていない
   「邪馬台国」は、筑豊である。当然、卑弥呼も筑豊にいた。

    卑弥呼は、神武天皇の即位の80年後の西暦200年に即位している。

    倭国大乱の原因は、神武天皇と一緒に倭奴国を倒した正統の跡継ぎ、火国の王の血筋を引いた手研耳命
   大王が殺されたからである。
    「豊国 対 火国」の争いである。これが、倭国大乱の大きな構図である。

倭国=邪馬台国創始
一二一辛酉年の春正月の庚辰朔に、天皇、
 橿原宮に於いて帝位に即きたまふ。」
神武即位
『魏志倭人伝』
(魏志倭人伝)部分
一三九 皇子神渟名川耳尊、手研耳命大王
 を弑し
、王位を奪う。「太歳己卯」
一四六~一八九 桓・霊の間、倭国大乱。
(謝承・范曄後漢書)
「豊国 対 火国」

 

・・・ 橿原宮は、畝尾山の東南に建てたと日本書紀にある。畝尾山が、香春一ノ岳であるかぎり、
     鶴岡八幡宮 である。この神社には、橿の木が植わっている。
    神武天皇は亡くなった後、畝傍東北陵に葬られたと日本書紀に書かれている。香春一ノ岳の東北に
   見事に「  おほきんさん 」、昔の天皇の呼び方で「大王さま」という墓がある。弥生時代の円墳である。
    このお墓が、本物の神武天皇陵ではないかと大胆な事を言っている。

香春の鶴岡八幡宮(橿原宮)

おほきんさん(畝傍東北陵)

「写真」
「写真」