「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 白村江の戦いと壬申の乱
 (令和元年12月1日(日)、豊の国古代史研究会 、於 豊の国古代史研究会研修室)より

 白村江の戦いと壬申の乱

■ 壬申の乱

● 壬申の乱前夜、天智天皇九年に国号を日本と改める。

・・・ 天智天皇九年、倭国を改めて日本となる。この年は、三国史記 新羅本紀文武王十年で、西暦670年に
   あたる。

    翌年の天智天皇十年に、天智天皇は病気になった同じ内容の記事が、天武天皇摂政前紀には、天智天皇
   四年と書かれている。また、天智天皇紀が十年で、天武天皇紀に、四年とあるのが、『日本書紀』である。

    東宮(大海人皇子)が吉野へ行く時に見送った一人が、右大臣中臣金連である。漏刻を造った人物で
   ある。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
⑩ 天智天皇九年(六七〇年)春二月に、戸籍を造る。
※ 庚午年籍。唐の冊封下に入る。
 倭国、更めて日本と号す。自ら言ふ。
 日出る所に近し。以に名と為すと。
(三国史記 新羅本紀文武王十年十二月)
⑪ 天智天皇十年(六七一年)九月に、天皇寝疾不予
 したまふ。
  冬十月の甲子の朔壬午(十九日)に、東宮、天皇
 に見えて、吉野(山国町若宮八幡)に之りて、脩行
 仏道せむと請したまふ。天皇許す。東宮即ち吉野
 入りたまふ。大臣等侍へ送る。菟道(香春町阿曽隈
 社)
に至りて還る。
※(天智天皇)四年冬十月の壬午(十九日)に、
 吉野宮に入りたまふ。時に左大臣蘇賀赤兄臣
 右大臣中臣金連、及び大納言蘇賀果安臣等送り
 たてまつる。菟道より還る。或の曰はく、「虎に
 翼を着けて放てり」といふ。是の夕に、嶋宮(大
  任町島台)
に御します。癸未(二十日)に、
 吉野に至りて居します。
(天武天皇摂政前紀)

 

・・・ 嶋宮は、大任町島台だと思われる。島台から移ったのが、今の  安永神社 である。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
大任町「島台」
「安永神社(大任町)」
「安永神社 由緒」

 

● 壬申の乱勃発。最終的には、大海人皇子軍が勝つ
四、白村江戦前夜~壬申の乱
⑫ 十二月の癸亥の朔乙丑(三日)に、天皇、近江
 宮に崩りましぬ。癸酉(十一日)に、新宮に殯す。
⑬ 天武天皇元年(六七二年
       六月~八月 壬申の乱
5月 朴井(えのい)連雄君、天武に奏上
近江朝
 ・ 美濃・尾張から人夫を集め、彼らに武器を
  執らせた。
 ・ 近江京―倭京の間に斥候。宇道橋守に
  皇大弟宮の舎人の私用の粮を遮らせる。
6・22 
 天武天皇
 ・ 村国連男依、和珥部臣君手、身毛君広に詔、
  美濃国安八磨郡の湯沐令多臣品治に当郡の兵
  を起こし、国司等に諸軍を発し、速やかに不
  破道を塞ぐこと

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
6・24 
 天武天皇
・ 男依らを召し返すため、大分君恵尺、黄書造
 大伴、逢臣志摩を留守司高坂王に、駅鈴を乞わ
 せる。
  不調の場合は志摩は報告に還ること、恵尺は
 近江へ行き、高市皇子、大津皇子を呼んで、
 伊勢で合流すること。
・ 即刻、東国に向けて徒歩で出発。
・ すぐ縣犬養連大伴の鞍馬に遭遇、天皇は御駕。
 皇后は輿。
・ 津振川で車駕到着。この時までに従う者。
 草壁皇子、忍壁皇子 舎人:朴井連雄君、縣犬
 養連大伴、佐伯連大目、大伴連友國、稚桜部臣
 五百瀬、書首根摩呂、書直智徳、山背直小林、
 山背部小田、数人。女孺十数人。

