「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
白村江の戦いと壬申の乱
白村江の戦いと
壬申の乱
(※)令和元年七月二八日(日)講演の改定版
※ YouTube動画「令和1年7月28日(日) 白村江の戦いと壬申の乱 」はこちらからご覧になれます。
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■ 「壬申の乱」の通説を覆す
・・・ 「壬申の乱」は、豊国で起きた。奈良県・三重県・滋賀県の戦いではない。天智天皇が
病死した後に大海人皇子が反乱を起こして、甥の大友皇子を倒したというのが、教科書の
内容である。
天智天皇が都を構えたのが、滋賀県大津市の大津宮である。天智天皇が亡くなった後、
大友皇子が後を継ぐが、吉野に逃れていた大海人皇子が謀反を起こして大友皇子を死に
追いやったというのが、通説である。
■ 福岡県に倭国本朝と倭国東朝という2つの王朝が並立
・・・ 法興元年(西暦591年)以降に福岡県の東西に2王朝が並立していた。筑紫側、豊国側の
2王朝のどちらとも倭(やまと)国である。
「法興」という元号は、「天物部氏が筑紫側に就く」という文句が関係する。
蘇我馬子と物部守屋が争って、守屋が敗れる。この時に唱えてきた「倭国=豊国説」では、
この時に総大将(守屋)が敗れたことによって、遠賀湾流域の筑紫物部八十氏が、阿毎多利思
比孤という大宰府に都を構えた『隋書 俀國伝』に出てくる有名な「日出ずる處の天子」側に
就いた。
これが、『日本書紀』から捉えた「倭国=豊国説」の見方である。だから、聖徳太子は、
いなかったという通説とは異なる豊国にも筑紫国にも聖徳太子はいなかったという解釈である。
■ 倭国東朝の出来事(舒明・皇極天皇~天智天皇)
・・・ 聖聴元年(六二九)舒明天皇即位。二年(六三〇)飛鳥岡本宮に遷る
・・・ 八年(六三六)田中宮に遷る
・・・ 十三年(六四一)百済宮に崩御
*.舒明天皇は、蘇我氏を嫌ってか、蘇我氏の拠点の基盤である近つ飛鳥(京築地区)を離れ、
一貫して遠つ飛鳥(田川地区)に居た。
・・・ 元年(六四二)皇極天皇即位
・・・ 二年(六四三)飛鳥板蓋宮に遷る。三年(六四四)蝦夷・入鹿、家を甘樫丘に並べ建つ
・・・ 四年(六四五)乙巳の変。蘇我蝦夷・入鹿親子は墓に葬ることが許される。双墓とある
・・・ 糸田町のたぎり(沁泉)が、天智称制の謎を解く
・・・ 『福岡県神社誌』に「金村權現宮」の「神體臺板の刻文」が残っていた
・・・ 「金村権現宮」は、大伴金村が祀られている
・・・ 豊前誌(金村神社の項) 大伴金村が、たぎり(泌泉)に造る
・・・ たぎりの由来(絵本)で、水が堰を越えて溢れていたことを示す
・・・ 天智天皇が中臣金連に命じて造らせた物は、須弥山と漏刻である
・・・ 漏刻は、本当にいつ造られたのか? 造らてた年は、1つのハズ
・・・ 天智の「称制」は、何時、誰の時に称制したのか? 白村江戦につながる
・・・ 孝徳天皇の大化の改新に中大兄皇子は従わなくなる
・・・ 河辺/河邊と書いて、「かわら」と読ませた宮は?
・・・ 『日本書紀』にある新羅と百済の「二元外交」の真実
・・・ 斉明紀にある狂心の渠、垣造る、吉野宮は、すべて天智の業績
・・・ 宮原盆地の謎の地下水路が「狂心の渠」
・・・ 呉中平雪穴が「垣造る」とある灌漑設備の垣
・・・ 應神天皇紀が著す吉野にある若宮神社が「吉野宮」
・・・ 和同開珎も天智天皇の時代に造られている
■ 白村江戦前夜~壬申の乱
▶ 白村江戦の前後
・・・ 天智三年(六六四→六五七)倭国本朝、水城を築く(白村江戦の前でないとおかしい)
・・・ 大宰府は、羅城で囲まれていた(奈良の平城京、京都の平安京にも羅城は無い)
・・・ 天智天皇七年(六六八→六六一)天智天皇即位(この年に草薙劔が盗まれる変な記事がある)
・・・ 天智天皇六年(六六七→六六一)近江大津宮に遷す(『海東諸国紀』に白鳳に改元とある)
・・・ 天智二年(六六三年)倭国本朝、白村江に敗戦(1000艘の中に600艘は戦いに参加せず)
・・・ 白村江戦の倭国本朝の遺物(戦った「御笠団印」、戦わなかった「遠賀団印」)
・・・ 天智四年(六六五→六六四)筑紫君薩野馬の帰朝(百濟禰軍、唐國使人郭務悰らも一緒)
・・・ 天智四年(六六五→六六四)天智天皇、菟道に閲す。琴弾瀧で別れの秘曲を奏す
・・・ (天智)三年と(天智)十年の冠位改定の記事重出(筑紫君薩野馬が大皇弟)
・・・ 「白鳳」という元号は、西暦何年? 白鳳五年創建の興国寺は何時出来た?
・・・ 天智天皇の時に「中元」という元号(添田町の諏訪神社由緒に「中元司」)
▶ 壬申の乱
・・・ 壬申の乱前夜 天智天皇は、国号を「日本」に改めた翌年に病気になる
・・・ 天武天皇元年(六七二年)六月~八月 壬申の乱
・・・ 上中下の道は、京築と田川を結ぶ道、壬申の乱の決戦は赤村(卑弥呼の墓の下)
・・・ 天智天皇の最期は、入水自殺。『扶桑略記』と織畑神社境内の武内宿祢の沓塚は?
・・・ 天智天皇の入水自殺が、万葉集にある大后の歌(148番、153番)から浮かび上がる
・・・ 壬申の乱終結。何故か右大臣中臣金連の一人だけ斬首
・・・ 天武天皇元年(六七二)飛鳥浄御原宮(赤村大原)に遷る。藤原夫人の歌にある大原は?
・・・ 朱鳥元年(六八六)天武天皇崩御。大きな謎は、草薙の剣に祟られて病死
・・・ 倭国本朝と倭国東朝の存在を『旧唐書』が証明