「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 第12回古代史講座 古代田川を解き明かす
  豊の国の織姫 ―邪馬台国の絹―
 (令和元年八月三日(土)、主催 田川広域観光協会古代史研究会 、於 香春町町民センター町民ホール)より

 豊の国の織姫 ―邪馬台国の絹―

■ 応神紀の豊国の織姫/英彦山の地主神/たぎり/沖ノ島の国宝/継体天皇

● 『日本書記 応神天皇紀』の14年、37年、41年の記事

応神紀の豊国の織姫
 十四年春二月、百濟王貢縫衣工女
曰眞毛津、是今來目衣縫之始祖也。
 卅七年春二月戊午朔、遣阿知使主
・都加使主於吳、令求縫工女。爰阿
知使主等、渡高麗國、欲達于吳。則
至高麗、更不知道路、乞知道者於高
麗。高麗王、乃副久禮波・久禮志二
人爲導者、由是得通吳。吳王於是、
與工女兄媛・弟媛・吳織・穴織四婦
女。
 卌一年 是月、阿知使主等自吳至
筑紫、時胸形大神有乞工女等、故以
兄媛奉於胸形大神
、是則今在筑紫國
御使君之祖也。既而率其三婦女、以
至津國及于武庫而天皇崩之、不及。
卽獻于大鷦鷯尊、是女人等之後、今
吳衣縫・蚊屋衣縫是也。

 

● 香春町の呉姫のお墓

応神紀の豊国の織姫
写真「呉姫の墓(香春町)」

 

● 彦山流記に地主神は、大物主と書かれている

 『彦山権現垂迹縁起抜書』は、通称、彦山流記(ひこさんるき)という。

 地主神(大物主)が、権現(天忍穂耳尊)は、月神であり新羅から来た渡来神に土地を譲ったとある。
 地主神(大物主)の妃の多紀理比売は、宗像三女と云われるが、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ
独神である。
 古事記によれば、多紀理比売が中心である。この多紀理比売が、沖ノ島に祀られたと書かれている。

 地主神(大物主)と多紀理比売の夫婦神が、途中、糸田町の許斐山に移った年が、金光七年と彦山流記には
書いている。

大物主は英彦山の地主神
① 権現(天忍穂耳尊)は、氏の中國
 から来た神(月神、渡来神)
② 地主神(大物主)が権現に住所を譲
 り、妃の多紀理比売沖ノ島の神)を
 連れて、許斐山(糸田町)に移った。
「彦山権現垂迹縁起抜書」

 

● 糸田町のたぎり(泌泉)は、多紀理比売がいた土地

 多紀理比売が、彦山から宗像に移る途中に糸田に来たから、「  たぎり(沁泉) 」がある。伊藤常足が
『太宰管内志』に書き残している。

 ここに後に、天智天皇も来ている。右大臣の金連公が漏刻を造った場所だと私は言っている。

たぎり
「沁泉の説明版」

 

沁泉
Google Earth「沁泉(糸田町)」

 

● 実際に糸をかけて織ることができる織機のミニチュアが、沖ノ島から出土

沖ノ島の国宝
写真「織機のミニチュア」

 

● 継体天皇が、即位した樟葉宮(くすばのみや)が、行橋市の草場神社

 神功が始めた王朝が、武烈天皇の時に子が無く、神功の血が途絶えてしまう。その時に糸田の大伴金村が、
(私の説ですが)英彦山からオホド王(男大迹王)(=継体天皇)を迎えた。その継体天皇は、樟葉宮で
即位した。

継体天皇の詔勅
五〇七年二月 樟葉宮(くすばのみや)で即位。
五一一年十月 筒城宮(つつきのみや)に遷す。
五一八年三月 弟国宮(おとくにのみや)に遷す。
五二六年九月 磐余(いわれの)玉穂(たまほの)(みや)に遷す。
※ 右叙の遷都は政治上の重大な変革
 があったためとする説もあるが、
 憶測の域を出ない。
 ただし、この記録が事実とすると、
 継体が倭にいたのは最後の5年のみ
 である。

 

● 行橋市の草場神社は、官幣大社

 継体天皇の樟葉宮は、官幣大社の草場神社(豊日別宮)である。宇佐神宮の放生会に合わせて、
香春町の清祠殿で作られた鏡(神鏡、奉鏡)を豊日別宮に運ぶ。それがさらに放生会に間に合う
ように宇佐まで運ばれて行ったという伝承が香春町に残されている。
 何故かは知りませんが、行橋のこの小さな草場神社が、官幣大社である。

樟葉宮
「写真」

 豊日別宮(草場神社)

● 継体天皇が出された詔勅の中に「帝王躬耕而勸農業、后妃親蠶而勉桑序」

 継体天皇が、樟葉宮で即位した時に直ぐに詔勅を出されている。
 「私は聞いている。男がその年に耕さないと天下は飢えてしまうぞ。女がその年に糸を紡がないと
天下は、凍えるよ。だから、帝王は自分自身で耕し 生業(なりわい)の業を進め、后は自ら蚕を飼って
 (略)」
だから、宮中で田植えをする事と蚕を飼う事が大事な訳である。

継体天皇の詔勅
 三月庚申朔、詔曰「神祗不可乏主、
宇宙不可無君。天生黎庶、樹以元首、
使司助養、令全性命。大連、憂朕無
息、被誠款以國家、世々盡忠、豈唯
朕日歟。宜備禮儀奉迎手白香皇女。」
甲子、立皇后手白香皇女、修教于內、
遂生一男、是爲天國排開廣庭尊。開、
此云波羅企。是嫡子而幼年、於二兄
治後、有其天下。二兄者、廣國排武
金日尊與武小廣國押盾尊也、見下文。
 戊辰、詔曰「朕聞、土有當年而不
耕者則天下或受其飢矣、女有當年而
不績者天下或受其寒矣、故、帝王躬
耕而勸農業、后妃親蠶而勉桑序
。況
厥百寮曁于萬族、廢棄農績而至殷富
者乎。有司、普告天下令識朕懷。」

 

● 明治時代に復活した豊国の伝統(天皇家は豊君)

 明治時代に復活した。天皇陛下ご自身で宮中で田植えをし、稲刈りまでされる。皇后陛下は、蚕を
飼っていらっしゃる。

「皇后陛下は蚕を飼う」
「天皇陛下の稲刈り」

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