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
6・24 天武天皇
・ 菟田(川崎町)の吾城到着。大伴連馬来田、
 黄書造大伴、吉野宮より追いつく。屯田司の
 舎人土師連馬手、従者たちの食事を提供。
・ 甘羅(かむら)(香春の一部か)を過ぎたところで、
 猟師二十数人と出会う。大伴朴本連大國が首。
 全員、供に追加。美濃王を呼び寄せ、供に追
 加。
・ 菟田郡家の頭:湯沐の米を運ぶ伊勢國の
 駄五十匹に遇う。米を捨て、歩者乗る。
・ 大野:日没で暗く、進行できないので、
 いその村の家の籬を引き抜いて松明に。
・ 隠郡(なばりのこおり)(隠美濃か):夜半に到着。隠駅家
 を焚く。
・ 伊賀郡:伊賀郡家を焚く。

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
6・26 天武天皇
・ 朝、朝明(あさけ)郡の迹太(とほ)(貫川)の辺で、天照
 大神を望拝。
・ 益人が大津皇子(山部王・石川王でなく)
 と共に戻る。
  従者:大分君恵尺・難波吉士三綱・駒田勝
 忍人・山邊君安麻呂・小墾田猪手・泥部の視
 枳・大分君稚臣・根連金身・漆部友背等の輩
・ 朝明郡家に到着寸前に男依が駅馬で、美濃
 の師三千人を発し、不破道を塞いだことを奏
 上。
・ 郡家に到着後直ちに高市皇子を派遣して、
 軍を統括させた。
 山背部小田・安斗連阿加布を東海へ、稚桜部
 臣五百瀬・土師連馬手を東山道に派遣し、そ
 れぞれの軍を起こす。
・ 天皇、この日に桑名郡家に宿り、そこに留
 まる。

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
6・27
吹負
・ 高市皇子より桑名郡家に使者。御所が遠くて
 連絡が不便。
天武天皇
・ 皇后を桑名に留めて、不破に入り給う。
・ 天皇、不破郡家に到着目前に尾張國司守小子
 部連鉏鉤、二萬の兵を率いて参加。その軍を分
 けてあちこちの道を塞ぐ。
・ 野上(河内ダム付近)に到るころ、高市皇子
 が和蹔(上事役)よりお迎えに上がる。
  近江朝よりの書直薬と忍坂直大麻呂を捕える。
 磐鍬は逃げ帰った。…
・ 高市皇子に鞍馬を賜い。軍事についてすべて
 授ける。
・ 皇子:和蹔(わざみ)に帰る 
・ 天皇:行宮を野上(のがみ)に起こす。
6・28 天武天皇
・ 和蹔にお出でになり、軍事について検査し、
 考えられる。

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
6・29
天武天皇
・ 天皇、和蹔にお出でになり、高市皇子に命令
 を下すとともに、軍衆に号令をおかけになった。
・ 野上に帰還。
吹負
・ 留守司坂上直熊毛と内応を図る。(秦造熊、
 1人、2人の漢直等)
・ 近江の使者 穂積臣百足(小墾田の兵庫で、
 兵を近江へ運ぶ)を斬る。
  穂積臣五百枝・物部首日向―捕えたが、しば
 らくして赦し、軍中に置く。
  高坂王・稚狭王―軍に従わせる。
・ 大伴連安麻呂、坂上直老、佐味君宿那麻呂等
 を不破宮に遣し、報告。
天武天皇
・ 吹負を将軍にする―三輪君高市麻呂、鴨君蝦
 夷等、大勢の豪傑が配下に―近江を攻撃。

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
「壬申の乱 戦闘ルート図」

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
7・1 倭京軍
・ 吹負ら、まず乃楽(なら)に向かう。
・ 将軍吹負、乃楽に向かって稗田に到った日、
 河内から軍兵が多数やって来るという情報が
 もたらされた。
・ 坂本臣財・長尾直眞黒・倉墻直麻呂・民直
 根麻呂に3百人の軍士をつけて、龍田(高安
 城:馬ガ岳)を防御させる。
・ 佐味君少麻呂に数百人つけて、大坂に駐屯
 させた。
・ 鴨君蝦夷に数百人つけて、石手道(いわてのみち)(仲哀峠
  か?)を守らせた。
・ 坂本臣財等は平石野(ひらしのの)に宿営することにして
 いたが、近江の軍が高安城に居ると聞いて出
 発した。
  近江軍は財等が来ると聞いて、税倉を悉く
 焼いて、散り散りに逃げ去っていた。そこで
 高安城で宿営した。

