「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 第13回古代史講座古代田川を解き明かす
  鷹羽の神々 -倭成す大物主-
 (令和元年十月二〇日(日)、主催 田川広域観光協会古代史研究会 、於 福岡県立大学大講義室)より

 鷹羽の神々 -倭成す大物主-

■ 国生み神話 /誓約(うけひ)/ 素戔烏尊と草薙剣

 

国生み神話 ー 伊弉諾尊
   紀元前4~3世紀
 伊弉諾尊
日本(やまと)は浦安の国、細戈(くわしほこ)千足(ちだ)る国
 磯輪上(しわかみ)秀真国(ほつまくに)。」
と名付けたとある。
(日本書紀 神武紀)
写真「多賀山(水巻町)」

おのころ島(多賀山)

写真「立屋敷遺跡の柱痕跡」

立屋敷遺跡 柱痕跡
(掘立柱による高床式建物)
推定:伊邪那岐命の八尋殿

「古遠賀湾図」

古遠賀湾

 日本書紀も古事記と同じですが、国生みの話は伊弉諾尊と伊弉冉が大八洲の国を生んだという事になっている。
この話は、考古学上、紀元前4~3世紀と思われる。
 日本書紀 神武天皇紀の終わりにある伊弉諾尊が名付けた「日本は浦安の国、細戈の千足る国・・・」というのは、
古遠賀湾のことであろう。
 伊弉諾尊と伊弉冉が最初に降り立ったおのころ島が、水巻町の多賀山まであろうという事が解ってきた。その
多賀山の直ぐ近くに立屋敷遺がある。
 伊邪那岐命が住んだといわれる八尋殿、つまり地上から床までの高さが、8尋(ひろ)高床式建物の柱の跡が
出ている。このことから伊弉諾尊は、紀元前4~3世紀の王である。
 英彦山の神は、これよりもずーっと古い。縄文時代の神である。古事記や日本書紀は、このように新しい神を
国生みの神に仕立て上げている訳である。

 

誓約(うけひ)
饒速日(天照大神)素戔烏尊
第三
 一書曰、日神素戔嗚尊、隔天安
河、而相對乃立誓約曰「汝若不有奸
賊之心者、汝所生子必男矣。如生男
者、予以爲子而令治天原也。」於是、
日神、先食其十握劒化生兒、市杵嶋
姬命
。又食九握劒化生兒、湍津姬命
又食八握劒化生兒、田霧姬命
(中略・・化生熯之速日命。)
其素戔嗚尊所生之兒皆已男矣、故
日神方知素戔嗚尊元有赤心、便取其
六男以爲日神之子、使治天原。卽以
日神所生三女神者、使隆居于葦原中
國之宇佐嶋
矣、今在海北道中、號曰
道主貴、此筑紫水沼君等祭神是也。

 これは、今まで話してきた日本書紀です。

 

誓約(うけひ)
天照大御神速須佐之男命
 爾に天照大御神詔りたまひけらく、「然らば汝
の心の清く明きは何して知らむ。」とのりたまひ
き。是に速須佐之男命答へ白しけらく、「各宇気
比て子生まむ。」とまをしき。
 故爾に各天安河を中に置きて宇気布時に、天照
大御神
、先づ建速須佐之男命の佩ける十拳剣を乞
ひ度して、三段に打ち折りて奴那登母母由良爾、
天の真名井に振り滌ぎて、佐賀美邇迦美て、吹き
棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、多紀理毘
売命。亦の御名は奥津嶋比売命と謂ふ。次に市寸
嶋比売命
。亦の御名は狭依毘売命と謂ふ。次に
岐都比売命

 速須佐之男命、天照大御神の左の御美豆良に纏
かせる八尺の勾たまの五百津の美須麻流の珠を乞
ひ度して、奴那登母母由良爾、天の真名井に振り
滌ぎて、佐賀美邇迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧
に成れる神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳
(古事記)

 宗像三女神である多紀理毘売命、市寸嶋比売命、多岐都比売命は、速須佐之男命の持っていた刀から生まれたと
ある。だから、宗像三女神は、速須佐之男命の子である。これが、古事記の主張です。
 次に速須佐之男命が天照大御神の持ち物から生んだ子(神)の名が、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命である。
天之忍穂耳命は、現在、英彦山北岳に祀られている。

 

