「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
倭国大乱は呉越の戦い⁉
■ 卑弥呼の死後も続く倭国と狗奴国との戦い
● 卑弥呼は、狗奴国との戦いに敗れて、自決に追い込まれた
・・・ 卑弥呼は、狗奴国との戦いに敗れたその責任を取らされて自決したと思うが、実際には、殺された
という可能性もある。
弥生時代の女王というのは、大変である。何かで失敗をすると家来たちから殺されてしまう。それが、
古代の王の宿命である。
呉の人たちがやって来た南にある敵対していた狗奴国は、官職が狗古智卑狗である。その王が、
卑弥弓呼という名前で残っている。卑弥呼の名前に、「弓」の字が入っている。
卑弥呼は、狗奴国の卑弥弓呼に負けたかで、また、魏に遣いを送っている。そうすると魏(帯方郡)は、
詔書と黄幢を難升米に授けたと書かれている。
つまり、卑弥呼は女王の座を罷免されている。よく読み込むとそのようになる。だから、卑弥呼は
死なざるを得なかった。
● 狗奴国王は、卑弥弓呼と「弓」の字が入っているように、菊鹿盆地は鉄鏃が多く出土
・・・ 現在、一番多く弥生時代の鉄鏃(鉄製のヤジリ)が出土しているのが、呉王夫差の公子忌がやって
来た菊鹿盆地である。
・・・ 今、筑豊に住んでおられる奥野正男先生の出された資料をGoogleマップ上に表記した。筑豊より
豊後街道の方が圧倒的に多く出土している。
『魏志倭人伝』には、鉄の鏃、骨の鏃=「鐵鏃或骨鏃」が書かれている。
● 『魏志倭人伝』に鉄鏃の記事があるが、奈良から弥生時代の鉄鏃が出土されていない
・・・ 鉄鏃の出土された表で、これは九州しか出ていませんが、奈良県はこの次のページに載っている。
しかし、奈良県の出土数は、限りなくゼロである。
弥生時代の鉄の鏃が出土されていない。弥生時代の絹も出土されていない。『日本書紀 神武紀』の
伊弉諾尊の云った「日本(やまと)は浦安の国」という「海」が無い。
奈良県は、無い無い尽くしである。そこに女王卑弥呼が居るハズがない。「桃の種」「カエルの骨」
とか『魏志倭人伝』に書かれていないどうでも良いことを新聞を使ってマスコミ発表をする。
● 景行天皇は肥後から出てきた。狗奴国王卑弥弓呼ではないか?
・・・ ひょっとして、景行天皇が、狗奴国王卑弥弓呼ではないかと言い始めた。
田川から北九州にかけて、景行天皇の伝承地が沢山存在する。『日本書紀』も景行天皇の記録が
書かれている。
大足彦忍代別天皇(景行天皇)の出発地は、肥後国からである。
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● 景行天皇と日本武尊は、親子では無い
・・・ 「緑野の川上」の土蜘蛛を征伐した時について、『添田町史』に日本武尊が、土折居折の軍を
破ったとあり、『日本書紀』と丸っきり逆である。
その土地の伝承が正しいだろうとして、土折居折を征伐したのは、日本武尊であって、景行
天皇では無いだろうという疑問が湧いた。
また、日本武尊が、土折居折を斬ったとされる伝承地も別の田川市猪膝にも残っている。
・・・ 北九州市のあちらこちらの神社に景行天皇の伝承が残されている。また、日本武尊の同じ
土地にある。
『日本書紀』には、景行天皇の子が日本武尊と書かれているが、景行天皇が土蜘蛛と戦った
場所と日本武尊が荒ぶる神と戦った場所が実は、みんな同じである。
景行天皇が土蜘蛛と戦った場所と日本武尊が荒ぶる神と戦った場所が一致するのは、どういう事か?
