「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 白村江の戦いと壬申の乱
 (令和元年12月1日(日)、豊の国古代史研究会 、於 豊の国古代史研究会研修室)より

 白村江の戦いと壬申の乱

■ 白村江戦の前後

・・・ 『日本書紀』各天皇紀の7年ズレ、1年ズレという大問題がある場合に、これを修正していく
   必要がある。その修正を試みた結果を示していく。

● 倭国本朝の「筑紫君薩野馬」、白村江戦の前に水城を造る
 (西暦657年=糸田町『旧記』による天智天皇三年)

・・・ 従来の天智天皇三年は、西暦664年即ち、白村江の敗戦の翌年に水城が造られたことに
   なっている。これは、おかしい。
    その664年は、郭務悰ら唐の兵士2,000名がやって来て、大宰府が占領されている。その時に
   敗戦国が水城を造る工事は、無理である。
    例えば、先の戦争が終わって、マッカーサーが厚木に降りた後にまた日本軍が再軍備をしましたか?
   また高射砲等の陣地を造ったですか?あり得ない。武装解除である。

    7年ズレの糸田町に漏刻を造られた天智天皇七年を西暦661年とすると、この天智天皇三年は
   西暦657年となり、白村江戦の前に水城は造られたことになる。
    『日本書紀』天智天皇三年が豊国(旧記)の天智天皇三年であり、それは、『日本書紀』の斉明
   天皇三年(西暦657年)となる。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
① 天智三年(六六四 → 六五七
 是歳、於對馬嶋壹岐嶋筑紫國
等置。又於筑紫築大堤貯水、名曰
水城
写真「水城大堤之碑」
絵「水城」

倭国本朝が
白村江戦前に
築いた「水城

 

● 倭国本朝の都「倭京(大宰府)」は、羅城に囲まれていた

・・・ ブラタモリの2019年新春スペシャルで放映された。画像の大宰府を囲んで光っている範囲が
   何と全長51kmにおよぶ大城壁が造られていた。この城壁の事を昔の言葉で、「羅城」。羅生門の
   羅城という字を当てる。
    前畑遺跡を含んで、大野城、基肄城(きいじょう)、水城を結んで全長51kmの城壁で囲われて
   いる羅城があった。
    この羅城に至る門の事を羅生門といった。平安時代の京都平安京に羅生門はあるが、羅城はない。
   羅城があるのは、日本にだた一つ大宰府だけである。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
ブラタモリ「大宰府の羅城」

 

・・・ これが、考古学上の羅城の報告書である。考古学の先生、嘘は言っていない。羅城があった。
   京都の平安京にも奈良の平城京にも羅城はありません。
    羅城を持つ京(大宰府)の王朝が、白村江で唐・新羅連合軍と戦った。白村江戦の前に羅城を
   造って防衛をしている。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
「大宰府の羅城図」

 

● 倭国東朝、天智天皇即位。「草薙の劔」を取り返したか?

・・・ 『日本書紀』に「沙門道行、草薙剣を盗みて、新羅に逃げ向く」という変な記事がある。この記事の
   年に天智天皇は、即位している。
    『日本書紀』の「草薙剣を盗みて・・・」と同じ伝承が鞍手町にある  八剱神社 にあり、「草薙剣が、
   この宮に保存されていた」と言い伝えがある。だから、草薙剣は、鞍手町にあったと言っている。

    草薙剣が、今年は今上陛下の即位に当たって、即位礼正殿の儀、大嘗祭の時、伊勢神宮に参拝された
   時に侍従が捧げ持っていた宝剣こそが、草薙剣である。
    今上陛下に至るまで、豊君でいらっしゃると言っている。天智天皇の後裔でいらっしゃる。天武天皇の
   後裔ではありません。最後に出てきますが、天武天皇は、草薙劔に祟られて亡くなる。『日本書紀』は、
   凄いことを書いている。草薙剣は、天皇位を象徴する宝剣である

四、白村江戦前夜~壬申の乱
② 天智天皇七年(六六八 → 六六一)春正月丙戌
 朔戊子(三日)に、皇太子即天皇位す。
 或本に云はく、六年の歳次丁卯の三月に位に
 即きたまふ。
 是歳、沙門道行、草薙剣を盗みて、新羅
逃げ向く。而して中路に雨風にあひて、荒迷
ひて帰る。
※ 福岡県鞍手郡鞍手町中山の八剱神社に同じ伝承
 があり、草薙の劒はこの宮に保存されていたと
 の言い伝えがある。近くの古物神社にも草薙の
 劒が降って来たとの伝承がある。
  したがって、新羅の僧(天智の間諜)が大宰
 府から盗み出し、豊国に取り返したか

 このおかげで名実ともに天智は天皇位に即いた
 か。

 

