「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 邪馬壹国こそなかった  -九州王朝論の再構築に向けて-
 (平成二六年七月一九日(土)、於:久留米大学御井キャンパス)より

 邪馬壹国こそなかった  -九州王朝論の再構築に向けて-

 

福永晋三
記紀万葉研究家
「神功皇后紀を読む会」主宰
於 久留米大学御井キャンパス
平成二六年七月一九日(土)
邪馬壹国こそなかった
-九州王朝論の再構築に向けて-

 

 古田武彦氏の「初期三部作」の中の『「邪馬台国」はなかった』に対して、そちらこそおかしいという真正面から
異を唱える論考である。

 魏志倭人伝本文批判(テキストクリティーク)

 陳寿は、謝承後漢書を見て三国志(魏志倭人伝)を書いている

 唐時代に范曄後漢書に注を付けた章懐太子賢も謝承後漢書を見ている

 陳寿が見ていた謝承後漢書が、翰苑の中に残されていた

 

 唐の時代までは、「邪馬壹(壱)国」は、何処にも無かった

 唐時代の唐詩(近体詩)は、平仄法を守らなければいけない

 唐代には「邪馬臺(ダイ)國」・「邪馬台(イ)國」があったが、「邪馬壹(イチ)國」は
 未だ出現していなかった

 

 次にこの「臺(ダイ)」の字は、謝承後漢書(謝承が後漢書を書いた時)の実際の音価(本当の発音)が何だった
のだろうかというという問題が残る訳である。

 結論は、簡単であった。通説側が言ってきた通り「」の字の発音は、「」である。
 「臺」という字に艹(くさかんむり)を付けたらなんという字か? フキノトウ(蕗の薹)の「薹」とおいう字で
ある。女性に対しては、少し失礼な事を言いますが、薹が立つ(とうがたつ)の「薹」である。
 日本には、「臺」の字が「ト」だったという痕跡が残されている。

 以下、略します。「臺」の音価については、『邪馬臺(台)は、「ヤマト」と読む』のページを  こちら からご参照
下さい。

 

※ 尚、 陳寿が見ていた謝承後漢書が残されている翰苑 を同じ「邪馬壹国こそなかった -九州王朝論の再構築に
 向けて-」(平成二六年七月二〇日(日)、於:九州古代史の会 )の「翰苑再読」より作成しています。

 

 下記の本講演の項目については、講演時のコメントのページを、省略しましたので、項目の関連ページをご参照
下さい。

 神武東征と魏志倭人伝

・・・  こちら (邪馬臺國年表(豊国史))からご参照下さい。

 神功征西と倭国易姓革命

・・・  こちら (神功天皇・征西)からご参照下さい。

・・・  こちら (川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡)から
   ご参照下さい。

 真実の仁徳天皇

・・・  こちら (真実の仁徳天皇(香春版))からご参照下さい。

 狂心の渠と吉野宮

・・・  こちら (「壬申の乱」のあらまし)からご参照下さい。

・・・  こちら (白村江の戦いと壬申の乱)からご参照下さい。

 大和王朝の東遷

・・・  こちら (大和王朝の東遷)からご参照下さい。