「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
豊の国の織姫 ―邪馬台国の絹―
■ 応神紀の豊国の織姫/英彦山の地主神/たぎり/沖ノ島の国宝/継体天皇
● 『日本書記 応神天皇紀』の14年、37年、41年の記事
● 香春町の呉姫のお墓
● 彦山流記に地主神は、大物主と書かれている
『彦山権現垂迹縁起抜書』は、通称、彦山流記(ひこさんるき)という。
地主神(大物主)が、権現(天忍穂耳尊)は、月神であり新羅から来た渡来神に土地を譲ったとある。
地主神(大物主)の妃の多紀理比売は、宗像三女と云われるが、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ
独神である。
古事記によれば、多紀理比売が中心である。この多紀理比売が、沖ノ島に祀られたと書かれている。
地主神(大物主)と多紀理比売の夫婦神が、途中、糸田町の許斐山に移った年が、金光七年と彦山流記には
書いている。
● 糸田町のたぎり(泌泉)は、多紀理比売がいた土地
多紀理比売が、彦山から宗像に移る途中に糸田に来たから、「 たぎり(沁泉) 」がある。伊藤常足が
『太宰管内志』に書き残している。
ここに後に、天智天皇も来ている。右大臣の金連公が漏刻を造った場所だと私は言っている。
● 実際に糸をかけて織ることができる織機のミニチュアが、沖ノ島から出土
● 継体天皇が、即位した樟葉宮(くすばのみや)が、行橋市の草場神社
神功が始めた王朝が、武烈天皇の時に子が無く、神功の血が途絶えてしまう。その時に糸田の大伴金村が、
(私の説ですが)英彦山からオホド王(男大迹王)(=継体天皇)を迎えた。その継体天皇は、樟葉宮で
即位した。
● 行橋市の草場神社は、官幣大社
継体天皇の樟葉宮は、官幣大社の草場神社(豊日別宮)である。宇佐神宮の放生会に合わせて、
香春町の清祠殿で作られた鏡(神鏡、奉鏡)を豊日別宮に運ぶ。それがさらに放生会に間に合う
ように宇佐まで運ばれて行ったという伝承が香春町に残されている。
何故かは知りませんが、行橋のこの小さな草場神社が、官幣大社である。
● 継体天皇が出された詔勅の中に「帝王躬耕而勸農業、后妃親蠶而勉桑序」
継体天皇が、樟葉宮で即位した時に直ぐに詔勅を出されている。
「私は聞いている。男がその年に耕さないと天下は飢えてしまうぞ。女がその年に糸を紡がないと
天下は、凍えるよ。だから、帝王は自分自身で耕し 生業(なりわい)の業を進め、后は自ら蚕を飼って
(略)」
だから、宮中で田植えをする事と蚕を飼う事が大事な訳である。
● 明治時代に復活した豊国の伝統(天皇家は豊君)
明治時代に復活した。天皇陛下ご自身で宮中で田植えをし、稲刈りまでされる。皇后陛下は、蚕を
飼っていらっしゃる。
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