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
7・2 ①
東道軍
・ 紀臣阿閉麻呂、多臣品治、三輪君子首、置始
 連莵数万の衆、伊勢大山を越えてへ。
・ 多臣品治は三千の兵とともに莿萩野(たらの)に駐屯さ
 せる。
・ 田中臣足麻呂に倉歷道(くらふのみち)を守らす。
不破軍
・ 村國連男依、書首根麻呂、和珥部臣君手、膽
 香瓦臣安倍 数万の衆を率て、不破より出でて
 直に近江に入らしむ。近江軍と識別するため赤
 色の印を付けさせる。
近江軍
・ 山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等 数万、
 上川
に布陣。
・ 山部王、蘇我臣果安・巨勢臣比等の為に殺さ
 れる。この乱で進軍できず、蘇我臣果安、犬上
 より返って自死す。
・ 近江、精兵により、忽ち玉倉部邑を攻撃する
 も、出雲臣狛により反撃され、追い出される。

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
7・2 ②
不破軍
・ 近江の将軍、羽田君矢國、その子大人ら、己
 が族を率いて来降。
  斧鉞を授け、将軍に拝し、北越に入らしむ。
倭京軍
・ 高安城より曙に西の方を臨むと、大津丹比
 の両道より多数の軍兵が押し寄せる。
  近江の将、壹伎史韓國の軍とのこと。
・ 財等、高安城より降りて衛我河(えがのかわ)
 渡って、韓國と河の西で戦うが、多勢に無勢で
 防ぎきれなかった。
・ 紀臣大音が守っている懼坂道(かしこのさかの
 みち)
に退いて、大音の軍営にいる。
・ 河内國司守来目臣盬籠、不破宮に帰順しよう
 として、発覚。自殺。

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
7・3
倭京軍
・ 将軍吹負、乃楽山の上に駐屯。
・ 古京を赤麻呂、忌部首子人に守らせる。
 赤麻呂ら、古京で、道路の橋の板を解体して、
 楯を作り、京の邊の衢に立てて守る。
7・4 ①
倭京軍
・ 将軍吹負、近江に敗戦。
・ 東道将軍紀臣阿閉麻呂、倭京将軍大伴連吹負
 が近江軍に敗れたと聞き、軍を分けて、置始連
 莵に千餘騎を率いて、倭京に急行させた。
・ 吹負、軍を解散し、一、二人の騎士を連れて
 逃げ、墨坂にて莵の軍に遭遇した。
  戻って金綱井に駐屯し、逃げ散った卒を招集
 した。
・ 近江軍が大坂道より到ると聞いて、将軍は軍
 を率いて西に向かった。
  当麻の衢に到って、壹伎史韓國と葦池の畔で
 戦う。来目という勇士の御蔭で、近江軍は悉く
 敗走。

 

● 壬申の乱の決戦の地は、赤村(遠つ飛鳥)だった

・・・ 大海人軍が、初めて大勝する。
   「上中下の道に当てて駐させる。将軍は中つ道へ。」、この「中つ道」は、香春町中津原の所。

    『日本書紀』の「上中下の道」を通説の学者は、解らなくて奈良県桜井市を南北に通る道だ
   としているが、豊国説を唱えているので、「上中下の道」といえば、田川(遠つ飛鳥)京築
   (近つ飛鳥)
を結ぶ道だとかなり前から想定していた。
    北と南のどちらが上で、どいらが下かが解らなかった。田川の地に研究所を構えるようになり
   調べていたら、ある日ひょいと解った。
    上赤は英彦山側、下赤は英彦山より遠い方。田川地区では、上が南側で、下が北側になる。
   上田川、下田川。田川の土地だけ特別である。日本全国と全然合わない。東京に向いている訳
   でもない。大宰府を向いている訳でもない。英彦山に向かって、近い方が上になる。
    英彦山に向かって、「上つ道」と言へば、大坂。「中つ道」は、中津原。「下つ道」は、
   たぶん味見峠辺りだと考えている。