素戔烏尊と草薙剣
八俣遠呂智退治の真相
 其の八俣遠呂智(まこと)(こと)の如く來て、
乃ち船毎に己が頭を垂れ入れ其の酒を
飮みき。是に飮み醉ひ留り伏して寢ね
き。
 爾くして速須佐之男の命、其の御佩
せる十拳の劔を拔きて其の蛇を切り散
ししかば、肥の河血に變じて流れき。
 故、其の中の尾を切りし時、御刀の
(こぼ)れき

 爾くして怪しと思ひて御刀の(さき)を以
ちて刺し割りて見れば、都牟刈(つむがり)の大刀
在り。
 故、此の大刀を取りて、異しき物と
思ひて、天照大御神に白し上げき。
是は草那藝(くさなぎ)の劒なり。
(古事記)

 

素戔烏尊と草薙剣
八俣遠呂智退治の真相
八俣 yaata
   ↓
八幡 yaata
 『草薙劒』、此を倶娑那伎能(くさなぎの)()留伎(るぎ)
云ふ。一書に云ふ。本の名は天叢雲劒(あめのむらくものつるぎ)
(けだ)大蛇(おろち)()る上に、常に雲氣(うんき)有り。(かれ)
以ちて名づくるか。日本武皇子(やまとたけるのみこ)に至りて、
名を改め草薙劒と曰ふ
(日本書紀 神代第八段)
※ 天村雲尊 = 八俣の大蛇一族
         即ち八幡神の長か
※ 素戔烏尊は最初の八幡神を退治したか!

 古事記では、都牟刈の大刀と呼ばれた同じ劔が、英彦山上宮に祀られた天村雲命と似たような名前で天叢雲劒
ある。日本武皇子の時に草薙劒に変わっている。
 八俣遠呂智の音が、音に交代から、八幡(八幡神)は八俣の大蛇一族が最初ではなかったか?
 したがって、素戔烏尊は最初(一番古い)の八幡神を倒した人である。

 

素戔烏尊と草薙剣
出雲王朝の成立
 故、是を以ちて其の速須佐之男の
命、宮を造作(つく)るべき地を出雲の國
求めき。
 爾くして須賀の地に到り坐して、
「吾、此の地に來て、我が御心、すが
すがし」と詔りて、其の地に宮を作り
坐しき。
 故、其の地は今に云う須賀なり。()
大神、初めて須賀の宮を作りし時、
其の地より雲立ち(のぼ)りき。
 爾くして御歌を()みき。其の歌に曰
く、
 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
 八重垣作る その八重垣を
(古事記)

 今の段階で、素戔烏尊が詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を 」のこの歌が
日本で最も古い倭歌と言われている。
 「やまと」は田川であると言っている以上、この倭歌(やまとうた)も当然、筑豊の歌である。

※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より

 素戔烏尊が、出雲王朝を造ったことになっているが、時代がよく解らない。高天原を追われて、今の島根県
(出雲)に造ったかといえば、どうもそうでは無い。『宋史 日本國』によれば、天照大神尊の前、伊弉諾尊の
後である。素戔烏尊が建てた出雲というのは、飯塚市の南の桂川町に出雲交差点がある辺りではないだろうか?
というのが、一説である。
 その前に出していた一説が、大分県宇佐市の  安心院に妻垣神社 がある。ここに素戔烏尊が、須賀の宮を造った
のではないか。
 筑豊・飯塚市・嘉穂地区にかけて須賀神社がいっぱいあるので、どちらが先にできたのか? 今また悩み始めた。
島根県の出雲大社は、『古事記』の時代には登場していません。出雲の国も八俣遠呂智もこちら筑豊である。
 

 

素戔烏尊と草薙剣
弥生中期 鉄剣の時代
『草薙劒』一書に云ふ。本の名は天叢
雲劒
。蓋し大蛇の居る上に、常に雲氣
有り。故以ちて名づくるか。
 八俣の大蛇は八剱を所有していたから
人間の一族であろう。長江の下流域で
人頭蛇身の女媧(じょか)という神が祭られていた

 この神を祭る一族ではなかったか。
絵「中国神話の伏羲(ふくぎ)と女媧(じょか)」
写真「鉄刀」

 田川、添田の古代豊国には、青銅と鉄とが同時期に作られた可能性が高い。
 八俣の大蛇一族は、人頭蛇身の女媧といわれる下半身が蛇の神を祀る一族ではなかったか?中国から田川に人が来ていると
言われているのであり得る。

※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より

 *.(参考)中国神話の伏羲(ふくぎ)と女媧(じょか)は、頭は人間、身体が蛇の形で描かれている。