「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 倭国大乱は呉越の戦い⁉
 (令和元年10月6日(日)、久留米大学公開講座(郷土の民俗古代史 2019)より

 倭国大乱は呉越の戦い⁉

■ 卑弥呼の死後も続く倭国と狗奴国との戦い

● 卑弥呼は、狗奴国との戦いに敗れて、自決に追い込まれた

・・・ 卑弥呼は、狗奴国との戦いに敗れたその責任を取らされて自決したと思うが、実際には、殺された
   という可能性もある。
    弥生時代の女王というのは、大変である。何かで失敗をすると家来たちから殺されてしまう。それが、
   古代の王の宿命である。

    呉の人たちがやって来た南にある敵対していた狗奴国は、官職が狗古智卑狗である。その王が、
   卑弥弓呼という名前で残っている。卑弥呼の名前に、「」の字が入っている。
    卑弥呼は、狗奴国の卑弥弓呼に負けたかで、また、魏に遣いを送っている。そうすると魏(帯方郡)は、
   詔書と黄幢を難升米に授けたと書かれている。
    つまり、卑弥呼は女王の座を罷免されている。よく読み込むとそのようになる。だから、卑弥呼は
   死なざるを得なかった。

卑弥呼の死後の
   倭国と狗奴国との戦い
 魏 略 曰 , 女 王 之 南 , 又 有
狗 奴 國 , (女) 男 子 為 王 , 其 官
拘 右 智 卑 狗 , 不 屬 女 王 也 .
 その南、狗奴国有り。男子王たり。その
官に狗古智卑狗有り。女王に属さず。
 其の(正始)八年(247)、太守、王
頎官に到る。
 倭女王卑弥呼、狗奴国王卑弥弓呼素より
和せず。
 倭、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻
撃する状を説く。
 塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、
黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為(つく)
りて之を告諭す。

 

● 狗奴国王は、卑弥と「」の字が入っているように、菊鹿盆地は鉄鏃が多く出土

・・・ 現在、一番多く弥生時代の鉄鏃(鉄製のヤジリ)が出土しているのが、呉王夫差の公子忌がやって
   来た菊鹿盆地である。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
景行天皇
 中九州に豊後街道がある。この街道こそ
弥生時代の鉄鏃(矢尻)」が全国で最も
多く出土し
た道である。

 この東端
から景行は
豊国を北伐
した。
 景行
弥「弓」呼

かもしれな
い。
地図「熊本鍛治遺構」

 

・・・ 今、筑豊に住んでおられる奥野正男先生の出された資料をGoogleマップ上に表記した。筑豊より
   豊後街道の方が圧倒的に多く出土している。
    『魏志倭人伝』には、鉄の鏃、骨の鏃=「鐵鏃或骨鏃」が書かれている。

 北九州の主な鉄鏃・銅鏃出土地
「北九州の主な鉄鏃・銅鏃出土地」

 

● 『魏志倭人伝』に鉄鏃の記事があるが、奈良から弥生時代の鉄鏃が出土されていない

・・・ 鉄鏃の出土された表で、これは九州しか出ていませんが、奈良県はこの次のページに載っている。
   しかし、奈良県の出土数は、限りなくゼロである。
    弥生時代の鉄の鏃が出土されていない。弥生時代の絹も出土されていない。『日本書紀 神武紀』の
   伊弉諾尊の云った「日本(やまと)は浦安の国」という「海」が無い。
    奈良県は、無い無い尽くしである。そこに女王卑弥呼が居るハズがない。「桃の種」「カエルの骨」
   とか『魏志倭人伝』に書かれていないどうでも良いことを新聞を使ってマスコミ発表をする。

 弥生時代の鉄鏃(銅鏃)の出土数
「弥生時代の鉄鏃(銅鏃)の出土一覧表」

 

● 景行天皇は肥後から出てきた。狗奴国王卑弥弓呼ではないか?

