「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬壹国こそなかった  -九州王朝論の再構築に向けて-

※ 邪馬壹国こそなかった  -九州王朝論の再構築に向けて-
 (平成二六年七月一九日(土)、於:久留米大学御井キャンパス)より

唐の時代までは、「邪馬壹(壱)国」は、何処にも無かった

 唐の前の『隋書』「経籍志」の「正史」中の「後漢書」という事で、下にその内の3種だけを挙げている。最初が
「謝承の撰」、謝承後漢書である。真ん中に一つだけ抜き出したのが、「晉祠部郎謝 沈撰.」で、これが謝承の孫に
当たるのかどうか知りませんが、「謝」という性があったので一応、載せた。かなり後の方に「范曄撰.」の後漢書が
ある。

 これにより謝承後漢書と范曄後漢書の区別が出来るようになると思う。そして、謝承後漢書は、唐王朝の図書館の
中に厳然と備わっていたという事がわかる。

 次が、『隋書』俀國伝であるが、これは、顕慶元年(六五六)になる。そこに「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬
也.
」とハッキリと「」が書かれている。
 ここにある「魏志」が先ほど話しました通り唐王朝で認められた正史であり、唐の王朝の図書館にあった三国志の
中の正史である魏志は明らかに「臺」と書いている。
 何処にも「邪馬壹(壱)」とは、書かれていない。

 その次が、先ほど挙げた唯一の写本である『翰苑』倭国条は、張楚金が本文を書いていて、そこにある注が、謝承
後漢書
である。
 張楚金が本文を書いたのは、顕慶五年(六六〇)であり、『隋書』俀國伝とたったの5年の差である。同じ条件下で
書かれていて、ここでも「鎭馬臺」と「臺」の表記である。この張楚金の本文は四六駢儷文という限られたである
ので、「邪馬臺」の「邪」の字が省かれただけで、事実上「邪馬臺」である。

 この謝承後漢書の注の中には、范曄後漢書にある「其大倭王居邪馬臺國」の記事が残念ながら「其大倭王治邦臺」と
しか書かれていない。ここに「邪馬臺」が書かれていない。
 しかし、やはりここにも「臺」が書いてあり、「壹(壱)」は書いていない。

 翰苑は、写本(手書きの写し)である。版本のように何処かの学の無い職員が彫ったのとは、訳が違う。日本の貴族
が書いた写本である。

 最後が、范曄後漢書・李賢注である。これが、儀鳳元年(六七六年)の成立であり、皆さんが良く知っている「其大
倭王居邪馬臺國」とある。

 ここまでで、写本と版本を合わせて謝承後漢書、三国志、范曄後漢書、それから三国志斐松之注、唐の時代の
『隋書』俀國伝、『翰苑』雍公叡註、『范曄後漢書』李賢注のすべてが、「邪馬国」の表記である。
 言い換えれば、唐の時代まで「邪馬壹(壱)国」は、何処にも無かった。すくなくとも中国、唐の時代には一切、
「邪馬壹(壱)国」は無かったとしか言いようがない。
 私も國學院大學の中国文学科の出身である。調べ方は、ちゃんと教授に教わっている。

邪馬壹國こそなかった
『隋書』「経籍志」の「正史」中の「後漢書」
後漢書一百三十卷無帝紀,吳武陵太守謝承撰
後漢書八十五卷本一百二十二卷,晉祠部郎謝 沈撰.
後漢書九十七卷宋太子詹事范曄撰.
『隋書』俀國伝 顕慶元年(六五六)
『隋書』俀国伝「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」
『翰苑』倭国条 張楚金 顕慶五年(六六〇)
『翰苑』「憑山負海鎮馬臺以建都」
「范曄後漢書」李賢注 儀鳳元年(六七六年)
『范曄後漢書』(邪馬臺國)

 

