「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
倭国大乱は呉越の戦い⁉
■ 呉越の人々は、火国山門と遠賀湾沿岸にやって来た
● 魏志倭人伝には、魏略にある「聞其舊語,自謂太伯之後」が書かれていない
・・・ 呉の太伯は「姫氏」であり、周王朝の一族である。紀貫之の紀氏である。呉王夫差の祖である。
狗奴国は菊池川流域の菊鹿盆地であるという説である。
魏志倭人伝は、春秋時代の呉の国のこともイデオロギー上、書かれていない。
夏后少康之子は、呉王夫差を倒した越王勾践の祖である。倭人(倭国)は遠賀川流域に居たのでは
ないだろうか。
● 紀元前473年の滅ぼされた呉と後の紀元前334年に滅ぼされた越の人々は、何処へ行ったか?
● 呉王夫差の公子忌が、前473年に来朝し、火国山門に住んだ
・・・ 呉の行き先ですが、我が国に『群書類従』という江戸時代の百科事典の中に「松野連系図」と呼ばれる
本がある。
その一番最初に、越王勾践に敗れた呉王夫差は自決したが、公子忌(字名は、慶父)は孝昭天皇三年に
来朝し、火国山門に住むと書かれている。
呉王夫差が滅ぼされた前473年は、『日本書紀』がずーっと遡った年から始まっているので、実は
この孝昭天皇三年に当る。
● 弥生時代の火国、菊池川流域は水田地帯
・・・ 熊本県の菊鹿盆地にいらっしゃる郷土史家の方が、30年以上の菊池川流域の遺跡の調査をされていた。
その菊池川流域に昔、図のように大きな湖「茂賀の浦」があったとおっしゃっている。水が引いていく度に、
遺跡が広がっていった。そこには水田地帯があった。図にあるように弥生遺跡がいっぱいある。
● ジャポニカ種の稲とアイラトビカズラが、夫差の子が火国山門にきたことを裏付ける
・・・ 菊池川流域の盆地が出土したジャポニカ種の稲は、明らかに長江流域の稲の遺伝子を持っている
という事が証明されている。
もう一つは、山鹿に「アイラトビカズラ」という大きな蔦がある。この山鹿の他にもう1ヶ所、
長崎県と日本に2ヶ所しかない植物である。
この「アイラトビカズラ」のDNAが、長江下流域の葛と同じであることが、植物学の方で証明
されている。
前述の「松野連系図」と合わせても呉王夫差の子と家来たちが一緒に、ジャポニカ種の稲とアイラ
トビカズラのつるでつないだと思われる筏に乗って、火国山門迫間川流域までやって来ている。
迫間川流域のこの地区を 「神来」と書いて「おとど」 という。熊本県の有名な地名で、難訓である。
紀元前473年に文献の上からでもこの土地(菊鹿盆地)にきている。
● 楚に滅ぼされた越の人々は、豊国(=倭国)古遠賀湾の沿岸を中心に来ている