と考えた時に、日本武尊は景行天皇の子ではなく、敵同士であるとの結論に至らざるを得なかった。
帝踏石 (北九州市小倉南区朽網西2-28)
● 日本武尊の妃、宮簀媛は香春三ノ岳の近くにいた
・・・ 『古事記』の歌の中に「天の香具山」が出てくる。これが、香春三ノ岳である以上、美夜受比賣が、
この山の近くに居た。
● 日本武尊が敗れた伊吹山の神は、千羽矢降る神
・・・ 日本武尊は、美夜受比賣がいた所から出かけて行き、白い大きな猪に化けた伊吹山の神に敗れた
と書いている。
日本武尊は、足が弱って能煩野で死んでいく。
・・・ 胆吹山の所で氷雨を降らせた。・・・とあるのは、実際は、山の上から鉄製の鏃の矢を霰のごとく
降らされた。山の下から登っていった大和武尊は、腿を矢で打ち抜かれたのでないだろうか。
ちはやふる神とは、多くの羽付きの矢を降らせる神(千羽矢降る神)と考えている。非常に強い
弓軍団をかかえた軍隊のことを千羽矢降る神というのであろう。
映画「Redcliff」で使われた「十万本の矢」
の船。5000本刺さっている。
中世の合戦図
● 足立山に残る白猪の伝承は、日本武尊の白猪の伝承
・・・ 白猪の伝承が、和気清麻呂伝説として、北九州市の足立山に残っている。この白猪の伝承は、
日本武尊の伝承ではないかと現地に出かけたら、やはりここであった。
● 城野遺跡の石棺は、水銀朱が使われている。その水銀朱の記事が『魏志倭人伝』にある
・・・ 足立山の麓には、城野遺跡・重留遺跡とがあり、その城野遺跡から出土した石棺が出土している。
この石棺が凄いのは、「中国産の水銀朱」と書かれているが、北九州産の水銀朱である。
『魏志倭人伝』の中に水銀朱の事も書かれている。これで、絹・鉄鏃・水銀朱と筑豊は、全部
揃っている。奈良県は、水銀も採れない。
● 清水原が、日本武尊が足を浸して我に返った泉「居醒泉」
・・・ 葛原八幡神社の北の方に清水原という場所がある。ここが、古事記・日本書紀に出てくる居醒泉
(ゐさめがゐ)である。日本武尊が、足に矢を受け、山を下りて来て足を泉につけてやっと我に返った
場所だろうと思う。ここ清水原は、泉が沸いている。
● 古宮八幡宮の神幸祭の「おまがり様」が、三重のように曲がった日本武尊の足
・・・ 大和武尊は、能煩野の所で自分の足が「三重(みえ)に曲がり固い餅のようだ」嘆いたとある。
香春町の古宮八幡宮の神幸祭りでは、長光家で秘密のおまがり様というお菓子が作らて、神幸
祭りが始まる。そのおまがり様を長光家に返したら、そのお菓子が土の中に埋められると神幸祭りが
終わるそうである。
● 古宮神社の摂社に白鳥神社がある。ここが日本武尊の白鳥陵
・・・ 古宮八幡宮の摂社に白鳥神社があり、本当にその神社の下に日本武尊の遺骸が眠っている
のではないかと考えている。
・・・ この白鳥神社が第一の白鳥陵であり、ここから白鳥と化して、日本武尊は抜け出て飛んで行った。
● 田川市伊田の白鳥神社が、日本武尊の2基目の白鳥陵
・・・ 白鳥が、飛んできて留まった第二の白鳥陵が、田川市伊田にある白鳥神社である。この近くに
確かに石棺が一つある。
● 鞍手町の鎧塚古墳が、日本武尊の3基目の白鳥陵
・・・ 日本武尊の鎧だけ持ち帰ったのが、鞍手町にある鎧塚古墳である。これで、日本武尊は自分の
故郷に戻ってきた訳である。
この土地こそが、魏志倭人伝に書かれている伊都(いつ)国の 新北津 で近くで、劔神社があり、
鎧塚古墳もここにある。
この鎧塚古墳は、古くから日本武尊が鎧を奉納して埋めたとされているが、通常は、鎧を神社に
奉納すれば、飾られるハズである。
鎧塚古墳は、日本武尊の家来たちが故郷の土地に鎧だけを持ち帰れり埋めた場所であると考えれば、
これが3基目の白鳥陵であると『日本書紀』の記述から解った。