    その「上つ道」で大坂から下ってくると赤村の小柳辺りになる。
    「上道に当たって、箸陵の下で戦う」この時に大海人軍が大勝ちしたとある。その箸陵が、
   赤村内田の前方後円墳形地形であれば、壬申の乱の決戦の地は、赤村だった
    そこは、遠つ飛鳥の地であった。

    「箸陵」が、『日本書紀』で出てくるのは、「崇神天皇紀」と「天武天皇紀」の2ヶ所だけ
   である。その崇神天皇紀に登場する倭迹迹日百襲姫が卑弥呼とすれば、その箸墓が卑弥呼の墓に
   なる。
    天武天皇紀の壬申の乱の決戦の地が、「箸墓の下」とあり、そこは巨大前方後円墳型地形が
   ある  赤村の内田(小柳) である。

    だから、壬申の乱も豊国で起きている。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
7・4 ②
東道軍
・ 軍を分けて、上中下の道に当てて、駐させる。
 将軍は中つ道へ。
・ 近江将、犬養連五十君、中道より来て村屋
 留まり、別将廬井造鯨を二百名の精兵をつけて
 派遣、将軍の軍営を衝く。
  この時、麾下の軍勢が少なく防ぐことが難し
 かったが、大井寺の奴、徳麻呂等5人の弓で
 鯨の軍は進めなかった。
・ 三輪君高市麻呂・置始連莵、上道に当たって、
 箸陵の下で戦う。近江軍に大勝。勝ちに乗って、
 鯨の軍の後ろを断ったので、鯨の軍はすべて解
 散して逃げ散った。鯨は辛うじて逃げることが
 できた。
・ 伊勢からの紀阿閉麻呂等の本隊が続々到着し
 てきた。

 

・・・ 「  左中津道 」の道標が残されている。この道は、仲哀峠を越えて京築の中津村(大分県の中津では
   ない)に至る

四、白村江戦前夜~壬申の乱
「左中津道」の道標(香春町高野)
「左中津道」の道標(香春町高野)
「左中津道」の道標(香春町高野)

左中津道

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
上つ道(柿下大坂~小柳)
中つ道(仲哀峠~中津原)
下つ道(味見峠~採銅所)
近つ飛鳥(京築)~遠つ飛鳥(田川)
地図「香春町」

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
・ 三輪君高市麻呂・置始連莵、上道
 当たって、箸陵の下で戦う。近江軍に
 大勝。勝ちに乗って、鯨の軍の後ろを
 断ったので、鯨の軍はすべて解散して
 逃げ散った。鯨は辛うじて逃げること
 ができた。
Google Earth「赤村内田の前方後円型地形」

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
「壬申の乱 戦闘図」

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
7・5
近江軍
・ 近江の別将、田邊小隅、鹿深山を越え、こっ
 そり倉歷に到る。夜半に軍営を急襲。
東道軍
・ 足麻呂側の陣は乱れ、足麻呂のみ免れた。
7・6
近江軍
・ 小隅、莿萩野を急襲したが、多臣品治がよく
 防いで、精兵により追撃した。
・ 小隅はようやく逃れ、再び襲ってくることは
 なかった。
7・7 不破軍
・ 男依等、近江軍と戦って、息長の横河(黒川)
 に破り、その将の境部連薬を斬った。
7・9 不破軍
・ 男依等、近江の将、秦友足を鳥籠山(とこの
 やま)
(高尾山?)で討伐して斬る。

