「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 第12回古代史講座 古代田川を解き明かす
  豊の国の織姫 ―邪馬台国の絹―
 (令和元年八月三日(土)、主催 田川広域観光協会古代史研究会 、於 香春町町民センター町民ホール)より

 豊の国の織姫 ―邪馬台国の絹―

■ 卑弥呼も豊国の織姫/魏志倭人伝の卑弥呼も豊国の織姫

● 箸墓の由来

卑弥呼も豊国の織姫
 箸墓の由来はこうだ。
 倭迹迹日百襲姫命が大物主神の妻
なった。神は昼に現れないで夜だけ来
た。倭迹迹日姫は翌朝に神の麗しい姿
を見たいと言った。
 大神は翌朝姫の櫛箱(くしばこ)に入って居よう。
私の姿に驚いてはならないと答えた。
翌朝櫛箱を見ると麗しい小さな蛇がい
た。姫は驚き叫んだ。
 大神はたちまちに人の姿となって妻
に言った。「お前は私に恥をかかせた。
私はお前に恥をかかせてやる。」と。
神は空に上り三輪山に帰った。
 姫は仰ぎ見て後悔し、ドスンと座っ
た。すると箸に陰部をついて死んだ
そこで大市に葬った。
 時の人はその墓を名付けて、箸墓と
いった。

 

● 豊前州田川郡龍之鼻権現縁起によれば、豊日別婦とあり豊日別国魂大神(大物主)の妻 

卑弥呼も豊国の織姫
豊前州田川郡龍之鼻権現縁起
木村晴彦
『香春・英彦山の歴史と民俗』所収
 筑紫の国は身ひとつにして面よつ
あり、其ひとつを豊国の豊比咩とも
又は豊日別婦ともいへり、その国に
郡八あり第一乃郡彦の山あり、
田心姫命います故に其所を田心乃国
と云しとかや、其山に三乃あやしき
峯ありてつねにすめり、此鳥今の
龍が鼻と云へる所にやゝもすれば、
かけり行ぬ、其あいだ、鷹の羽乃落
ちたる所かならず幸あれば
とて、
ちるかぎりの里を又鷹羽郡と云
ける
が、白鳳の比おひよりや、田川郡と
名付たるといへる事は、田と河との
たれる所なればなり、
※ 豊日別婦=田心姫命
 豊日別国魂大神(大物主)の妻

 

● 『魏志倭人伝』にのことが書かれている

魏志倭人伝の
  卑弥呼も豊国の織姫
考古学者 森浩一氏
 ヤマタイ国奈良説をとなえる人が
知らぬ顔をしている問題がある。
 (中略)
 倭人伝では、養蚕をおこない、
糸をつむぎ、細やかな(けん)(めん)を作
ていた
だけでなく、魏へ二度めに
派遣された使者が献じた品物のな
かに、倭錦、青、緜衣、帛布など
がある。(中略)
 布目氏(布目順郎氏、京都工芸繊
維大学名誉教授)の名著に『絹の東
』(小学館)がある。
 目次を見ると、『絹を出した遺跡
の分布から邪馬台国の所在地等を探
る』の項目がある。

 

● 弥生時代の絹が出土してのは北部九州、『魏志倭人伝』の絹に対応できる

魏志倭人伝の
  卑弥呼も豊国の織姫
 簡単に言えば、弥生時代にかぎる
と、絹の出土しているのは福岡、佐
賀、長崎の三県に集中
し、前方後円
墳の時代、つまり4世紀とそれ以降
になると奈良や京都にも出土しはじ
める事実を東伝と表現された。
 布目氏の結論はいうまでもなかろ
う。倭人伝の絹の記事に対応できる
のは、北部九州であり、ヤマタイ国
もそのなかに求めるべきだというこ
とである。
 この事実は論破しにくいので、つ
い知らぬ顔になるのだろう。
(邪馬台国の会データベース)

 

魏志倭人伝の
  卑弥呼も豊国の織姫
京都工芸繊維大学名誉教授  
  布目順郎氏
 弥生後期の絹製品を出した遺跡もし
くは古墳は、すべて北九州にある
。   
 したがって、弥生後期に比定される
邪馬台国の所在地としては、絹を出し
た遺跡の、現時点での分布からみるか
ぎり、北九州にあった公算が大きいと
いえるであろう。   
 わが国へ伝来した絹文化は、はじめ
の数百年間、北九州で醸成された後、
古墳時代前期には本州の近畿地方と日
本海沿岸地方にも出現するが、それら
は北九州地方から伝播したものと考え
られる。
(邪馬台国の会データベース)

 

● 奈良県から弥生時代の絹は出土されていない

三国志の卑弥呼も織姫
地図「絹が出土している遺跡」