「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 白村江の戦いと壬申の乱
 (令和元年12月1日(日)、豊の国古代史研究会 、於 豊の国古代史研究会研修室)より

 白村江の戦いと壬申の乱

■ 舒明、皇極天皇(蘇我氏の滅亡)

● 倭国東朝(豊国) 聖聴元年(六二九)、舒明天皇即位。二年(六三〇)飛鳥岡本宮に遷る

・・・ この舒明天皇が、天智天皇の父親。『日本書記』では、天武天皇の父親にもなっている。
    この時代は、蘇我氏が天下を牛耳っていた。みやこ町が、蘇我氏の拠点の基盤であり、
   そこで覇を唱えていた。
    舒明天皇は、その蘇我氏が嫌いであったようであり、それで田川の飛鳥に戻ってくる。
   その場所が、赤村岡本にある光明八幡神社(飛鳥岡本宮跡)であると思っている。
    舒明天皇は、京築を離れて、田川に戻っていた天皇である。舒明天皇の子が『日本書紀』
   では、天智・天武となっている。

一、舒明・皇極天皇
     (蘇我氏の滅亡)
 息長足日廣額天皇、渟中倉太珠敷天皇孫、彦人
大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女。豐御食炊屋姫
天皇廿九年、皇太子豐聰耳尊薨而未立皇太子、以
卅六年三月天皇崩。
 九月、葬禮畢之、嗣位未定。當是時、蘇我蝦夷
臣、爲大臣、獨欲定嗣位。
 蘇我蝦夷が大臣と
なり、嗣位(ひつぎのくらい)を定め
ようと欲す

 以下、年表で
まとめる。
聖聴元年(六二九)
 一月四日、即位。
二年(六三〇)
 十月十二日、飛鳥
 岡本宮(赤村岡本
 光明八幡社)
に遷る。
倭国東朝 飛鳥岡本宮
赤村光明八幡神社
    比咩大神を祀る
「写真」

 

● 倭国東朝 三年(六三一)~五年(六三三)。八年(六三六)田中宮に遷る

・・・ 三年の「義慈王が王子の豊章を質として送る」とあるのは、これは、倭国本朝での出来事
   ある。この時に百済を応援していたのは、筑紫側(倭国本朝)である。
    舒明天皇は、一貫して田川側に居る。八年の「田中宮に遷る」とあるのが、田川市伊加利に
   ある岩亀八幡神社だと思う。舒明天皇は、田川の地であちこちに都を遷る。
    田川市史の岩亀八幡神社の由緒には「舒明天皇の時代に始まった」とある。舒明天皇の宮跡で
   ある。

一、舒明・皇極天皇
     (蘇我氏の滅亡)
三年(六三一)三月一日、
 百済の義慈王が王子の豊章を質として送る。
四年(六三二)十月四日、唐の高表仁が難波津に
 到着。
五年(六三三)一月二十六日、高表仁が唐に戻る。
 「與王子爭禮、
 不宣朝命而還
(『旧唐書』)は
 倭国本朝の事件。
八年(六三六)六
 月、岡本宮が火
 災に遭う。
 田中宮(田川市
 伊加利岩亀八幡
 神社
)に遷る。
 この年、旱魃・
 飢饉が起こる。
田中宮
 (田川市伊加利 岩亀八幡神社)
田川市史 「舒明天皇の時代に
勧請」との伝承有り
「写真」

 

● 倭国東朝 十年(六三八)~十二年(六四〇)。十三年(六四一)舒明天皇百済宮に崩御

・・・ 奈良県の法起寺金堂が建てられていたのは、  上坂廃寺 であること判っているが、今となっては
   何処にあったのか判らない一番知りたいのが、百済大寺である。大建築である九重塔が建てられて
   いたという。
    何処にあったか気が付きませんかね!!仕方が無いので、ここでは田原遺跡附近と書いている。

    十三年(641年)に舒明天皇が百済宮で崩御するこの時に、東宮開別皇子(後の天智天皇)が、
   16歳だったと『日本書紀』にハッキリと書かれている。

一、舒明・皇極天皇
     (蘇我氏の滅亡)
十年(六三八)この年、
 福亮僧正が法起寺金堂(上坂廃寺)を
 建立する。 (『法起寺塔露盤銘』)
十一年(六三九)七月、
 詔して、百済川の辺に大宮と大寺(田
 原遺跡附近)
を造らせる。
 十二月、伊予温泉(宮若市千石峡)に
 行幸。
 百済大寺(田原遺跡附近)の九重塔
 建つ。
十二年(六四〇)四月、伊予から帰り、
 厩坂宮(香春附近か)に滞在する。
 十月、百済宮(田原遺跡附近)に遷る
十三年(六四一)十月九日、百済宮に崩御
 丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯。
 是時、東宮開別皇子、年十六而誄之
 東宮開別皇子すなわち後の天智が登場。

