「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 再発見 新発見 田川 川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡
 (令和元年十月二七日(日)、主催 豊の国古代史研究会 、於 川崎町勤労青少年ホーム )より

 川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡

■ 新説日本書紀 神功皇后(豊国に戻り皇位を争う)

新説日本書紀 ㉒  神功皇后 ⑥ 
 豊国に戻り皇位を争う
香坂王と忍熊王の反逆
 357年冬10月に新羅征伐に出た神功
は、12月ごろ筑紫の姪浜に帰還し、14
日に宇美八幡宮の地で応神を出産した。
 この地はかつて神武天皇の家来である荒
木武彦の(むすめ) 志津姫が蚊田皇子を出産した
「蚊田の里」でもある。
 したがって、「応神」という諡号(しごう)はある
いは「神武に応じる」という意味で、新王
朝の創始者を暗示しているのではなかろう
か。
 この時、豊国では亡き仲哀天皇の先の皇
后大中津姫との間に生まれていた香坂王
忍熊王(日本武尊の孫)が軍を構えて、帰
朝した神功を撃とうとしていた。

 

神功皇后三韓征伐図
大善寺玉垂宮所蔵
絵「神功皇后の三韓征伐」
絵「神功皇后の三韓征伐」
絵「神功皇后の三韓征伐」

 

 『日本書紀』では、神功皇后は、三韓征伐から帰還した後に  宇美八幡宮 で誉田別皇子(後の応神天皇)を出産したことに
なっている。

宇美八幡宮
「写真(宇美八幡宮)」
絵「神功皇后と乳飲み子(応神天皇)」
「写真(宇美八幡宮)」

 

新説日本書紀 ㉒  神功皇后 ⑥ 
 豊国に戻り皇位を争う
 神功は乳飲み子をショウケに入れ、峠を
越え、大分八幡宮で軍隊を解散した。
 曩祖八幡宮(同市宮町)で将士と別れの
宴を催し、綱分八幡宮(同市綱分)で宝剣
を奉納し、日若神社(同市多田)の霊泉で
禊をし皇子の将来を祈った。
 次いで、位登八幡神社(田川市位登)で
皇子と共に半年滞在した。これは書紀と合
わない伝承である。
 さらに、川崎町池尻の大石神社末社の帝
階八幡神社
御由緒には、「応神は七歳まで
香椎宮
(福岡市東区)に成長し、位登宮古
跡である宮ヶ坪の近く、式部迫の地で皇太
子ご即位式を執行された」とある。書紀と
相当に矛盾する。

 

ショウケ越
大分八幡宮
「写真」
「写真」

 

儺県(曩祖八幡宮)= 奴国
大石神社
「写真」
「写真」

 

式部迫(応神が皇太子に即位した式が行われた地)
宮ヶ坪
「地図」
「地図」

 

 大海は、現在は「おおうみ」と読むが、音読みすれば「たいかい」と詠む。帝階は、「ていかい」と読むのではなく
たいかい」と読む
 帝を「たい」と読むのは、漢字の古い読み方で、唐の長安の西暦617年以降の都の読まれた発音ではない。漢の時代や
三国の時代の発音である。 帝階を大海(たいかい)と書き換えて、さらに後に「おおうみ」と詠ませたのであろう。
 大坪もかつては、王坪と書かれていた。

大坪(王坪)
大海(帝階:たいかい
「地図」
「地図」

 

   赤村太祖神社 には、田川市の  風治八幡宮 と同じように神功皇后のお腰掛けの石が残されている。

新説日本書紀 ㉒  神功皇后 ⑥ 
 豊国に戻り皇位を争う
 位登宮から赤村太祖神社を経て、神功は
京都郡みやこ町の生立八幡神社に到る。
 ようやく京都郡の難波に出た神功は、
所ヶ谷神籠石に拠る香坂王・忍熊王
の警戒
網をくぐり、書紀によれば358年春2月
穴門の豊浦宮に帰還した。
神功天皇位登宮で即位
 358年冬10月に、群臣は神功を尊び
皇太后といい、摂政元年とした。
 だが、書紀はこの年を「辛巳」としてい
る。381年に当たる。書紀年代のはなは
だしい矛盾である。
 382年11月に、仲哀天皇を河内国の
長野陵(北九州市小倉南区長野か、未詳)
に葬った。4人目の仲哀か。

