「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
白村江の戦いと壬申の乱
■ 斉明天皇と天智称制の謎
● 「たぎり(泌泉)」が天智称制の謎を解いた
・・・ 孝徳天皇が崩御した後も蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子は即位しない。皇極天皇が重祚(ちょうそ)して
斉明天皇として即位したと『日本書紀』は書いている。
天智の称制の謎を解いたのが、この糸田町の「たぎり(泌泉)」である。これは、「天智天皇7年
秋8月、右大臣金連公によって造営された」と平安時代の石板に記録されている。
・・・ 上空から見ると丸い池と四角の池と排水路の三位一体で造られている。
・・・ これが、糸田町に残されている拓本である。虫食いだらけとなっている。この拓本の元となった
石板は、明治時代に当時の糸田村が県庁に差し出して以来、戻ってきていない。この石板も行方不明で
ある。
・・・ この拓本の冒頭に書かれている内容である。
・・・ この石板に刻まれた内容が、何故か『福岡県神社誌』に「神體臺板の刻文」とあり「舊記・・・」と
続く全文が綺麗に残っていた。原文のままに残っていた。奇跡である。
・・・ 出だしにある「旧記」がとある興味深いものであるが、不明で得られない。
最後の赤字の部分に地震が起こり、身体が壊れて神泉が埋まり水が出なくなったとある。泉を埋めた
神体とは、どのような物が建っていたのか?
・・・ 新しいご神体を北方二町にある鉾を持ってきて神様として祀ったら、神泉が蘇ったという記録である。
・・・ たぎり(泌泉)の説明の中に「金村権現宮」とあるから、大伴金村が祀ってある。
・・・ 大伴金村が関の山のドリーネから水路を造って、泌泉に真水を湧かすことに成功した。
・・・ たぎり(泌泉)の円形の池が、湧き出た水で満杯になって、四角い池との境の堰を越えてに溢れていた
という。
● 天智天皇が中臣金連に命じて造らせた物
・・・ 『日本書紀』に書かれている。斉明天皇六年に皇太子(天智天皇)が、日本で最初に漏刻(水時計)を
造った。さらに須弥山も造っている。また、天智天皇十年に同じような記事がある。
斉明天皇六年と天智天皇十年に同じ「漏刻を造った」となり、年代が何故このように離れているのか?
糸田町の土地の「たぎり(泌泉)」が天智天皇七年に造られている。
漏刻の築造年が、田川糸田町の年と『日本書紀』の2つの年と合計3つの年がある。漏刻が作られたのは、
何年が正しいのか?
漏刻と同じ斉明天皇六年に造られた須弥山の仏教の世界でのモデル図です。中央が須弥山で、忉利天が
住んでいる。下には、島が多数あり、大きな海が広がっている。集まった島の真ん中の一番高い山が
須弥山である。
・・・ 仏教の世界の須弥山の概念図を地上に造ったのが、斉明天皇六年の記事である。
奈良県明日香にある須弥山石は、須弥山ではなく、単なる石である。
糸田町のたぎり(泌泉)は、須弥山の形を表している。現在は、池の水が涸れているが、残りの石が
気になる。須弥山のモデル図にある島のようである。
この場所に「高如廟塔」とある高い建造物が建っていた。
・・・ 池の中に建っていた建造物を思い描いたのが、新羅慶州にある瞻星台と呼ばれる星を見る台である。
韓国の学者もこの善徳女王が建てた建物を須弥山でないかという学者もいる。
この建物の機能としては瞻星台だが、仏教の世界の須弥山を模しているという両方の可能性を考えて
いる。
このたぎり(泌泉)の丸い池の直径を測ったら、約11.5mある。したがって、新羅慶州の瞻星台の
倍の大きさがあり、高さも20m近くあった物が建っていたのではないか?