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
7・13 
不破軍
・ 男依等、安河の濱の戦いで大勝。社戸臣大口、
 土師連千嶋を捕獲。
7・17 
不破軍
・ 栗太(くるもと)の軍を討伐しながら追う。
7・22 ① 
不破軍
・ 男依等、瀬田に到る。大友皇子および群臣が
 橋の西側に大きな陣を張っていた。
・ 近江の将、智尊が精兵を率い先鋒として、不
 破軍の侵入を防いでいたが、大分君稚臣という
 勇敢な士が、敵陣中に飛び込むと、忽ち、敵陣
 は乱れ、散り散りになり、大友皇子、左右の大
 臣たちも辛うじて逃げることができた。
・ 男依等、粟津岡の下に軍をまとめた。
・ 羽田公矢國・出雲臣狛は三尾城を攻撃して降
 参させた。

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱
7・22 ② 
倭京軍
・ 将軍吹負、の地を平定し終わったので、
 大坂を越えて、難波に行った。
  彼以外の別将たちは、各々上中下の三つ
 の道
を進んで、山前に到って、川の南に駐
 屯した。
・ 将軍吹負は難波の小郡に留まって、以西
 の國司に官鑰・驛鈴・傳印を進上させた。
7・23 ①
不破軍
・ 男依等、近江の将、犬養連五十君および
 谷直盬手を粟津市に斬る。

 

● 天智天皇は、病死ではない。織幡神社の沓塚は、天智天皇の沓塚?万葉集から事実が浮かび上がる

・・・ 大友皇子は、中間市の宮へ逃げようとするが、諦めて山前(小竹町)で首を括って死んだ。

    『扶桑略記』には、天智天皇は、山の中に入って帰ってこなかった。靴だけ落ちていた所を
   山陵とした。そこが、山科陵である。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
⑬ 天武天皇元年(六七二年
       六月~八月 壬申の乱
7・23②  
  秋七月庚寅朔壬子(二十三日)に、
 大友皇子、逃げて入らむ所無し。乃ち
 還りて山前(小竹町)に隠れて、自ら
 縊れぬ
 十二月三日。天皇崩。同十二月
五日。大友皇太子。即為 帝位 。
生年廿五。
 一云。天皇駕 馬。幸 山階
郷 。更無 還御 。永交 山
林 。不 知 崩所 。

 只以 履沓落處 為 其山陵 。
以往諸皇不 知 因果 。恒事 
煞害 。
※ 扶桑略記第五 天智天皇九年

 

・・・ 「靴だけ残した」という。  宗像市の織幡神社 の境内に今も武内宿祢の沓塚がある。
    しかし、武内宿祢の墓は、ちゃんと高良大社の奥宮にあるので、織幡神社の所で亡くなった訳ではない。
   であれば、これは、天智天皇の沓塚となった。
    この織幡神社の突端の海に入水自殺したのではないだろうか?天智天皇と天武(大海人皇子)は、
   直接戦った間柄で、天智天皇は病死ではない。万葉集からも事実が浮かび上がる。
    この場所は、昔から自殺の名所で、海流が複雑な為に、遺骸がなかなか上がらない。沈んだら敵には
   捕らえられない。だから、后も天智天皇の遺骸には、会えなかったようである。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
「写真」

天智天皇の入水場所
昔からの自殺の名所

「写真」

織幡神社境内にある武内宿祢の沓塚

「写真」

高良大社奥宮 武内宿祢の墓

 

● 『万葉集』から浮かび上がる天智天皇の入水自殺

・・・ 148番歌に、大后が「直接には天皇にお逢いできない」(遺体を目にすることができない)と
   詠われている。

    153番歌に、「鯨魚取り 淡海の海を」とあり、琵琶湖で鯨は絶対に捕れない。近江大津宮の
   場所も滋賀県の大津ではない。この歌は、玄界灘の歌である。
    壬申の乱は、豊国で起きている。