 

新説日本書紀 ㉒  神功皇后 ⑥ 
 豊国に戻り皇位を争う
 383年春正月、「誉田別皇子を立てて、
皇太子としたまふ。因りて磐余に都つくる。
是をば若桜宮といふ」とある。
 「誉田別」には注意を要する。神功の子
(応神)は「分家の皇子」である。
 また、若桜宮は田川市川宮にある「若咲
神社」と思われる。元宮は若咲橋のたもと
にあった。
 奇妙なことに、鳥取県若桜(わかさ)町は履
中紀の「若桜宮」に由来するとあるから、
あるいは田川の若咲神社こそ神功皇后の若
桜宮ではなかったかと推測される。
 また、西鉄バスの若咲神社停留所の所に、
「神功皇后御水鏡伝説之地」の石碑が建っ
ている。

 

若咲神社(若桜宮)
「写真」
「写真(縁起)」

 

神功皇后御水鏡伝説の地
若咲神社元宮
西鉄バス・若咲神社停留所の隣
「写真」
「写真」

 

神功皇后征西の軌跡
① 357年12月、粕屋町宇美八幡で
  誉田別皇子を出産。
② 香椎宮(福岡市東区)に雌伏、
  誉田別皇子7歳まで成長。
③ 364年、ショウケ越えをし、飯塚市
  大分八幡で新羅遠征の物部軍を解散。
④ 香坂王・忍熊王の反乱。
⑤ 365年春2月、穴門の豊浦宮に入り、
  二王の討伐に向かう。
  3月、忍熊王の軍を殲滅。
  位登宮(川崎町帝階八幡)に遷宮。
  半年後、誉田別皇子皇太子になる。
  神功、天皇位に登る。
⑥ 381年、誉田別皇太子が天皇に即位
  し、神功は皇太后となる。
⑦ 383年、誉田別天皇(応神)磐余若
  桜宮(田川市川宮)に遷宮。

 

 『  宋史 日本国 王年代記 』に神功天皇とある。次の應神天皇の後に家来である 紀武内宿禰が書かれている。
その紀武内宿禰の別名が、(とう)大臣である。その藤大臣の事が久留米の  大善寺玉垂宮 や特に  高良大社 
しっかりと残されている。
   松野連系図(姫氏) は、倭王の系図である。その縢(とう)大臣(=紀武内宿禰)の後に讃・珍・済・興・武
いう倭五王が久留米に現われている。
 神功や応神は、田川にいる。家来の紀武内宿禰の子に続く五代は、久留米で倭五王として君臨している。
この大きな謎について、20年間悩み続けた結果、神功、応神、仁徳は豊国の王であり、倭五王は、筑後の王で
ある。福岡県の東西に2つの王朝があったとして、やっと自分を納得させた。

神功天皇と紀氏王権の成立
『宋史 日本国伝 王年代記』
『松野連系図』
「松野連(倭王)系図」
『宋史』日本国(王年代紀)

 

 
 

4世紀の噴火の特徴-2

 香春町まで英彦山からまっすぐ北上していた狭井川が大量の
降灰で土石流が発生
しやすくなった結果、英彦山からまっすぐ
北上してい狭井川が、河川争奪で赤村の所で東へ向きを変えた
のはこの時期と推定。

 神功皇后は、筑豊で戦争はできたが子育てには向かないので、
被害の小さい筑豊側の久留米から北の端の宇美、そこで出産して、
応神が7歳になるまで香椎で過ごす。
 それからショウケ越えで、筑豊に入り、池尻に腰を据え、即位。
その後、応神を即位させ、最後に磐余の若櫻宮に落ち着く。

 

 

磐余若桜宮
 三年の春正月の丙戌の朔戊子に、誉田別
皇子を立てて、皇太子としたまふ。因りて
磐余に都つくる。是をば若桜宮と 謂ふ。
神功皇后の陵?
(田川市見立の前方後円墳跡)
 六十九年
(西暦三八
九年)の夏
四月の辛酉
の朔丁丑に、
皇太后、
桜宮
に崩り
ましぬ。時
に年一百歳。
 冬十月の
戊午の朔壬
申に、狹城
盾列陵
に葬
りまつる。
※ 田川市川宮に「若咲神社」
Google Earth「田川市見立」