「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 白村江の戦いと壬申の乱
 (令和元年12月1日(日)、豊の国古代史研究会 、於 豊の国古代史研究会研修室)より

 白村江の戦いと壬申の乱

■ 豊君としての天智天皇

● 孝徳天皇は大化の改新を行うが、後に中大兄皇子が従わない

・・・ 乙巳の変の後に即位した孝徳天皇は、大化の改新を行う。口分田などの制度の改革をして
   中央集権を図る。
    最初、中大兄皇子は、大化の改新に協力するが、途中(六五三年)に倭京に遷ることを
   求める。

    「中大兄が、皇祖母尊と間人皇后、皇弟等を連れて倭飛鳥河辺行宮に遷る」とある中の
   「皇弟」と書かれているのは、『日本書紀』が作ったインチキだと思われる。皇弟=大海人
   皇子は、この時にまだ居ない。

    『日本書紀』は、「河辺」と書いて「かわら」と読ませている。後に「河邊」と書いて、
   また、「かわら」と読ませている。

三、豊君としての天智天皇
① 孝徳天皇の悲劇
 孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(行橋市長井浜
附近か)を造営し、そこを都と定めた。
 白雉四年(六五三)に、中大兄は天皇に
倭京に遷ることを求めた。
 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊
と間人皇后、皇弟等を連れて倭飛鳥河辺(か
わら)
行宮
に赴いた。臣下の大半が皇太子に
随って遷った。
 天皇は気を落とし、翌年病気になって崩御
した。
 (白雉五年、六五四)十二月の壬寅の
朔己酉に、大坂磯長陵に葬りまつる。
 是の日に、皇太子、皇祖母尊を奉りて、
(やまとの)河邊(かはらの)行宮(かりみや)に遷り居したまふ。

 

・・・ 倭飛鳥河辺(かわら)行宮倭河邊行宮(やまとのかはらのかりみや)は、香春町の阿曽隈社の下、古宮ヶ鼻の
   にあったと思っている。
    宮原橋の傍であり、「吹き出し」のすぐ上の所で台地の部分だと思う。実際の阿曽隈社は、この更に
   奥の所である。

倭河邊行宮
宇治宮(上権様)
「香春町古宮の字名入り」地図
阿曽隅社(香春町古宮ヶ鼻)

 

・・・ 『日本書紀』では、西暦655年(斉明天皇元年)が、天智天皇の称制となっているが、私は
   即位である。斉明天皇元年=天智天皇元年と考えているので、ここで天智天皇は即位である。
    孝徳天皇が崩御の後に即位している。天智天皇は、百済との国交を絶ち、遣唐使を派遣している
   倭国東朝の天智天皇は、白村江の戦いの前に早くも、唐・新羅と国交を結んでいた

    『日本書紀』は、唐・新羅と百済・高句麗との二元外交をしていたと書いている。これは、
   正直に言ってビックリである。イランとサウジアラビアが一緒に来るようなものである。これが、
   琵琶湖畔の大津宮に来たらどうなるんですか?ここで撃ち合いですよ。そういうことが『日本書紀』は
   平気で書いている。朝鮮半島で新羅は、百済とずーっと戦争をしている。その2つの国が、一緒に
   やってきて鉢合わせしたらどうなるんですか?
    この時、百済側を応援していたのは、倭国本朝(筑紫側)である。白雉4、5年には唐に遣唐使を
   派遣している豊国側、裏の実力者である後の天智天皇は、唐・新羅と連合している。
    だから、「二元外交は無し」となる。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
飛鳥時代
 中大兄は大化の改新に協力しながらも、
諸豪族の恨みが増すと、それを孝徳天皇
に転嫁し、自らは白雉4(653)年に、
臣下の大半を引き連れて倭飛鳥河辺(かわらの)行宮
(香春町阿曽隈社か)に遷った。
 孝徳天皇は気を落とし、翌年、病気に
なって崩御した。
 655年、中大兄が即位、天智天皇で
ある。天智は百済との国交を絶ち、すで
に白雉4・5年に遣唐使を派遣、唐・新
羅と密約を交わしていた。
 斉明・天智紀にいう「二元外交(唐・
新羅と百済・高句麗との外交)」はなか
ったと考えられる。