● 倭国東朝の天智天皇、都を近江大津宮へ遷す
 (西暦661年=糸田町『旧記』による天智天皇七年)

・・・ 『海東諸国紀』に斉明天皇七年に白鳳に改元とあるが、この白鳳が、厄介な元号である。『日本
   書紀』では、白鳳というは、天武天皇の元号である。

    『海東諸国紀』の斉明天皇七年であると、この年は天智天皇七年となり、西暦661年に当る。
   「白鳳」という元号は、天武の時代なのか、天智の時代なのか謎が増えるが、斉明天皇七年(=天智
   天皇七年)に「白鳳と改元し、都を近江州に遷す。」とあり、その年(糸田町の旧記の天智天皇七年)
   の秋八月に、右大臣金連が須弥山・漏刻を造営した。

    糸田町にある  大宮神社 が、近江大津宮の候補地である。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
③ 天智天皇六年(六六七 → 六六一)春三月
 辛酉朔己卯(十九日)、都を近江大津宮(糸田
 町大宮神社)
に遷す。
『海東諸国紀』
 斉明七(六六一)年辛酉、白鳳と改元し、
都を近江州に遷す。
④ 天智天皇七年(六六一)秋八月、右大臣金連
 公によって須弥山・漏刻(糸田町泌泉)が造営
 された。
「大宮神社」
「大宮神社から香春岳を望む」

 

倭国本朝、白村江に敗戦

・・・ 白村江戦は、『日本書紀』の天智天皇二年(西暦663年)である。
    この時に筑紫君薩野馬は、唐の都長安で捕虜の身である。誰が白村江戦の倭軍を率いたのですかね。
   倭国本朝(大宰府側)に誰が残っていたのか?今、『日本書紀』に残されている斉明天皇は、天武の
   母親であるが、この時にはもう亡くなっている。
    この時に誰でしょうか?倭国本朝と倭国東朝の1000艘の軍船を率いた王(倭国本朝側の王)が
   誰か。まだ、見つけ切っていない。『日本書紀』には、ハッキリと書かれていない。

    白村江戦の結果は、倭軍が敗戦。
    朝鮮側の記録では、倭軍は、1000艘の船で出かけたが、戦ったのは、400艘だけであった。
   唐軍の大艦船に敗れて、400艘全部が焼かれて沈みました。
    何故か600艘は、傍観した。戦いに参加しなかった。そのまま帰ってきた。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
⑤ 天智二年(六六三年)秋八月壬午朔
 戊申(二十七日)倭国本朝、白村江に
 敗戦。筑紫君薩野馬、唐の捕虜のまま
 敗戦を知る。
絵「白村江の戦い」

 

● 大宰府から「御笠団印」、「遠賀団印」の銅印が出土

・・・ 大宰府から白村江戦の時の銅印が、出土されている。この時の「遠賀団印」が天智側の600艘
   軍隊で、「御笠団印」が、白村江に沈められた400艘の軍隊である。
    このような小さな銅印がよく出土しましたね。奇跡です。大宰府から「遠賀団印」が出土しますよね。
   中央の学者たちは、この銅印のことは無視している。この銅印は、何を意味するのか文献から追いかけ
   たら、「遠賀団印」は傍観していた600艘の船団、「御笠団印」は戦って沈んだ400艘の船団と
   考えるしかない。
   

    この復元図は、綺麗な条坊制の都でしょ。この都は、筑紫君薩野馬の祖父である「日出処天子」、
   阿毎多利思比孤が建てた都だと思っている。西暦600年前後である。わが国初の平城京は、大宰府が
   先である。奈良県は、ずーっと後である。勿論、平安京も後である。西暦794年である。
    大宰府には、羅城まであった。スゴイ。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
大宰府条坊図

「御笠団印」の出土地

銅印〈印文「御笠団印」)

「遠賀団印」の出土地

銅印〈印文「遠賀団印」)

 

● 白村江戦の前に捕虜となっていた倭国本朝の「筑紫君薩野馬」が帰朝

・・・ 白村江戦に勝った唐軍がやってくる。『海外国記』は、天智天皇三年、『日本書紀』は、天智天皇
   四年と書いてある。
    百濟禰軍、朝散大夫柱國郭務悰ら凡そ254人が対馬に来る。『海外国記』も朝散大夫上柱国
   郭務悰、百済佐平禰軍と同じ人物が書かれている。
    『日本書紀』の天智十年の七年ズレの記事に筑紫君薩野馬が帰って来ている。唐國使人郭務悰ら
   600人とあり、また、同じ人物が出てくる。総勢2000人が、47隻の船で筑紫に入っている。
    これは、占領軍である。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
⑥ 天智四年(六六五 → 六六四
 秋九月庚午朔壬辰、唐国、朝散大夫沂州司
馬上柱国劉徳高等を遣す。等謂、右戎衞郎將
上柱國百濟禰軍朝散大夫柱國郭務悰、凡二
百五十四人。七月廿八日至于對馬、九月廿日
至于筑紫、廿二日進表函焉。
 海外国記曰、天智天皇三年四月、大唐客
来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等卅人・
百済佐平禰軍等百余人、到 対馬島 。

