「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡
■ 神功皇后の征西 / 氣長足姫尊の豊国北伐
4世紀の噴火の特徴-1
噴火は爆発指数VEI5で、紀元前の由布岳や九重火山の噴火よりも
大きな爆発である。神功紀には何日も続く暗闇の伝聞記事がある。
また、成層圏に注入されるガスや細かい灰も非常に大量なので、
丹波方面含めて、広範囲に気候の寒冷・乾燥化が起こった。
このことから、神功皇后は噴火が終わって大分経ってから、
筑豊に瀬戸内海からでなく、日本海側から侵入しているのではないか。
また、実際の噴火は成務期ではないか。
神功皇后の夫とされる仲哀天皇は、大和武尊の子だと『日本書紀』に書かれている。しかし、神功皇后も仲哀天皇も
若狭・気比の宮 の方から出てくる。
神功皇后の祖先は、倭国大乱時の第9代開花天皇である。母親の葛城高額比売の祖先を辿れば、天之日矛であり、
都怒我阿羅斯等である。
筑豊が火山活動の影響を受けたので、遥か遠く若狭・丹波方面に移動した。神功皇后はその若狭から出てきたと
『日本書紀』に書かれている。
『日本書紀』によれば、神功皇后は瀬戸内海に出たとある。
卑弥呼の時代から120年経っている邪馬台国の王が帰順した。殲滅した忍熊王は、日本武尊の孫で仲哀天皇の
子である。謎である。神功皇后は仲哀天皇の后であると書かれている。その神功は仲哀天皇の本筋の家系を滅ぼす。
神功皇后が戦った土地は、全て豊国内である。
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忍熊王が入水自殺した瀬田濟は、飯塚市(昔の頴田町(かいたまち))の 勢田 ではないかと考えている。
最終的に神功皇后は、120年前の卑弥呼の邪馬台国を一旦滅ぼしている。王家が交替する。