 

● 舒明天皇の滑谷岡陵

・・・ 舒明天皇は、滑谷岡陵に葬られたとあるので、赤村の光明八幡神社の所から北の位置にある
   (なめら)という土地があり、ここの古墳に3基あるいずれかの古墳が、舒明天皇が眠ったお墓で
   あろうと思われる。
    後に改葬されており、改葬された先が大任町にある建徳寺1号墳ではないかと睨んでいるが、
   まだ証拠が見つかりません。

舒明天皇 滑谷岡陵
地図「赤村岡本・滑」
Google Earth「赤村大原」

 

● 皇極天皇の即位

・・・ 舒明天皇の皇后であった寶皇女が、皇極天皇として即位する。古人大兄皇子も中大兄皇子も
   即位しなかった。この事は、蘇我氏が操った結果かどうかという事は、『日本書紀』には書かれて
   いない。推測するしかない。

一、舒明・皇極天皇
     (蘇我氏の滅亡)
 天豐財重日 重日、此云伊柯之比。足姫
天皇、渟中倉太珠敷天皇曾孫、押坂彥
人大兄皇子孫、茅渟王女也。母曰吉備
姫王。天皇順考古道、而爲政也。息長
足日廣額天皇二年、立爲皇后。
 十三年十月、息長足日廣額天皇崩。
 元年春正月丁巳朔辛未、皇后即天皇
位。以蘇我臣蝦夷爲大臣如故。大臣兒
入鹿更名鞍作。自執國政。威勝於父。
 蘇我蝦夷が大臣のままで、入鹿が国政
を執り
、父よりも勢いが勝っていた。
元年(六四二)一月十五日、
  天豐財重日足姫天皇(皇極)即位。

 

● 皇極天皇が遷った飛鳥板蓋宮は、蘇我氏の拠点の基盤としている近つ飛鳥の地

・・・ 二年に飛鳥板蓋宮に遷る。赤村が遠つ飛鳥、みやこ町・行橋市が近つ飛鳥であると思っている。
   豊国には、2つの飛鳥があり、近つ飛鳥が行橋側で遠つ飛鳥が赤村側である。
    この事を考えると飛鳥板蓋宮は、東九州自動車道に埋まってしまった福原長者原遺跡であると
   思われる。

    蝦夷・入鹿が家を建てた甘樫丘(うまかしがおか)は、馬ヶ岳であり、中世には図のような立派な城郭が
   建っていた。
    図の東の丸の所が蝦夷、その下にある二児神社の所が入鹿の屋敷跡ではないかと推測している。
    しかし田川・京筑は、言うまでもないが調査の為の発掘は行わないので、未だに中世の城跡・神社
   跡となっているが、たぶん焼けた跡が出てくる。炭素の層が出てくる。

一、舒明・皇極天皇
     (蘇我氏の滅亡)
二年(六四三)
  四月二十八日、更に飛鳥板蓋宮(福原長者
  原遺跡か)に遷る
  十一月一日、
  蘇我入鹿が山
  背大兄王を攻
  め、同月十一
  日に王は自害
三年(六四四)
  十一月、蝦夷
  ・入鹿、家を
  甘樫丘(みや
  こ町と行橋市
  の境の馬ヶ岳、
  中世の城跡)
  に並べ建つ
絵「馬ヶ岳城」

 

● 福原長者原遺跡が、飛鳥板葺宮跡

・・・ 福原長者原遺跡の発掘された時から3年間毎年通いました。礎石は発掘されたが、瓦が出て
   こなかった。木材も出れ来なかった。礎石だけ出てきた。3年通ってもこの遺跡からは、瓦が
   出てこなかったので、板葺宮だと気付いた。
    京筑の廃寺と呼ばれるお寺からは、新羅様式とか百済様式と呼ばれる瓦が、必ず出土される。
   しかし、この遺跡は官衙跡であるが、瓦が出土されないので、飛鳥板葺宮跡であろうと思った。

倭国東朝 (近つ)飛鳥板葺宮
冊子「福原長者原官衙遺跡」の地図

 

● 福原長者原遺跡は、飛鳥板葺宮跡であり、後の藤原宮跡

・・・ この平面図の小さい内側の赤線で囲まれた範囲が、飛鳥板葺宮跡。大きい赤線で囲まれた
   範囲が、後に天武天皇と持統天皇が一緒に遷った藤原宮ではないだろうか。
    実際にこの遺跡を発掘した考古学の先生が、この遺跡を「藤原宮だ!」とご自身が一瞬
   舞い上がったという。何故かというと奈良県にある藤原京と寸法が全く同じであった。
   1センチくらいしか違わないと本人が行橋の講演で話されていた。