瞻星台は、石で囲われていて小さな窓しかない。中の池が暗くなので、日中でも水面に星が映る。
天武天皇紀に、「占星台」が書かれている。天智天皇紀の漏刻(須弥山)の事を天武天皇紀で占星台と
書いている。新羅慶州の瞻星台と同じ物だと思われる。
丸い池(占星台)の方で、年月日を測り、四角い池(漏刻)の方で時を測る。
・・・ この漏刻の図面と模型には、大きな欠陥がある。一日時を測ったら、一番下の水槽の水を抜かなければ
いけないが、その栓が無い。中国に残っている漏刻には、実際に溜まった水を抜く栓がある。
日本の模型には、この水を抜く栓が無い。本物を誰も知らないという事である。
陝西省興平県出土の漏刻
内蒙古伊克昭盟出土の漏刻
広州にある元代の漏刻
・・・ 奈良県明日香村の水落遺跡が天智天皇の漏刻跡だと言っている。そこの遺跡の学芸員たちが作った
復元図は、間が抜けている。役人が下にあるプールの水を汲んで、階段を上って一番上の水槽に水を
入れる。水を人力で運んでいる。
たぎり(泌泉)の四角い池の方では、溢れた水が流れてきた。その水を受け止めるだけで、半自動で
ある。ここであれば、永久的に水汲みをしなくて良い。
一番下の水槽に水を抜く栓があれば、たぎり(泌泉)には排水路があるので、そこに流せば良い。
水を流し終われば、また、栓を締めて測り直せば良い。
だぎり(泌泉)では、丸い池で年月日を測り、四角い池で測り、建物の2階に設けた鐘を突いて、
「ゴーン」と音で人民に時を知らせた。記述通りである。
糸田の『旧記』と『日本書紀』の記述に出てくる人物は、同じである。これが、本物の漏刻の跡だろう。
天智天皇が、糸田にいらっしゃった。天智天皇は奈良県の何処にもいない。滋賀県にもいない。
たぎり(泌泉)が本物の漏刻の跡であれば、天智天皇は、ここの鐘の音が聞こえる範囲にいらっ
しゃった。
● 漏刻は、本当にいつ造られたのか?
・・・ 『日本書紀』の中には、1年のズレが大きい。斉明天皇紀、天智天皇紀、天武天皇紀、持統天皇紀には、
1年ズレの記事がいっぱい出てくる。
1年ズレの原因は、元嘉曆と儀鳳曆という2つの暦を使ったからである。元嘉曆は、古い暦で倭五王の
の時代に入ってきた暦である。それに対して、儀鳳暦は、唐の時代に以降の王朝でに使われた暦である。
『日本書紀』の中には、南北朝時代の古い暦と唐の時代の新しい暦の両方の暦で書かれた筑紫側の記録と
豊国側の記録がごっちゃに使われている。
だから、『日本書紀』の後半になればなるほど、1年ズレが出てくる。したがって、斉明天皇六年の
漏刻の記事は、斉明天皇七年の可能性がある。
次に斉明天皇紀、天智天皇紀、天武天皇紀の七年ズレという大きなズレがある。
天智天皇三年に冠位を増し換えたという記事が、再び天智天皇十年に出てくるが、重出していると
「日本古典文学大系頭注」にある。七年もズレる。
糸田町のだぎり(泌泉)がさらに天智天皇七年と記録を残している。
・・・ 持統天皇に、元嘉曆と儀鳳曆という2つの暦を使ったと出てくる。
元嘉曆は、倭五王の時代から筑紫側で用いられた暦であろう。儀鳳曆は、元々は麟徳暦といい、
天智天皇から豊国側で使われた暦ではなかったか?というのが見えてくる。
『日本書記』に元嘉曆と儀鳳曆が使われていることは言っているが、何時から、誰が、何処で使ったか
をいう学者はいなかった。通説は、大和王朝は元嘉曆と儀鳳曆の2つの暦を同時に使っていたと言って
いるが、これは違う。
筑紫側と豊国側で暦が違う。最終的には、1年ズレてしまうという暦が筑紫側の王朝で使われ、
1年ズレる豊国側の新しい暦に基づいた王朝の記録があった。
違う暦に基づいて書かれた王朝の歴史書を一色淡にしてしまったから、1年ズレがあちこちに
出てくるのはないかという推測である。詳しい計算は、専門家に任せようと考えている。
古い暦と日本書紀が出来る頃の新しい暦が、福岡県の東西の王朝でバラバラに使われていた
らしいということである。
これが、1年ズレの原因だろうと思われる。朝鮮半島・韓国にあるお墓の石文の中にも1年ズレた
暦が出てくる。王様の年の干支がすれいるのがある。
・・・ 漏刻と須弥山の建造年が斉明天皇六年は、「豐璋發遣」の記事の一年ズレと同じ考えれば、
斉明天皇七年となり得る。糸田町(豊国)の旧記のたぎり(泌泉)の建造が天智天皇七年で、
『日本書紀』の斉明天皇七年と同じ年である。
次に冠位改定記事は、『日本書紀』では、天智天皇三年の記事であるので、糸田町(豊国)の
旧記では、天智天皇十年と数えれる。これを日本書紀では、天智天皇十年に記事が重出したか?
