「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
鷹羽の神々 -倭成す大物主-
■ 大三輪神社 / 綜麻形の家紋 / 鷹羽の神々 ご神紋 / 倭国の真の起源
川崎町に小さな大三輪神社がある。祭神は、大物主神である。
氏子の記録が、凄い。明治初年に明治政府が受け取った記録である。ここに書かれている「白雉」という年号は、
明治政府が認めなかった年号である。
白雉元年(西暦六五〇年)に田川の地に「大和国の一の宮三輪明神」があったということが書かれている。
奈良県の大神神社は、「神階は貞観元年(859)に最高位の正一位 となりました。延喜式の社格は
官幣大社で、のちに大和国一之宮となり」とある。
どちらの「大和国の一の宮」が古いのですか? 田川・川崎町の方が古い。奈良県の大神神社は、
西暦859年以後に大和国の一之宮となった。
万葉集19番歌の冒頭に「綜麻形」と書いて「みわやま」と読む歌がある。三勾の綜麻形(三角形・円錐形)を
した三輪山のことである。
また、古事記 崇神天皇記に三輪山の話のことが書かれている。香春岳の話である。その中に糸巻きが3輪残った
から三輪山というのだとの語源説が書かれている。
「三つ鱗」紋は、天香山・耳成山・畝尾山を図案化したものだった。
「綜麻」は、「へそ」と読む。「へそくり」の「へそ」である。昔、女性が糸を作ったから、女性の稼ぎのことを
「へそくり」という。
※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より
川崎町に残された伝承によれば、香春岳に当然の事ながら大物主が西暦650年までは、絶対に祀られていた
はずである。今、大物主は、香春岳からは消えている。
何時からでしょう? 和銅二年(709年)だと思う。香春一ノ岳の香春神社が山頂から降ろされた時である。
その時に大物主神が香春岳から外されたと推測している。
だから、今でも香春神社は、新宮である。三ノ岳の方が古宮である。古宮から新宮に変わる時に、香春岳の三神を
纏めて合祀されて降りてきたのが709年で、その時に一ノ岳に祀られていた大物主が、たぶん、律令時代の大和
王朝によって消されたのだと思う。
抱き鷹の羽に二つ引き紋、丸に違い鷹の羽紋すべて大物主の神、いや英彦山の鷹羽の神々を表している。 だから、
田川の神幸祭はすべて英彦山の鷹の神が香春の古宮八幡まで降りていく途中、田植えの頃に神幸祭が行われる。
田川の神幸祭は、文化財である。神話の世界が、いまだに残っている。稲作とともに残っている。日本で一番古い
稲作を祀るお祝い事である。
敵国、狗奴国の熊本県菊池の久米八幡宮や阿蘇神社のご神紋も違い鷹の羽である。鷹の羽の文化圏は、ものすごく広い。
北九州、中九州全部囲んで豊国・倭(やまと)国だった。
東方年表 平樂寺書店
卑弥呼が詠んだかも知れない日本書紀 崇神天皇紀にある「倭成す大物主」、倭国を造った大物主と読んでいた。
倭国の真の起源は、神武天皇の即位を東方年表にあるように紀元前660年(皇紀元年)から始まっているが、
実際の神武天皇の即位を西暦121年としているので、これは何を意味するのか。
今回説明してきた英彦山の神々、豊の国・田川の土地で最初に倭国を造ったのは、五穀豊穣の神であり牛馬の神で
あり蚕の神であって人々に幸せを与える鷹羽の神、大物主である。その大物主が倭国を造ったのが、紀元前660年では
なかったのか。
日本書紀は、この大物主を隠すために神武天皇の即位を紀元前660年まで戻した。だから、途中の天皇たちの年が
100何歳と伸ばしている。
英彦山の4番目の神である。この筑豊に稲作、色々な農業の技術をもたらした。ひょっとしたらインドからやって
来た。インド・アーリア系の大物主の神が稲作を始められたのではないだろうか?
田川の土地では、大物主が倭国を造った時が紀元前660年である。それは中国は周という王朝の時代である。
我が国も弥生時代から数えて3000年はありますよ。