「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 第12回古代史講座 古代田川を解き明かす
  豊の国の織姫 ―邪馬台国の絹―
 (令和元年八月三日(土)、主催 田川広域観光協会古代史研究会 、於 香春町町民センター町民ホール)より

 豊の国の織姫 ―邪馬台国の絹―

■ 天の羽衣の東遷/神功皇后の征西/天照大神の荒魂の東遷

● 『丹後國風土記』逸文の中の「奈具社」、豊宇賀能売命として祀られた

 ここに書かれている「真奈井」という地は、天照大神と素戔嗚尊が誓約をした場所である。
   豊宇賀能売命豊受大神
 豊国の機織の技術が時代をかけて明らかに東へ東へと移って行っている。

天の羽衣の東遷
 『丹後國風土記』逸文の中の「奈具社」の中
で、「丹後の国の風土記に曰く、丹後国丹波の
郡。郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の
里の比治山の頂きに井あり。其の名を真奈井
云ふ。
 その池に八人の天女が舞い降りた。そこに和
奈佐という名の老夫婦が現れ、密かに一人の天
女の衣装を取り隠すと、天女たちは天に飛び上
がってしまったが、衣を隠された天女だけ人間
界にとり残され、老夫婦のいうままに娘となっ
て十年を暮らす。
 天女は酒造りが上手く、一杯飲めば万病に効
く酒を造り機織りも教え
、家はたちまち裕福に
なる。しかし、老夫婦はなぜか「おまえはやは
り我が子ではない」と天女を追放する。天女は
嘆き、比治の里を彷徨った末に船木の里に至り
、「わが心なぐしくなりぬ」とここに安住の居
を構えたという。
 これにちなんでこの地を奈具と呼ぶようにな
った。そして村びとたちによって天女は豊宇賀
能売命
として奈具神社に祀られた。

 

● 卑弥呼の死後、120年後に神功皇后が登場する

神功皇后の征西
 4世紀前半、遂に東鯷国が挙兵した。
すでに饒速日尊の本流と融合したと推測
される東の三角縁神獣鏡圏を形成する強
国が、征西を開始した。
 気比の宮を発した神功天皇(神功皇后)
は、海人族を従え、但馬播磨の国を南
下、瀬戸内海に出る。
 吉備の鬼の城の温羅(うら)を滅ぼし、西進す
る。牛窓でも新羅の王子を退治し、遂に
穴門豊浦宮(下関市幡生の生野神社)を
落し入城。
 邪馬台国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに)
が帰順。続いて伊都(いつ) 主の祖五十迹手(いそとて)
が帰順。淡海の大津の宮(豊津町)を滅
ぼし、御所ヶ谷(神籠石、旧京都郡、現
行橋市)に拠る忍熊王を殲滅。

 

神功皇后の征西
地図「若狭・丹後・但馬・播磨の神社」

 

神功皇后の戦略と魏使の経路
地図「福岡県」

 ① 

 ② 

 ③ 

 ④ 

 ⑤ 

 ⑥ 

 魏使 

 神功 

 穴門(豊浦宮) 
 神功・足仲彦 

 邪馬台 

 御所谷 
 忍熊 

 武庫 

 岡 
 熊鰐 

 末羅 
 勝門姫 

 熟田 

 伊都 
 五十迹手 

 不彌 

 奴 
 (橿日宮) 

 足仲彦 

 層増岐野 
 羽白熊鷹 

 松尾宮 

 

● 神功皇后の新羅征伐の時、軍船の先頭に天照大神の荒魂を掲げた

 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)は、天照大神の荒魂。

神功皇后の新羅征伐
 九年春二月、足仲彦天皇崩於筑紫
橿日宮。時皇后、傷天皇不從神教而
早崩、以爲、知所崇之神、欲求財寶
國。是以、命群臣及百寮、以解罪改
過、更造齋宮於小山田邑。
 三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、
親爲神主。則命武內宿禰令撫琴、喚
中臣烏賊津使主爲審神者。因以千繒
高繒置琴頭尾、而請曰「先日教天皇
者誰神也、願欲知其名。」逮于七日
七夜、乃答曰「神風伊勢國之百傳度
逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢
木嚴之御魂天疎向津媛命
焉。」
撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命
  =天照大神の荒魂

 

● 息長水依比売命は、天之御影(みかげ)の女

 開花天皇の子に日子坐王がいる。その后の息長水依比売命(おきながのみずよりひめのみこと)は、
天之御影神の女と『古事記』に書かれている。

神功皇后の出自
『古事記』「神功皇后の系図」

● 京都府舞鶴市の大森神社の別名が、彌伽宜(みかげ)神社

 京都府舞鶴市の彌伽宜(みかげ)神社(大森神社)の護符の中に撞賢木嚴之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)
 命が記されている。天照大神の荒魂である。
   香春町の谷口 という土地で、豊比咩大神と豊宇気姫神が向かい合っている。

天照大神の荒魂の東遷
 伊勢神宮は宮若市天照宮に興り、香春の
地で豊比咩大神豊宇気姫神の対となる。
 日本海側の「元伊勢」を東遷し、三重県
の伊勢神宮に着いた。
「彌伽宜(みかげ)神社(大森神社)の護符」