・・・ 倭国東朝(豊国側)は、新羅とつながっている。倭国本朝(筑紫側)は、百済を支援している。
   唐は、百済と高句麗と対決する。
    西暦663年百済滅亡とあるのは、白村江の敗戦後の年であり、660年に百済は、一旦滅んで
   いる。倭国本朝が、百済を再興を支援して、多くの軍隊と人質だった皇子豐璋を送り返す。
    『日本書紀』の斉明天皇六年(660年)は、七年(661年)で何故、ここで王子豐璋を
   送り返すのが、倭国本朝なのか、倭国東朝なのか解らなかった。
    百済を支援したのは、倭国本朝(筑紫側)である。孝徳天皇の下で天智が結んだのが、新羅・唐で
   ある。高句麗・百済・筑紫が一つの枢軸国で、豊国・新羅・唐がいもう片方の連合国である。
    仲が悪い同士が同じ王朝へ来る訳が無い。
   

Ⓒ日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「白村江の戦い」地図

 

● 斉明天皇二年の記事は、筑紫側の斉明天皇ではなく、豊国側の天智天皇の業績ではないか?

・・・ 「狂心の渠」、「造る」、「吉野宮」の遺跡が全部豊国側にある。

三、豊君としての天智天皇
 (斉明)二年(六五六)、(中略)
飛鳥の岡本に、更に宮地を定む。(中略)
號して後岡本宮と曰ふ。
 田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。
復、嶺の上の両つの槻の樹の邊に、観を起つ。
號けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。
 時に興事を好む。
① 水工をして渠穿らしむ香山の西より、
石上山に至る。二百隻を以て、石上山の石を
載みて
、流の順に控め引く。
(菟道)宮の東の山に石を累ねて垣とす。
時の人の謗りて曰はく、
①狂心の渠功夫を損し費すこと、三萬餘
 ②垣造る功夫を費し損すこと、七萬餘
 宮材爛れ、山椒埋もれたり」といふ。
 (中略)
③ 吉野宮を作る
※ すべて天智天皇の業績

 

通説の狂心の渠
写真「通説の狂心の渠」

 

・・・ 香春町の宮原盆地には、「謎の地下水路」がある。桃坂豊氏が、『郷土史誌 かわら』に掲載
   されている。
    築造年代等、不明なことだらけだから、「謎の地下水路」である。

宮原盆地 謎の地下水路について
桃坂 豊
 香春町の北部、採銅所井堀付近から瀬戸、
通称六十尺鉄橋といわれる日田彦山線の第二
金辺川橋梁近くまで約四キロに及ぶ石作りの
地下水路
が存在している事を知っている人は
地元においても少ない。
 この地下水路に関しては
① この水路は通称〝吹き出し〟と呼ばれて
 いる。
数本の水路があるらしいが、代表的な
 ものは宮原の小松氏宅にあり、水量温度
 共に季節には関係なく不変である。
③ 江戸時代に作られたらしいが、はっきり
 した築造年代は不明
である。
何の目的で作られたのか全く不明
誰が作ったのか不明
始点、終点共に不明

 

・・・ 宮原の給水設備建設時の写真であるが、かなり地下深い石組みの水路である。ここからポンプで水を
   汲み上げて、青色のタンクに水を蓄えて渇水時に香春の人々に水を配る設備である。
    西暦656年(斉明天皇二年)に造られた地下水路(狂心の渠)だと思う。200隻の船で石を運んで
   来て造られた石組の水路である。桃坂氏は、この石組の上の部分に粘土が被せられていたと言っている。
   だから、この水路は排水路ではなく、給水路だと桃坂氏も断定した。

    香春岳の石灰石の中を通ってきた水である。天埜貴子氏の専門分野であるが、皇極天皇紀・斉明天皇
   紀には、豊後の火山が噴火して香春町の地表の水は腐ってしまった(強酸性になってしまった)。
   魚は死んで腐って浮いてしまい、水が飲めなくなった。それで、急いでこの地下水路を造った、と
   天埜氏は言っている。