天智十年)十一月甲午朔癸卯、對馬國司、
遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・
筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、
從唐來曰『唐國使人郭務悰等六百人・送使沙
宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、
倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、
忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等
預稍披陳來朝之意。』」

 

● 墓誌銘が示す百濟の禰軍の来朝。倭国東朝の天智天皇、唐軍を菟道で閲兵(閲す

・・・ 「日本」という国号の始まりの頃、西暦660年に筑紫君薩野馬と一緒に唐の捕虜になった
   百濟禰軍(大臣クラス)が、白村江の敗戦の後に大宰府の占領政策に来ているということが、
   大事である。
    敗れた筑紫側に唐王朝の指示を受けなさいとの命令を伝えにきた。唐王朝は、百濟の自分が、
   唐の役人となっているように敗れた者を殺さない。降伏してどうですか?もう武力闘争しないで
   降伏しなさいと言いに来たかも知れない。

    百濟禰軍のお墓が、西安(唐の都長安)の郊外で見つかった。「日本の餘噍」の文句が、棺の
   蓋に刻まれている。
    「顯慶五年(六六〇)、官軍(唐軍)の本藩(百済)を平らぐる日」に私(禰軍)は、降伏した
   ・・・、日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋れ、風谷の遺甿、盤桃を負ひて阻め固む。」
   (まだ、抵抗しています。)それを私が説き伏せましたよ。この後に書かれている。
    まだ、全文を読み切っていませんが。

    この墓誌銘の内容は、『日本書紀』の記事に合う。西暦664年に「菟道に閲す」とある。
   天智天皇は、豊国側で唐の軍隊を閲兵している。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
⑦ 天智四年(六六五 → 六六四
 等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍朝散大夫
柱國郭務悰
、凡二百五十四人。七月廿八日至于
對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。
※ 『大唐故右威衛將軍上柱國 祢公墓誌銘』
( 禰軍 六七八年没)

 (六六〇)
 官軍の本藩
 を平らぐる
 日
、機を見
 て變を識り、
 劔を杖つき
 歸は、 由余の戎を 出づを知るるがご とく、金磾
 の漢に入るがごとし。 聖上嘉歎し、擢んづるに
 榮班を以てし、右武衛滻川府析衝都尉を授く。
 時に日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋れ、
 風谷の遺甿、盤桃を負ひて阻め固む。(後略)
※ 冬十月己亥朔己酉(十一日)、大きに菟道(香春
 阿曽隈社)に閲す(閲兵した)
(日本書紀)
「祢公墓誌銘」

 

● 赤村琴弾瀧は、天智天皇が菟道で唐の兵士を閲兵した後、ここに来て「別れの秘曲を奏した所

・・・ これが、赤村の謎である。ここに天智天皇の名と日本の命婦石川色子と中国の琴の名手季氏の名が
   伝わっている。
    「紀元千三佰拾年の頃」とあるので、白村江の戦いの頃になる。
    天智天皇の父は、舒明天皇であり、飛鳥岡本宮は、福永説では、赤村の  光明八幡神社 である。
   この琴弾瀧は、光明八幡神社から少し上流の所にある。

    天智天皇は、16歳ころまでは、父の舒明天皇と一緒に暮らしていたとすれば、夏の暑い時期には、
   この琴弾瀧まで出かけてきて泳いだかも知れない。
    よい場所であることを知っていたから、唐の兵士たちを連れてきて、おもてなしをされた。
   この伝承も『日本書紀』の記事とあう。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
⑧ 天智四年(六六五 → 六六四
琴弾瀧の由来 (標石) 
 紀元千三佰拾年の頃、天智天皇御西下豊前の
国に御立寄の節
 ある日此の瀧に御遊覧あらせ
られ瀧の側に御休みの時、天皇の御心を慰め奉
らんと天女が天下りて琴を弾いたので天皇の叡
感斜めならず「琴弾瀧」と御命名遊された。
 其後命婦石川色子琴の名手季氏と共に此の瀧
の岩上に坐し別れの秘曲を奏した所、余韻嫋嫋
として瀧に感応し、其音澄んで琴の如くありし
ため、それ以来一段此の瀧の名を発揮したり
「琴弾瀧」

 