    万葉集のこの大后の歌から言えば、どう考えても天智天皇は、入水自殺をしている。
    扶桑略記から言っても、靴だけ残している。今も何故か知らないが、靴をそろえて入水自殺を
   する。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
万葉集の証言 (天智天皇の入水自殺)
 一書に曰はく、近江天皇、聖躰不豫御病急か
なる時、大后の奉獻る御歌一首 
(一四八)靑旗の 木旗の上を かよふとは
     目には見れども 直に逢はぬかも
 山科の青旗のような木幡(織幡神社)の上を御霊は
通っておられると目には見えるけれど、もはや直接には
天皇にお逢いできない
ことである。
(直に逢ふとは、相觸れる肉體のある人間として直接に
 相見る事
である。 澤瀉久孝)
 大后の御歌一首
(一五三)鯨魚取り 淡海の海を 沖放けて
     漕ぎ來る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ
     邊つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 
     夫の 思ふ鳥立つ
(鯨魚取り)淡海の海の遠く沖辺を漕いで来る船よ。沖
の櫂もひどく水を撥ねないでおくれ。岸辺の櫂もひどく
水を撥ねないでおくれ。(若草の)入水した我が夫のよ
うに思われる鳥が、驚いて飛び立つかも知れないから。

 

● 壬申の乱の戦後処理は、大きな謎

・・・ 近江朝の役人として、右大臣中臣連金(金連では無く、連金となっている)一人だけ斬首されている。
   後は、配流と非常に穏やかな罪である。これも壬申の乱の大きな謎である。
    天武天皇は、壬申の乱の後に国をまとめ上げていく為に、近江朝の家臣たちを大事にしたという事で
   ある。天智天皇の一番の腹心であつた漏刻を造った右大臣中臣金連だけを処刑したとなっている。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
8・25
 八月庚申朔甲申、命高市皇子宣近江群臣
 犯状。則重罪八人坐極刑、仍右大臣
 中臣連金
於淺井田根。是日、左大臣蘇我
 臣赤兄
・大納言巨勢臣比等及子孫、并
 中臣連金之子蘇我臣果安之子、悉配流
 以餘悉赦之
・ 高市皇子、近江の群臣の罪状を宣告、重罪
 8人を極刑。
  右大臣中臣連金を浅井の田根にて斬る。
  左大臣蘇我臣赤兄・大納言巨勢臣比等、お
 よび子孫、中臣連金の子、蘇我臣果安の子を
 配流。その他はすべて赦す。
  これ以前に、尾張國司守少子部連鉏鉤は山
 に匿れて自死。

 

● 壬申の乱の後、天武天皇は「遠つ飛鳥」の地の宮を置く

・・・ 天武天皇は、壬申の乱で勝利した後に倭国東朝の宮、岡本宮に入る。  赤村の光明八幡神社 である。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
8・27  有功者たちを賞め、寵を与える。
9・8  車駕帰還の途につかれる。
9・08  伊勢の桑名に宿り給う。
9・9  鈴鹿に宿り給う。
9・10  阿閉に宿り給う。
9・11  名張に宿り給う。
9・12
  倭京に到り、
  嶋宮に御す。
9・15   
  嶋宮より岡本
  宮
に移る。
Google Earth「福岡県Flood Maps」

 

・・・ 岡本宮の南に飛鳥浄御原宮に遷るとあり、岡本宮が光明八幡神社だとするとちょっと方角が
   ずれているが、赤村大原としか解らない。ここは、卑弥呼の都(宮殿)の跡であり、天武天皇が
   遷ってきた遠つ飛鳥浄御原宮の地と想定している。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
天武天皇元年(六七二)
⑭ 是歳、宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷
 りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。
※ 飛鳥浄御原宮を田川郡赤村大原の貴船神社の
 地に比定。
Google Earth「赤村大原」

 