・・・ ひょっとして、景行天皇が、狗奴国王卑弥弓呼ではないかと言い始めた。
    田川から北九州にかけて、景行天皇の伝承地が沢山存在する。『日本書紀』も景行天皇の記録が
   書かれている。
    大足彦忍代別天皇(景行天皇)の出発地は、肥後国からである。

大足彦忍代別天皇の豊国北伐
 天皇、初將 討 賊、次 于柏峽大野 
、其野有 石、長六尺・廣三尺・厚一尺五
寸。天皇祈之曰「朕得 滅 土蜘蛛 者、
將蹶 茲石 、如 柏葉 而舉焉。」因蹶
之、則如 柏上 於大虛 。故、號 其石 
曰 蹈石 也。

(景行天皇紀)
日向または肥後の国から出た大帯日子命
 (卑弥弓呼)
は、火国を北上し、宇佐 →
 御木(豊前市) → 高羽(田川) → 緑野
 (添田町小緑) → 來田見(北九州市朽網)
 と明らかに豊国北伐を行っている。
帝踏石(北九州市小倉南区朽網西二―二八)
 が現実に存在。

 

 景行帝の北伐路(一)

 

● 景行天皇と日本武尊は、親子では無い

・・・ 「緑野の川上」の土蜘蛛を征伐した時について、『添田町史』に日本武尊が、土折居折の軍を
   破ったとあり、『日本書紀』と丸っきり逆である。
    その土地の伝承が正しいだろうとして、土折居折を征伐したのは、日本武尊であって、景行
   天皇では無いだろうという疑問が湧いた。
    また、日本武尊が、土折居折を斬ったとされる伝承地も別の田川市猪膝にも残っている。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
景行天皇
 ところで、「緑野の川上」の土蜘蛛に
ついては、日本書紀と異なる現地伝承が
ある。
 「添田町史」の「緑川の話」である。
 景行天皇の皇子日本(やまと)(たけるの)(みこと)の軍勢が、
彦山川の上流に勢力をはる土折居折の
軍を破って
、血みどろ川と呼ばれるよう
になったという。
 土折居折が日本武尊から討たれたとい
う話は田川市猪膝にもあり、土折居折を
切った太刀を洗ったという太刀洗の井戸

が、町の出入口の道路そばにある。

 

 豊前猪膝宿南構口跡
   および大刀洗の井戸
「田川市猪膝の大刀洗の井戸」

 

・・・ 北九州市のあちらこちらの神社に景行天皇の伝承が残されている。また、日本武尊の同じ
   土地にある。
    『日本書紀』には、景行天皇の子が日本武尊と書かれているが、景行天皇が土蜘蛛と戦った
   場所と日本武尊が荒ぶる神と戦った場所が実は、みんな同じである。
    景行天皇が土蜘蛛と戦った場所と日本武尊が荒ぶる神と戦った場所が一致するのは、どういう事か?
   と考えた時に、日本武尊は景行天皇の子ではなく、敵同士であるとの結論に至らざるを得なかった。

Google Earth「北九州市小倉南区・行橋市」
景行帝の北伐路(二)
大足彦忍代別天皇の豊国北伐

 

『日本書紀』にかかれた「蹈石」
「写真」

帝踏石 (北九州市小倉南区朽網西2-28)

 

● 日本武尊の妃、宮簀媛は香春三ノ岳の近くにいた

・・・ 『古事記』の歌の中に「天の香具山」が出てくる。これが、香春三ノ岳である以上、美夜受比賣が、
   この山の近くに居た。

倭建命天皇の倭国防衛戦
 其の國より科野(しなの)の國に越え、乃ち科野の
坂の神を言向けて、尾張の國に還り來て、
先の日に期りし美夜受比賣(みやずひめ)の許に入り坐し
き。
 是に(おお)御食(みけ)を獻りし時に、其の美夜受比
賣、(おお)()酒盞(さかづき)を捧げて以ちて獻りき。
 爾くして美夜受比賣、其の意須比(おすひ)(すそ)
月經(さわり)著きたり。
故、其の月經を見て御歌に曰く、
 ひさかたの 天の香具山 とかまに
 さ渡る(くひ) 弱細(ひはぼそ) 手弱腕(たわやがいな)を ()かむ
 とは 吾はすれど さ寝むとは 吾
 は思へど 汝が()せる 意須比の(すそ)
 に 月たちにけり

 

● 日本武尊が敗れた伊吹山の神は、千羽矢降る神

・・・ 日本武尊は、美夜受比賣がいた所から出かけて行き、白い大きな猪に化けた伊吹山の神に敗れた
   と書いている。
    日本武尊は、足が弱って能煩野で死んでいく。

倭建命天皇の倭国防衛戦
 故、爾くして御合して、其の御刀(みはかし)草那
藝の劍
を以ちて、其の美夜受比賣の許に置
きて、伊服岐能(いふきの)(やま)の神を取りに幸行しき。
 (伊吹山の神に敗れる)
 其より幸行して、能煩野(のぼの)に到りし時に
國を思ひて以ちて歌ひて曰く、
 (夜麻登)は 國のまほろば 
 たたなづく 青垣 山ごもれる
 しうるはし
 また歌ひて曰く、
 命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の
 熊樫が葉を 髻華に挿せ その子
 此の歌は思國歌(くにしのひうた)なり。
(古事記 景行天皇記)