糸田町(豊国側)の「旧記」でたぎり(泌泉)=漏刻・須弥山建造が天智七年とあるので、
7年ズレで日本書紀の天智天皇七年に記事が書かれていれば合うが、何故かこの記事も天智
天皇十年に重出している。
漏刻・須弥山建造は、天智天皇七年の記事の誤りか?として片付けるしかなかった。
「七」と「十」のちょっとした違いの誤りか?これは、こじ付けになるかも知れません。
・・・ 少なくとも日本書紀の斉明天皇紀、天智天皇紀、天皇紀の3つの巻は、最小1年ズレ、
最大7年ズレの記事がいくつも重要な場面で出てくることは間違いない。
その時に糸田町のたぎり(泌泉)の石板に、天智七年に造ったとスゴイことが書かれていた。
その記事に書かれている人物が、天智天皇と中臣金連である。その中臣金連が右大臣になったのは、
『日本書紀』では天智天皇十年とあるが、糸田町の『旧記』では、天智天皇七年の時にすでに
右大臣だと書いてある。
この漏刻の建造年を追いかけたら斉明天皇7年(日本書紀)と天智天皇七年(糸田町「旧記」)の
年は、同じ年である。漏刻が造られた年は、どう考えても1つの年である。
だとすると、斉明天皇七年(日本書紀)=天智天皇七年(糸田町「旧記」)の年であれば、
どのようになるか?
元々は、斉明天皇元年と天智天皇元年は、同じ年で並立している。だから、斉明天皇七年も
天智天皇七年も同じ年である。
『日本書紀』編纂時の目的は、万世一系の天皇家の系譜を載せることである。したがって、
筑紫側(斉明天皇)と豊国側(天智天皇)の並立していた歴史書を無理やり縦列につなげた。
だから、記事の年がズレる。これを見極めないと斉明天皇紀、天智天皇紀、天武天皇紀は
読めないということとなる。
糸田町のたぎり(泌泉)の『旧記』が与えてくれた大ヒントであった。したがって、『旧記』に
ある天智天皇七年(661年)が一番正しいと思う。
天智天皇元年を7年前の斉明天皇元年に持ってくると、『日本書紀』は天智天皇十年で終わるが、
豊国側では、天智天皇十七年までがあったのではないだろうか?
● 天智天皇元年の「称制」は、何時、誰の時に称制したのか?
・・・ 天智天皇の「称制」がこの後の白村江の戦につながる。
天智天皇元年(斉明七年)の称制した年は、筑紫君薩野馬が百済が最初に滅んだ年(660年に
義慈王が降伏)に唐軍の捕虜になった翌年である。このことは、日本書紀の持統天皇紀に出てくる。
660年に筑紫側の天皇は、百済が滅亡して義慈王とともに唐の都、長安に連れていかれ軟禁
されたことが、中国と朝鮮と日本の記事で纏めることができる。筑紫君は捕虜となっている。
日本書紀にある天智天皇元年に「称制」した場合は、筑紫君薩野馬が唐の捕虜となった翌年に
倭国本朝と倭国東朝に天皇が一人(天智だけになった)となり即位した。倭国東朝が、倭国本朝を
併合した。
斉明天皇七年に百済の役(百済を救済)に出かけて行って捕虜となったと持統天皇が言っている。
唐で捕虜となった家来が奴隷に身を売って、筑紫君薩野馬らを日本に送り返した。その奴隷に身を
売った家来が30年後に日本へ帰ってきた時の持統天皇紀の記事である。
天命開別天皇三年(天智天皇三年)に帰国した中の一人に筑紫君薩野馬がいる。奴隷に身を
売った家来よりも27年早く帰ってきている。白村江の戦いの敗戦直後に帰国している。
この帰国した人物、筑紫君薩野馬こそが、大海人皇子(3歳の年長、後の天武天皇)ではないかと
日本で初めて言い出した。
筑紫君薩野馬は筑紫側の天皇で日出処天子(阿毎多利思比孤)の孫だと思われる。日出処天子が、
亡くなってから数年後に産まれたのが天武天皇である。だから、日出処天子の子ではなく孫である。
・・・ 『新唐書・百済』にある筑紫君薩野馬が、唐の捕虜となった記録である。660年(唐の元号、
顯慶五年)に筑紫君薩野馬は、百済の義慈王や太子の隆らと逃げるが、捕らえられる。
その時の「酋長五十八人」の中に筑紫君薩野馬がいたと思われる。筑紫側の天子、日出処天子の
孫の筑紫君薩野馬が百済の救援に来ていたが、敗れて捕虜となり、その年の9月には唐の都長安に
送られていた。
筑紫君薩野馬が、唐で軟禁状態のままで、倭国は、白村江の戦いに突入していく。