・・・ 飛鳥浄御原宮は、赤村の大原である歌が、万葉集(103番歌、104番歌)に残されている。
   鎌足の娘の藤原夫人の歌である。名前が、大原大刀自である。

    万葉集に詠われた「大原(おおばる)」が、赤村の大原であれば、飛鳥浄御原宮は赤村大原にある。
   決して、京都の大原ではない。

    京築に雪が降る時は、赤村が先に降る。行橋の方が後だという。気象条件もこの萬葉集で詠われた歌と
   ピッタリである。
    ここには、貴船神社がある。その貴船神社の闇龗(くらおかみ)=(龍神)が、降らせた雪が砕けて、
   行橋で散っていると詠っている。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
⑮ 万葉集の証言 (天武天皇と大原の里)
 天皇賜藤原夫人御歌一首
一〇三 吾が里に 大雪ふれり 大原
    古りにし里に ふらまくは後
 わたしの居る里(新京、後の藤原京=福原長者原
遺跡
か)には大雪が降っている。そなたの里の大原
の旧都(飛鳥浄御原宮)
に雪が降るのはまだ後だろう。
 藤原夫人奉和歌一首
   (藤原夫人は鎌足の娘、字は大原(おおはらの) (おお)刀自(とじ)
一〇四 吾が岡の おかみに云ひて ふらし
  めし 雪のくだけし
  そこに散りけむ
 わたくしの里の大原の闇龗(くらおかみ)
(龍神)
に云いつけてふらせ
ました雪の砕けましたのが、
そこのあたりに散ったのでご
ざいましょう。大原の里に先
に降りましたよ。
     (福永の新解釈)
「赤村大原の貴船神社の雪景色」

 

● 一番大きな謎 天武天皇は草薙の剣に祟られて病死する

・・・ 壬申の大乱は、豊国で起きた。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
⑯ 天武天皇十五年(六八六)六月の戊寅(十日)
 に、天皇の病を卜ふに、草薙劒に祟れり
 即日に、尾張国の熱田社(鞍手町) に送り置く。
朱鳥元年(六八六)九月丙午(九日)に、天皇
 の病、遂に差えずして、正宮に崩りましぬ。
 以上をまとめると、壬申の乱は、確実に「最後
の豊国北伐」である。
 万が一、天智天皇の死が織幡神社突端の岬から
の入水自殺の結果であれば、壬申の乱は「豊君の
天智天皇」と「大海人皇子=筑紫君薩野馬」との
直接の争い
であった可能性が高い。
 勝利した天武が三種の神器の中心である草薙の
剣に祟られて病死する
様は、日書紀中最も特筆
大書本されるべきであろう。

 

● 倭国本朝と倭国東朝の2つの王朝の存在を『旧唐書』が証明

旧唐書の証明
 倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四
千里,在新羅東南大海中依山島而
,東西五月行,南北三月行,世與中
國通。其國,居無城郭,以木爲柵,以
草爲屋。四面小島五十余國,皆附屬
焉。其王姓阿每氏,置一大率,檢察諸
國,皆畏附之。設官有十二等。其訴訟
者,匍匐而前。地多女少男。頗有文
字,俗敬佛法。並皆跣足,以幅布蔽其
前後。貴人戴錦帽,百姓皆椎髻,無冠
帶。婦人衣純色裙,長腰襦,束發於
後,佩銀花,長八寸,左右各數枝,以
明貴賤等級。衣服之制,頗類新羅。貞
觀五年(631),遣使獻方物。太宗
矜其道遠,敕所司無令歲貢,又遣新州
刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之
才,與王子爭禮,不宣朝命而還。至二
十二年,又附新羅奉表,以通起居。

 

・・・ 「日本國者,倭國之別種也」は、天智天皇が国号を日本を換えた国は、倭国とは別種である。
   その日本国を天武天皇が奪い取る。

    「日本舊小國,併倭國之地。」は、日本は、元小国で、倭国の土地と併せた。

    天武以後、「其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。」は、その人、入超する者が
   自ら強大で実をもって答えず、(かつての倭国・日本国の歴史事実を答えない)と言っている。
   だから、中国は、これを疑うと書いている。
    これが『旧唐書』に残っている。

旧唐書の証明
 日本國者,倭國之別種也。以其國在
日邊,故以日本爲名
。或曰:倭國自惡
其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小
國,併倭國之地
。其人入朝者,多自矜
大,不以實對故中國疑焉。又云:其
國界東西南北各數千里,西界、南界咸
至大海,東界、北界有大山爲限,山外
即毛人之國。
 長安三年(703),其大臣朝臣真
人來貢方物。朝臣真人者,猶中國戶部
尚書,冠進德冠,其頂爲花,分而四
散,身服紫袍,以帛爲腰帶。真人好讀
經史,解屬文,容止溫雅。則天宴之於
麟德殿,授司膳卿,放還本國。
(後略)