唐時代の唐詩(近体詩)は、平仄法を守らなければいけない

 唐の時代に有名なのが、唐詩と呼ばれる近体詩である。七言絶句、下の李白の「早發白帝城」の歌の右側に〇、●が
付けている。
 これが、中国の中で古体詩、近体詩という唐の時代に新しい詩のスタイルが確立した。その詩の約束事が平仄法
呼ばれる約束事である。

七言絶句平起式
早發白帝城
李白
┌─┐
二四不同
朝辭白帝彩雲間
弧平・弧仄を忌む
千里江陵日還
───
下三連を忌む
兩岸猿声啼不住
二六対
輕舟已過萬重山
└───┘

 

七言律詩仄起式
登高
杜甫
○●○○○●◎
○○○●●○◎
風急天高猿嘯哀
渚清沙白鳥飛廻
○○●●○○●
●●○○●●◎
無邊落木蕭蕭下
不盡長江滾滾來
●●○○○●●
●○○●●○
萬里悲秋常作客
百年多病獨登
○○●●○○●
●●○○●●◎
艱難苦恨繁霜鬢
潦倒新停濁酒杯
中央の二組が必ず対句、これは全対。
四声を二分
○平(平声) ●仄(上声・去声・入声)
◎押韻

 まず「四声(平声・上声・去声・入声)を二分」とあるように平(ヒョウ)が「〇」で平声。「●」が仄(ソク)
上・去・入声とある。現代中国語でも四声がある。
 高く平らなに発音するのが平声。それから高い所から一気に下がるのが、たぶん唐の時代の去声だろう。上声という
ように低いところから高く上がる。麻という字が「mā」というように上がる。
 最後に入声の確認であるが、唐の時代には、末尾が、-p・-k・-tで終わる音節の語があった。例えば、英語の
「book」というように喉を震わせ無い子音で終わるのが、入声である。

 高く平らなトーンを平(ヒョウ)という事にして、残りの3つのトーンを仄(ソク)、傾く音をする。この平らな
トーンと傾くトーンをどのように配置したら自分たちの詩が最も美しく響くかという事を唐の詩人たちは考え抜いた。
 それが平仄法である。

 絶句とか律詩で大事なのは、2字目、4字目、6字目がポイントである。最初の句の2字目が平で始まるとまず二四不同といって、2字目と4字目は、平と仄を変える。
 また、二六対とあって、2字目と6字目は同じ平仄にする。これは、絶対に守らなければいけない約束事である。

 次に「弧平・弧仄を忌む」というのがあり、特に「弧平を忌む」で、2・4・6字目の所で一人ぼっちの平(一人
ぼっちの仄)を作ってはならないという約束事がある。

 もう一つが、「下三連を忌む」であり、一番最後の3文字が単調にならないようにする。これは、「平平平」、「仄
仄仄」としてはいけない。

 李白の「早發白帝城」では、2字目が「平」で始まるので、4字目が「仄」、6字目が「平」になる。次の句では、
入れ替わり、2字目が「仄」、4字目が「平」、6字目が「仄」となる。次の句は並んで、2字目が「仄」、4字目が
「平」、6字目が「仄」となる。次の句では、反転して2字目が「平」、4字目が「仄」、6字目が「平」となる。

 最初の2字目が「平」で始まるか、「仄」で始まるかによって、半分以上の平仄が最初から決まる。これ以外の字を
配置するとこれは、唐詩(近体詩)では、無くなってしまう。これ位やかましい。

 それから偶数句末に必ず押韻(同じ母音の語を配する)、平の音(平声)を韻として持ってこないといけない。物凄
い約束事である。
 この約束事を李白は、「ウィーピック」と酒の飲んで酔っ払いながら守ったから天才なのである。

 2字目が「平」か「仄」かで、ほとんど決まっている。それで、我々が訓読で読んで、あれだけ独特の詩、雰囲気、
個性等を発揮したのが、李白や杜甫である。彼らは、みんながみんな天才であった。