 

・・・ 胆吹山の所で氷雨を降らせた。・・・とあるのは、実際は、山の上から鉄製の鏃の矢を霰のごとく
   降らされた。山の下から登っていった大和武尊は、腿を矢で打ち抜かれたのでないだろうか。
    ちはやふる神とは、多くの羽付きの矢を降らせる神(千羽矢降る神)と考えている。非常に強い
   弓軍団をかかえた軍隊のことを千羽矢降る神というのであろう。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
景行天皇
 日本武尊が胆吹山に到ると、山の神
が大蛇(古事記は「牛のごとき白猪」)
に化けて道をふさいだ。
 尊は神の使いだろうと高をくくって
進んだ。山の神は雲を起こし、氷雨
降らせた。
 「峯霧り谷暗く」なり、尊は行くべ
き道を失う。
 強引に下山したが、尊は初めて「身
を痛め」た。
 つまり、景行軍に待ち伏せされ、
(鉄鏃の)矢を(あられ)のごとく降らされ
尊は初めて敗戦し、自身も深手を負
ったようだ。
※ 敵の弾丸雨あられ
ちはやふる神=千羽矢降る

 

「絵」

映画「Redcliff」で使われた「十万本の矢」
の船。5000本刺さっている。

「絵」

中世の合戦図

 

● 足立山に残る白猪の伝承は、日本武尊の白猪の伝承

・・・ 白猪の伝承が、和気清麻呂伝説として、北九州市の足立山に残っている。この白猪の伝承は、
   日本武尊の伝承ではないかと現地に出かけたら、やはりここであった。

絵「和気清麻呂伝説」
絵「和気清麻呂伝説」
絵「和気清麻呂伝説」
絵「和気清麻呂伝説」

 

 足立山 (北九州市小倉北区)
写真「足立山」

 

● 城野遺跡の石棺は、水銀朱が使われている。その水銀朱の記事が『魏志倭人伝』にある

・・・ 足立山の麓には、城野遺跡・重留遺跡とがあり、その城野遺跡から出土した石棺が出土している。
   この石棺が凄いのは、「中国産の水銀朱」と書かれているが、北九州産の水銀朱である。
    『魏志倭人伝』の中に水銀朱の事も書かれている。これで、鉄鏃水銀朱と筑豊は、全部
   揃っている。奈良県は、水銀も採れない。

地図「城野遺跡」
「箱式石棺」

九州最大規模の方形周溝墓から出土した幼児の箱式石棺2基。高価な中国産の水銀朱が惜しげも
なく塗られた子どもの石棺。クニのリーダー(権力者)の子ども(王子)の墓と言われています。

 

● 清水原が、日本武尊が足を浸して我に返った泉「居醒泉」

・・・ 葛原八幡神社の北の方に清水原という場所がある。ここが、古事記・日本書紀に出てくる居醒泉
   (ゐさめがゐ)
である。日本武尊が、足に矢を受け、山を下りて来て足を泉につけてやっと我に返った
   場所だろうと思う。ここ清水原は、泉が沸いている。

絵「ヤマトタケルと白猪」

清水原 = 居醒泉(ゐさめがゐ)

「写真」

 

倭建命天皇の倭国防衛戦
 故、爾くして御合して、其の御刀(みはかし)草那
藝の劍
を以ちて、其の美夜受比賣の許に置
きて、伊服岐能(いふきの)(やま)の神を取りに幸行しき。
 (伊吹山の神に敗れる)
 其より幸行して、能煩野(のぼの)に到りし時に國
を思ひて以ちて歌ひて曰く、
 (夜麻登)は 國のまほろば 
 たたなづく 青垣 山ごもれる
 しうるはし
 また歌ひて曰く、
 命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の
 熊樫が葉を 髻華に挿せ その子
 此の歌は思國歌(くにしのひうた)なり。
(古事記 景行天皇記)

 

● 古宮八幡宮の神幸祭の「おまがり様」が、三重のように曲がった日本武尊の足

・・・ 大和武尊は、能煩野の所で自分の足が「三重(みえ)に曲がり固い餅のようだ」嘆いたとある。
    香春町の古宮八幡宮の神幸祭りでは、長光家で秘密のおまがり様というお菓子が作らて、神幸
   祭りが始まる。そのおまがり様を長光家に返したら、そのお菓子が土の中に埋められると神幸祭りが
   終わるそうである。

