「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 再発見 新発見 田川 川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡
 (令和元年十月二七日(日)、主催 豊の国古代史研究会 、於 川崎町勤労青少年ホーム )より

 川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡

■ 神功皇后の征西 / 氣長足姫尊の豊国北伐

4世紀の噴火の特徴-1

 噴火は爆発指数VEI5で、紀元前の由布岳や九重火山の噴火よりも
大きな爆発である。神功紀には何日も続く暗闇の伝聞記事がある。
また、成層圏に注入されるガスや細かい灰も非常に大量なので、
丹波方面含めて、広範囲に気候の寒冷・乾燥化が起こった。
 このことから、神功皇后は噴火が終わって大分経ってから、
筑豊に瀬戸内海からでなく、日本海側から侵入しているのではないか。
また、実際の噴火は成務期ではないか。

地図「若狭・丹後・丹波・播磨の神社」

 

 神功皇后の夫とされる仲哀天皇は、大和武尊の子だと『日本書紀』に書かれている。しかし、神功皇后も仲哀天皇も
 若狭・気比の宮 の方から出てくる。
 神功皇后の祖先は、倭国大乱時の第9代開花天皇である。母親の葛城高額比売の祖先を辿れば、天之日矛であり、
都怒我阿羅斯等である。
 筑豊が火山活動の影響を受けたので、遥か遠く若狭・丹波方面に移動した。神功皇后はその若狭から出てきたと
『日本書紀』に書かれている。

神功皇后の出自
『古事記』「神功皇后の系図」

 

 『日本書紀』によれば、神功皇后は瀬戸内海に出たとある。
 卑弥呼の時代から120年経っている邪馬台国の王が帰順した。殲滅した忍熊王は、日本武尊の孫で仲哀天皇の
子である。謎である。神功皇后は仲哀天皇の后であると書かれている。その神功は仲哀天皇の本筋の家系を滅ぼす。

氣長足姫尊の豊国北伐
 四世紀後半、遂に東鯷国が挙兵した。
すでに饒速日尊の本流と融合したと推測
される東の三角縁神獣鏡圏を形成する
強国が、征西を開始した。
 気比の宮を発した神功天皇(神功皇
后)は、海人族を従え、但馬・播磨の国
を南下、瀬戸内海に出る。
 吉備の鬼の城の温羅(うら)を滅ぼし、西進
る。牛窓でも新羅の王子を退治し、遂に
穴門豊浦宮(下関市幡生の生野神社)を
落し入城。
 邪馬台国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに)
が帰順。続いて伊都(いつ)主の祖五十迹手(いそとて)
帰順。
 淡海の大津の宮(豊津町)を滅ぼし、
御所ヶ谷(神籠石、旧京都郡、現行橋市)
に拠る忍熊王を殲滅。

 

 神功皇后が戦った土地は、全て豊国内である。

新「神功皇后の戦略」
地図「福岡県」
 豊浦 
 武庫 
 御所谷 
 邪馬台 
 奴 
(橿日宮)
 熟田津 
 伊都 
 末羅 
 松峡宮 

 

橿日宮
(飯塚市負立八幡宮)
「写真」
「写真」

 

 『古事記』では、  筑紫の末羅縣 とあるが、『日本書紀』では、  火前國の松浦縣 とあり、まつら縣」が宗像から唐津の方に
移っている。元に戻せば、『魏志倭人伝』の末盧國は、宗像になる。

氣長足姫尊の豊国北伐
 また筑紫の末羅(まつら)の縣玉嶌(たましま)の里に到り
坐して、其の河邊に御食(みおし)し時、當に四月(うづき)
上旬(はじめ)なりき。爾くして其の河中のに坐し
て御裳の糸を拔き取り、飯粒(いいぼ)を以ちて餌と
爲し、其の河の年魚(あゆ) 其の河の名を小河と謂ふ。
また其の磯の名を勝門比賣(かちどひめ)と謂ふ
釣りき。故、
四月の上旬の時、女人(おみな)裳の糸を拔き、(いいぼ)
以ちて餌と爲し、年魚(あゆ)を釣ること今に至る
まで絶えず。
(仲哀記)
 北到 火前國松浦縣 、而進 食於
玉嶋里小河之側 。

(神功皇后摂政前紀)
帯日売 神の命の 鮎釣ると
    御立しせりし 石を誰見き
(山上憶良)

 

神功皇后の勝門姫征伐
地図「古遠賀湾流域~宗像」
写真「宗像市釣川」

神功の進路

 釣川 

 末羅 

 熟田津 

熟田津に船乗りせむと
月待てば潮もかなひぬ
今は漕ぎ出でな
帯日売神の命の鮎釣る
御立しせりし石を誰見き

 

神功天皇の調略
地図「行橋市」

 

氣長足姫尊の豊国北伐
 爾くして建振熊の命、頂髮(たふさぎ)の中より()
し弦 【一の名を宇佐由豆留と云ふ】を採り出し
更に張りて追ひ撃ちき。
 故、逢坂(あふさか)に逃げ退きて、(むか)ひ立ちてまた
戰ひき。
 爾くして追い()めて沙沙那美に敗り悉く
其の(いくさ)を斬りき。
 是に其の忍熊の王と伊佐比の宿禰、共に
追い迫めらえ
て、船に乘り
海に浮び歌ひ
て曰く、
いざ吾君
振熊が
痛手負はずは 
鳰鳥の
淡海の海に
潜きせなわ

逢坂(大坂)

「写真」

 

 淡海の海 齊多の済に 潜く鳥
田上過ぎて 菟道に捕へつ
 於是、探 其屍 而不 得也。然後、
數 日之出 於菟道河 。武内宿禰亦
歌曰、
 淡海の海 齊多の済に 潜く鳥 
目にし見えねば 憤ろしも
 則共沈 瀬田濟 而死之。于時、武内
宿禰歌之曰
 いざ吾君 五十狹茅宿禰 たまきはる 
内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは
鳰鳥の 潜せな
 忍熊王逃無 所 入。則喚 五十狹茅
宿禰 、而歌之曰
氣長足姫尊の豊国北伐

 

 忍熊王が入水自殺した瀬田濟は、飯塚市(昔の頴田町(かいたまち))の  勢田 ではないかと考えている。

忍熊(熊坂)王の逃避行
地図「香春・田川」

 

風治八幡宮川渡り神幸祭
「写真」

 

 最終的に神功皇后は、120年前の卑弥呼の邪馬台国を一旦滅ぼしている。王家が交替する。

氣長足姫尊の豊国北伐
 遠賀の地で物部氏を招集し、ニギタ津(鞍手
町新北)
を出航
筑紫末羅県(宗像大社・宮地岳
神社周辺)
の勝門比売を滅ぼす
 美奈宜神社や平塚川添遺跡などに拠った
白熊鷲
を殲滅。
 筑後川を渡って三潴を攻撃、桜桃(ゆすら)沈輪(ちんりん)を滅
ぼす。
 女山(ぞやま)神籠石に拠る田油津(たぶらつ)姫を討伐。豊・筑
・火の三国(三韓)を征伐する。
 邪馬台国滅亡
 三六九年、水沼の皇都を建設。筑後遷都が
行われた。
「古遠賀湾図」