「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
倭国大乱は呉越の戦い⁉
■ 赤村内田にある前方後型地形は卑弥呼の墓
● 理科系の先生の応援による発見された卑弥呼の墓のフラクタル性
発見された卑弥呼の墓のフラクタル性
小川 進*,谷口幸弥**,桜井貴子,福永晋三
*空間技術研究所,**長崎大学,
・・・ 福永説の宗像が末盧国として、その東南に卑弥呼の国があるとして、流域という考え方が国の単位と
なる時に、小川進先生が、遠賀川が重要だとおっしゃられた。
末盧国(福永説)から東南の流域
河川名
流域面積km2
嘉瀬川
(南西1000里)
368
筑後川
(南900里)
2860
矢部川
(南1000里)
620
球磨川
(南1800里)
1880
大淀川
(南南東2300里)
2230
遠賀川
(東南500里)
1026
● 卑弥呼の墓は、田川郡内にある直径が140m~150mの円の部分がある墓
・・・ 卑弥呼の都と墓が何処にあるかと言えば、田川説をとっている。神武天皇が即位した場所が香春町に
ある鶴岡八幡神社(橿原宮)である以上、そこから遠くない位置である。
魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の記述に「大作冢徑百餘歩」=直径百余歩とあり、これが140m~
150mとなるのは、周里の里と歩の関係からである。
直径とあり円の部分がある墓だと判る。円墳とは書いていない。「徑」としか書かれていない。
・・・ 田川郡内に発見されれば、確定するという確信まで得ていた。なかなか見つからなかったが、
一昨年遂に発表をした。
赤村内田に全長が460mの前方後円型地形が出てきた。ここの直径が、丁度150mである。
・・・ 左側の後円墳の周りは、田んぼになっているが、池の部分として残っている。右側の写真は、
南側(前方部)で、池があった。現在は、老人ホームが建てられている。
・・・ 造出(つくりだし)部分に当る竹林の現在の所有者の父親が、5~60年かけてタケノコを掘る時に
土器片に当っている。この土器片を熊本県の調査員の資格を持つ吉田さんという方が、全部調べた結果、
ハッキリと弥生時代から平安時代までの土器片が混ざっていると言われた。
土器片が、古墳時代からだと卑弥呼の墓だという事を諦めるが、弥生時代からである。卑弥呼の時代に
当る。
● 垂仁天皇が「殉葬を止めよ」と命じたより前に造られた卑弥呼の墓は、殉葬墓
・・・ 垂仁天皇が、天皇の弟の倭彦命の墓には近習の者を集め殉葬したが、(中略)これを悲しみ、
以後殉葬を止めよと言ったとある。
卑弥呼の墓も魏志倭人伝に「殉葬する者奴婢(ぬひ)百余人なり」とある。日本書紀に書かれている
殉葬と同じである。
・・・ 通説の卑弥呼の墓と言われている箸墓古墳のフラクタル次元の数値ですが、私にはよく解りません。
● 埴輪が出土されている箸墓古墳は、殉葬墓である卑弥呼の墓では絶対無い
・・・ 卑弥呼の墓は、『魏志倭人伝』によれば、明らかに殉葬墓である。垂仁天皇は、その後に殉葬(人)の
かわりに粘土で、家形、人形、馬形の埴輪(焼き物)を造って、墓に建てるように命じた。
卑弥呼の墓の後に造られた古墳には、埴輪が建てらてた。だから、卑弥呼の墓には、埴輪が建てられて
いない。
先ほど紹介した宮原遺跡(宮原古墳?)からは、埴輪が出土されていない。また、赤村内田の前方後円型
地形からも現時点では、埴輪が出土されていない。
奈良県の箸墓古墳からは、宮内庁職員が埴輪を発掘している。したがって、箸墓古墳は、絶対に殉葬墓で
ある卑弥呼の墓ではないと言っている訳である。
● 赤村内田にある前方後円型地形は、土木工学の見地から人工物
・・・ 赤村内田にある前方後円型地形のフラクタル次元の数値であるが、奈良県の箸墓子古墳とほぼ同じ
数値である。
この赤村内田にある前方後円型地形を見つけて発表して時に、田川郡から福岡県庁に至るまで
皆さんからこれは、自然地形だと言われた。
しかし、小川進先生一人が、土木工学の見地からこの前方後円型地形は、人工物であると言われた。