古宮八幡宮の神幸祭り
 古宮八幡宮の祭神豊比売命は、香春神社へ
下向し、例祭が終わると再び古宮八幡宮に戻
るという祭り。
 初日の午前中、唐櫃を持って長光家を経て
神事を行い、秘密のおまがり様を唐櫃に納め
て古宮に持ち帰る。
 午後から杉神輿を担いで天矢大神宮(天照
大神)まで行き神事を行い、御旅所に一泊す
る。
 2日目の午後、清祀殿と宮原で神事を行い、
古宮八幡神社へ戻り、行事が終了する。
 神幸祭りには、必ず長光家でつくったおま
がり様
を迎えにいく。
 江戸時代、香春宮への行幸の時もおまがり
という龍頭の餅を献じていたと『古宮八幡
宮御鎮座伝記』に記されている。

 

● 古宮神社の摂社に白鳥神社がある。ここが日本武尊の白鳥陵

・・・ 古宮八幡宮の摂社に白鳥神社があり、本当にその神社の下に日本武尊の遺骸が眠っている
   のではないかと考えている。

白鳥陵の候補地
「写真」

古宮八幡宮 摂社に白鳥神社

 

・・・ この白鳥神社が第一の白鳥陵であり、ここから白鳥と化して、日本武尊は抜け出て飛んで行った。

倭建命天皇の倭国防衛戦
 故、其の國より飛び翔けり行きて、
河内の國の志幾(しき)に留りき。故、其の
地に御陵を作りて鎭め坐すなり。即
ち其の御陵を號けて白鳥の御陵と謂
ふなり。然れどもまた其の地より更
に天に翔けりて以ちて飛び行きき。
※ 思國歌は、古事記では倭建命、日本
 書紀では大足彦忍代別天皇の歌とな
 っている。
  ここに、景行天皇(卑弥弓呼)は
 狗奴(肥後)国からの侵略者
であり、
 倭国(豊前国)を防衛したのが倭建
 命天皇
であったことが推測される。
  景行天皇の北伐は半ば成功したの
 かも知れない。
白鳥の御陵の三基目は鞍手町の古物
 神社
の辺りにあったことが仁徳紀に
 記されている。

 

 白鳥と化す
絵「ヤマトタケルと白鳥伝説」

Ⓒ建部大社

 

● 田川市伊田の白鳥神社が、日本武尊の2基目の白鳥陵

・・・ 白鳥が、飛んできて留まった第二の白鳥陵が、田川市伊田にある白鳥神社である。この近くに
   確かに石棺が一つある。

倭建命天皇の倭国防衛戦
※ 白鳥神社(田川市)社伝
 延暦年中(七八二年~八〇六年)、伝教大師
最澄】が入唐し学行を終えて帰朝の途中、海
中の船路先に白鳥が飛び、ある夜大師の夢の中
に白鳥が現れ「自分は日本武尊である。
 汝の船路を守り、身を守護するから昔麻剥を
討つために行った
豊前国の高羽川の
川辺
に自分を齋き
祀れ」と告げたと
いいます。
 大師は帰朝後、
高羽川の川辺を尋
ねた所、白鳥が飛
来し、伊田の里
現:田川市伊田と
その付近)の真中
の山に止まりまし
た。
「白鳥神社(田川市伊田)」

 

● 鞍手町の鎧塚古墳が、日本武尊の3基目の白鳥陵

・・・ 日本武尊の鎧だけ持ち帰ったのが、鞍手町にある鎧塚古墳である。これで、日本武尊は自分の
   故郷に戻ってきた訳である。
    この土地こそが、魏志倭人伝に書かれている伊都(いつ) 新北津 で近くで、劔神社があり、
   鎧塚古墳もここにある。
    この鎧塚古墳は、古くから日本武尊が鎧を奉納して埋めたとされているが、通常は、鎧を神社に
   奉納すれば、飾られるハズである。
    鎧塚古墳は、日本武尊の家来たちが故郷の土地に鎧だけを持ち帰れり埋めた場所であると考えれば、
   これが3基目の白鳥陵であると『日本書紀』の記述から解った。

鎧塚古墳 (鞍手町)
絵「鎧塚古墳」

 Ⓒ鞍手町教育委員会