一、舒明・皇極天皇
     (蘇我氏の滅亡)
推定 飛鳥板葺宮 1期の遺構
推定 藤 原 宮 2期の遺構
「福原長者原官衙遺跡」の遺構図

 

一、舒明・皇極天皇
     (蘇我氏の滅亡)
推定 飛鳥板葺宮 1期の遺構
「福原長者原官衙遺跡」遺構

 

● 西暦645年に乙巳の変が起きる。この後、皇極天皇は皇位を譲る。『日本書紀』通り

・・・ この時に飛鳥板蓋宮の大極殿十二門に氏族の名前が付けられた。

一、舒明・皇極天皇
     (蘇我氏の滅亡)
 四年(六四五)六月十二日、中大兄皇子らが
飛鳥板蓋宮大極殿内で蘇我入鹿を討ち、翌日、
入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する
乙巳の変
 於是、中大兄、戒衞門府一時倶鏁十二
通門
、勿使往來、(中略)
佐伯連子麻呂・稚犬養連網田斬入鹿臣
※ 大極殿十二門には、飛鳥板蓋宮での入鹿誅伐
 のとき、十二門を守り、かつ誅伐に参加した
 氏族の功を永久に記念するために氏族名を付
 けたとの説がある。
  佐伯連子麻呂・稚犬養連網田・海犬養連勝
 麻呂三人の氏族名は、十二門中に藻壁門(佐
 伯)・皇嘉門(若犬養)・安嘉門(海犬養)

 として遺されている。
 六月十四日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後
の孝徳天皇)に皇位を譲る。

 

・・・ 宮城十二門の一覧の一番古い「弘仁式」は、氏族の名前が載っている。この名前が平安時代の
   「延喜式」になると綺麗に二文字の名前に変わってしまう。

一、舒明・皇極天皇
     (蘇我氏の滅亡)
宮城十二門の一覧
画像「宮城十二門の一覧(弘仁式・貞観式・延喜式)」

 

・・・ 奈良県桜井市の談山神社に残された絵巻の中にある入鹿暗殺の場面であるが、様式から江戸時代で
   ある。この絵巻は、中大兄皇子が入鹿を切り殺しているが、実際は、氏族の一人(正体のわからない
   韓人(からひと))が、入鹿を切り殺している。

蘇我入鹿暗殺
絵「蘇我入鹿の暗殺」

 

● 蝦夷と鞍作(入鹿)は墓に葬ることが許された。その双墓が三ツ塚古墳

・・・ 入鹿が暗殺され、父親の蝦夷は自ら屋敷に火を放ち自害して果てていく。何故か皇極天皇は、優しい人か
   蝦夷・入鹿二人を墓に葬ることを許した。その墓を『日本書紀』は「双墓」と書いてある。この墓は、二つ
   セットで並んでいるという。
    馬ヶ岳が、蝦夷・入鹿親子の屋敷が建てられた甘樫丘であるとすると、お墓もその近くにあると考えれば、
   旧犀川町(みやこ町)に三ツ塚古墳がある。
    三ツ塚古墳の1号墳がちょっと大きく、2号墳はやや小さいが、石室の向きが全く同じで、墳丘の大きさも
   大体同じである。3号墳だけ石室の向きが少し違う。
    1号墳が蝦夷、2号墳が入鹿の墓であると思うが、現在は、1号墳の跡が見えるだけで、2号墳・3号墳は
   既に削られて無くなっている。

一、舒明・皇極天皇
     (蘇我氏の滅亡)
 己酉、蘇我
臣蝦夷等臨誅、
悉燒天皇記・
國記
・珍寶。
船史惠尺、卽
疾取所燒國記
而奉獻中大兄。
是日、蘇我臣
蝦夷及鞍作
屍、許葬於墓

復許哭泣。
双墓
三ツ塚古墳か
Google Earth「三ツ塚古墳」
「三ツ塚古墳 測量図」

 

・・・ 三ツ塚古墳は、石室古墳である。だから、天井も壁も大きな石で覆われていた。奈良県明日香にある
   石舞台と同じくらいの大きな石室であったが、何故か壊されて残っていない。
    写真の通りのわずかな石のみである。みやこ町の博物館の館報でも石材採取が目的の盗掘であったか?
   と報告が出されている。

三塚古墳の盗掘は
   石材採取が目的?
「三塚古墳」発掘現場