唐代には「邪馬臺國」・「邪馬台國」はあったが、
「邪馬壹國」は未だ出現していなかった

 唐詩(近体詩)の平仄法の約束事を頭に入れて、邪馬壹(壱)国の壹であるが、これは、呉音で「イチ」、漢音で
「イツ」であるから平仄の仄(●)である。

 杜甫の詩「登高」の中に「百年多病獨登臺」と邪馬臺の臺の字があるが、平声であり、押韻(◎)している。

 復習すると壹(イチ、イツ)は、入声韻である。末尾が(-t)で終わる韻である。壹(ダイ、タイ)は、平声で
ある。平仄が違う。唐の詩人たちは、平仄法を全部守っている。
 余談であるが、唐の次の時代である北宋に杜黙という詩人がいた。この人物は、中国人の出来損ないで、この平仄法
を守れなかった。それで、この杜さんが作った詩=出鱈目ということで、杜撰という言葉が出来た。この平仄法との
関連で有名な話である。

 范曄後漢書李賢注に「其大倭王居邪馬國.」(其の大倭王邪馬臺國に居す。)とある。そこに李賢の注が付いて
いる。「案今名邪摩,音之訛也」(案ずるに今の名邪摩ならん、音の訛れるなり。)とあり、大事なのは、この音
である。
 李賢も唐詩を読んでいる。そのブレーン達も士大夫階級であり、唐詩を読んでいる。唐の時代において、彼らは
全員、平仄法を守った人たちである。その彼らが、いい加減な韻の注を書くだろうか?という事である。

 「臺」の字は呉音「ダイ」、漢音「タイ」。韻(平・上・去・入)の目次は「灰(-ai)」で平声である。次が、注に
出てきた「惟」で、呉音「ユイ」、漢音「イ」で、「支(-i,-wi)」の平声である。古田武彦氏がこだわった「壹」の
字は、呉音「イチ」、漢音「イツ」で、入声韻「質(-it)」である。「壹」の字は、平仄法では、仄で(●)になる字で
ある。

 「台」の字は、「イ」であり、平声はあっているが、韻の目次が「支(-i,-wi)」で違う。これに私は、10年近く前に
気が付いていた。

 一体、李賢は何を元にして「邪馬臺」の音を今は、「邪摩惟」という風に考えたのだろう。これをもってして「惟」
と「壹」が同じだという人が九州王朝論者の中にもいるが、大間違いである。
 韻が違うというようなミスを唐詩を読んだ彼らが侵す訳がない。平声と入声を間違える訳がない。

 そう考えた時に出た結論は、我々が今、「邪馬台国」と使っている「台」という略字にある。この略字の「台」は、
実は「イ」である。韻が、「支(-i,-wi)」の平声である。
 結論はつまり、唐代には「邪馬臺(ダイ)國」・「邪馬台(イ)國」の表記はあったが、「邪馬壹(イチ)國」は
未だ出現していなかった。
 これが、魏志倭人伝のテキストクリテークである。

 「邪馬壹(イチ)國」は、どう考えても12世紀の南宋時代の紹興本、紹煕本という版本にしか現れない。それを
もって、陳寿が書いた最初が「邪馬壹(イチ)國」だったというのは、ここまでくると嘘、詭弁、妄想でしかない。
 これが、中国文学、中国古典を通した本文批判、テキストクリテークの結果である。

 南宋時代以降は、「邪馬壹(イチ)國」はありますよ。すべての三国志がそうである。
 しかし、陳寿が見た後漢書(謝承後漢書)には、「邪馬臺(ダイ)國」と書かれていた。だから、斐松之が、注の
中で何にも拘っていない訳である。
 唐の時代の3書の内の1書は、日本だけに残った写本(翰苑)であり、その写本の中に「馬」と書かれている。
また、そこの注にある謝承後漢書にも「邦」と書かれている。
 だから、やはり「」である。

邪馬壹國こそなかった
──
其大倭王居邪馬國.案今名邪摩
音之訛也.
ダイ
タイ
ユイ
イチ
イツ

-t

つまり、唐代には「邪馬國」・「邪馬
國」があったが、「邪馬國」は
未だ出現していなかった
ノウ
ドウ
ダイ