● 帰朝した筑紫君薩野馬が、大皇弟(大海人皇子)として登場

・・・ 筑紫君薩野馬が帰ってきた翌年、『日本書紀』天智天皇三年の記事と天智天皇十年にダブって
   いる冠位改定の記事は、たぶん、筑紫の家臣たちに豊国の冠位を増し加えた記事だと思う。
    ここに書かれている「東宮太皇弟」は、どう考えても大海人皇子後の天武天皇である。
   したがって、筑紫君薩野馬は、帰ってきたところまでの記事しかない。翌年に筑紫君薩野馬の
   名前は、パタッと消える。
    パタッと消えた瞬間に東宮太皇弟が出てくる。ひょっとして、大海人皇子は、筑紫君薩野馬だった。
   一度、唐の軍隊に捕まって長安で捕虜になっていた昔の筑紫側の天皇だった。
    白村江戦の敗戦で大宰府は、唐軍に占領され、仕方なく唐の言いなりになって、かつてNo2だった
   天智天皇の下にきて、詫びを入れる形で、太皇弟の地位に就いた。

    大海人皇子が、天智天皇より3歳上であり、太皇弟というのは役職名である。血がつながった
   兄弟だという意味ではない。
    つまり、かつての倭国本朝と倭国東朝が豊国側に統一されて、日本国になった。それで、天智は
   天皇。かつての筑紫君薩野馬は、太皇弟の地位になつた。そのように考えればスッキリするでしょ。

    天智天皇十年の天皇が病気になるという記事が、天武天皇紀の上巻では、天智天皇四年と書かれて
   いる。ここにも七年ズレが出てくる。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
(天智)三年(六六四 → 六六五
 春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟(大海人
皇子=筑紫君薩野馬)
、宣増換冠位階名及氏
上・民部・家部等事。
(天智)十年春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我
赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。
癸卯、大錦上中臣金連命宣神事。是日、
大友皇子拜太政大臣
、以蘇我赤兄臣爲左大臣、
以中臣金連爲右大臣、以蘇我果安臣・巨勢人
臣紀大人臣爲御史大夫。御史蓋今之大納言乎。
甲辰、東宮太皇弟奉宣或本云大友皇子宣命施
行冠位法度之事、大赦天下。法度冠位之名、具載
於新律令也。
(天智) 四年冬十月庚辰、天皇、臥病以痛
之甚矣。(天武紀上)
※ 天智十年 (天智紀)

 

● 元号「白鳳」の謎! 白鳳五年に創建された興国寺は、西暦何年にできた?

・・・ 足利尊氏も関係する福智町にある興国寺は、創建が白鳳五年と案内板の由緒にある。
   西暦何年でしょう? 斉明・天智の白鳳か?それとも天武の白鳳か?
    4つの文献から見ても「白鳳五年」が、西暦で全て違う。興国寺は、何年に出来たので
   しょうか?まだ、お坊さんの事も調べられていない。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
白鳳五年(古語拾遺654年)       
白鳳五年(襲国偽僭考659年)       
白鳳五年(海東諸国紀665年)       
白鳳五年(日本書紀677年)
「興国寺 由緒」
「興国寺(福智町)」

 

● 天智天皇が、元号を「中元(ちゅうがん)」に改元。今も田川に中元寺川が流れている

・・・ 『襲国偽僭考』の著者は、江戸時代の大分県の学者である鶴峯戊申である。
    天智天皇の時に「中元」という元号があった。添田町の諏訪神社の近くから中元寺遺跡が
   出ている。
    諏訪神社の由緒には「中元」と書かれているから、「中元」時代の役所という意味である。
   ここの土地名である。この近くを中元寺川が流れている。その中元寺川の語源である。

四、白村江戦前夜~壬申の乱
朱雀
 天武天皇元年壬申、朱雀元年とす。一説には、
 白雉・朱雀の二年号をしるさずして、ことに
 中元・果安の二年号をしるしていはく、天智
 帝之時、中元四年(671 = 日本書紀天智
 十年)に終る。又曰く、按ずるに戊辰66
 8
= 日本書紀天智七年)を元年と為す。
 天武帝之時、果安。又曰く、按ずるに年数を
 審らかにせず。
※ 天智天皇の命令により藤原鎌足が天智元年(6
 68)に律令を編纂した。
(『藤氏家伝』大織冠伝)
 近江令制定
「襲国偽僭考」海西鶴峯戊申季尼著

 

四、白村江戦前夜~壬申の乱

 諏訪神社の隣の田圃に
中元寺遺跡が残されていた。
「中元寺遺跡群 : 発掘調査報告書 2 」
(添田町教育委員会 )がある。

 添田町諏訪神社の由緒には
「中元司」と書かれている。

「諏訪神社(添田町)」
地図「添田町中元寺」