「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 再発見 新発見 田川 川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡
 (令和元年十月二七日(日)、主催 豊の国古代史研究会 、於 川崎町勤労青少年ホーム )より

 川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡

■ 景行天皇の豊国北伐 / 倭建命天皇の倭国防衛戦

 卑弥呼が亡くなった後、また戦争が起こる。この時に菊池・山鹿から出てきたのが、景行天皇だと思われる。
倭国と狗奴国が戦う。景行天皇が行った地名が書かれている。例えば、磯津山は香春町。鼻垂という人が居た場所は、
菟狹川上。耳垂という人がいたのが、御木川上。麻剥がいたのが、高羽川上。田川が入っている。緑野川上には
土折猪折がいた。ここは、添田町である。『景行紀』にこれだけの具体的な地名が書かれている。どこに奈良県の
地名がありませか?

景行天皇豊国北伐
倭国 対 狗奴国
 十二年秋七月、
 爰有 女人 、曰 神夏磯媛 、其徒衆
甚多、一國之魁帥也。聆  天皇 之使者至 
、則拔 磯津山之賢木 、以上枝挂 八握
劒 、中枝挂 八咫鏡 、下枝挂 八尺瓊 
、亦素幡樹 于船舳 、參向而啓之曰「願
無 下兵 。我之屬類、必不 有 違者 
、今將歸德矣。唯有 殘賊者 、一曰 
 、妄假 名號 、山谷響聚、屯 結於
菟狹川上 。二曰 耳垂 、殘賊貧婪、屢
略 人民 、是居 於御木川上 。三曰 
麻剥 、潛聚 徒黨 、居 於高羽川上 
。四曰 土折猪折 、隱 住於緑野川上 
、獨恃 山川之險 、以多掠 人民 。

 

 『日本書紀』では、景行天皇が高羽の麻剥を征伐したことになっているが、地元の  田川市 猪膝 の伝承では、日本武尊が
猪折を征伐したとなっている。大和武尊が、猪折を斬った後に劔を洗った大刀洗の井戸が残っている。

 豊前猪膝宿南構口跡
   および大刀洗の井戸
「写真」

 

大足彦忍代別天皇の豊国北伐

景行帝の北伐路(一)

Google Earth「宇佐市~田川市・香春町」

 

Google Earth「北九州市小倉南区・行橋市」
景行帝の北伐路(二)
大足彦忍代別天皇の豊国北伐

 

 景行天皇が、土蜘蛛を征伐した場所と不思議なことに日本武尊が荒ぶる神と戦った場所が全部同じ所である。
大和武尊は、景行天皇の子ではなく、敵同士である。大和武尊は景行天皇に敗れて、能煩野(のぼの)=「あがの」
だと思われる所で死んでいく。

倭建命天皇倭国防衛戦
 故、爾くして御合して、其の御刀(みはかし)草那
藝の劍
を以ちて、其の美夜受比賣の許に置
きて、伊服岐能(いふきの)(やま)の神を取りに幸行しき。
 (伊吹山の神に敗れる)
 其より幸行して、能煩野(のぼの)に到りし時に國
を思ひて以ちて歌ひて曰く、
 (夜麻登)は 國のまほろば 
 たたなづく 青垣 山ごもれる
 しうるはし
 また歌ひて曰く、
 命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の
 熊樫が葉を 髻華に挿せ その子
 此の歌は思國歌(くにしのひうた)なり。
(古事記 景行天皇記)

 

 亡くなった日本武尊が葬られて場所が、  香春町の古宮八幡宮 である。ここの横に白鳥神社がある。
その下に大和武尊の遺骸が埋められたのではないかと想像している。

絵「ヤマトタケルと白鳥伝説」

Ⓒ建部大社

 日本武尊の白鳥陵

「写真」

古宮八幡宮 摂社に白鳥神社