宮原の給水設備建設時の「吹き出し」
「吹き出し」の写真
「吹き出し」の写真
「吹き出し」の写真

 

・・・ 大阪山の中腹にある呉中平雪穴」が、斉明紀に「垣造る」と書かれた垣である。垣とあるので、
   城の石垣をイメージしていたが、掘ってあった。雪穴であった。
    昭和52年くらいの台風で壊れたが、排水設備があったそうである。冬場に雪を貯めておいて、
   夏場に雪が溶けた水を下の所で受け止めて、呉にある田圃に流してようである。
    これも灌漑設備である。

呉中平雪穴
桃坂氏の調査結果
「地下水路推定図」
「写真」

 

三、豊君としての天智天皇
 秋の田の かりほの庵の とまをあらみ
 わがころもでは 露にぬれつゝ
               天智天皇
【新解釈】
 秋の田の稲穂を刈り、その藁を苫に編み、仮廬
のようなわが宮殿の屋根を葺くが、苫の目が粗い
ので時々、わが袖は漏れ来る雨露に濡れることだ
それでも、朕は民の暮らしが豊かならんこと
を願う。
【新考】
 仁徳(宇治)天皇
宮垣崩るれども造らず、茅茨壊るれども
 葺かず。風雨隙に入りて、(おほみそ)   (おほみふすま)
 沾うるほす。星辰(やれま)より漏りて、(みゆか)  (みましき)
 を露にす。

を下敷きにして、「天皇自らの衣手(袖)が雨露
に濡れている」ことを詠っているようだ。

 

・・・ 吉野宮は、何処か?田川の都(京)から考えて、應神天皇紀には、吉野は「京より東南、山を隔てた
   吉野川のほとり
」とある。また、「國樔人」の居る処であるとも書かれている。

三、豊君としての天智天皇
 吉野宮(大分県下毛郡山国町吉野若宮神社
の発見
(應神天皇)十九年の冬十月の戊戌の朔に、
吉野宮に幸す。
 時に國樔人來朝せり。
 其の(くに)は、京より東南、山を隔てて、
野河
(ほとり)に居り。峯(さが)しく谷深くして、道
路狹く(さが)し。
 故に、京に遠からずと雖も、本より朝來
すること(まれ)なり。
 然れども此より後、(しばしば)  參赴(まうき)て、以て
土毛を獻る。
※ 齊明(天智)二年(六五六年)是歳
「又、吉野宮を作る」

 

・・・ 應神天皇紀に書かれた吉野は、大分県中津市山国町の吉野である。奈良県の吉野ではありません。
   ここにある若宮神社が、斉明天皇紀に書かれた「吉野宮である。
    境内の写真にあるように山国川(吉野川)から石段が一直線に拝殿まで登れるように造られている。
   江戸時代に住民が造れるような物ではありません。やはりある程度の王権が造った宮殿跡であろう。
    奈良県の吉野宮の模型は、全く根拠がありません。山国町吉野には、建物跡が残っている。
   また、拝殿の周りには、石垣で造られた大臣の住宅跡と思われる場所もある。10何基かある。

吉野宮(若宮神社)
「道の駅やまくに」の案内板(山国町吉野地区)

 

吉野宮(若宮神社)

境内の巨岩

「写真」

二の鳥居

「写真」

石垣(左)の前の巨岩

「写真」

石垣(左)

「写真」

 

・・・ 有名な「和同開珎」であるが、これも日本書紀を丁寧に読んでいくと天智天皇の時代に作られている
   銅の成分も香春三ノ岳の銅だと解っている。和同開珎の古い銅銭は、香春三ノ岳の銅が使われている
    この事も学者にとって都合が悪いので、頑なに口を閉ざしている。このような事は、オープンにして
   欲しい。

吉野宮(若宮神社)
「和同開珎」
斉明(天智)二年
  (六五六)

銅銭の銅は、倭国東朝
(豊国)の香春三ノ岳
天香山)の銅。
 
鋳銭寺がないか?
「若宮神社」(山国町吉野)
「吉野宮模型」

吉野宮模型(吉野歴史資料館蔵)