「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 邪馬壹国こそなかった -九州王朝論の再構築に向けて-
(平成二六年七月二〇日(日)、於:九州古代史の会 )より
陳寿が見ていた謝承後漢書が残されている翰苑
※ 講演時のコメントは、抜粋しています。
大宰府天満宮に残された翰苑の影印本を活字に起こした。
まず、謝承後漢書である。
「倭在朝(鮮)東南大海中」は、朝鮮の「鮮」の字が抜けているようである。
「使譯通漢」と書いている。范曄後漢書の「使驛」とは、違う。言(ごんべん)の「譯(ヤク)」である。
「州餘國」と書かれているが、「州」は、「卅」の誤植であろう。
*.参考までに「范曄後漢書」のページは、 こちら です。
「其大倭王治邦臺」と書かれてあり、肝心の「邪馬臺」とは書かれていない。竹内理三氏とかは、訓読した時に
「邦」が「邪」の字の誤植で。「馬」の字が抜けたのではないかととして、彼の訓読では、「邪馬臺」に改めている。
私は、原文通り持ってきてきた。翰苑の中では「邦臺」としか書かれていない。
しかし、大事なことは、やはり「臺」の字が残されていることである。これは、謝承の後漢書であり、范曄後漢書
ではありません。西暦250年頃の「臺」が、面々と受け継がれている。
「去其國万二千里」とあり、「餘」はありません。魏志倭人伝とは違う。
目の前に謝承後漢書がある。微妙ではあるが、違っている。
張楚金の本文の後の注に、「魏略曰」と出てくるが、魏志倭人伝に馴染みの文句が一杯出てくる。
「暦韓國」と「歴」の字が「暦」になっている。
「七十餘里」も「千」の字が「十」の誤植のようである。間違っている所が面白いが、「臺」は、間違っていな
かった。
「對馬國」と書かれている。魚豢の魏略である。いかに南宋本の三国志が出鱈目だという事が判る。紹興本も「對馬
國」と書いている。紹煕本が一番良いと言ったのは誰かの出鱈目である。
「副曰卑奴」としか書かれていない。魏志倭人伝の「副日卑奴母離」とある「母離」が無い。
「一支國」と書かれている。だから、12世紀、南宋の紹煕本が間違いだらけである。間違いだらけの「邪馬壹
(壱)国」が陳寿の原本だという事は逆立ちしてもあり得ない。
*.参考までに「紹煕本」のページは、 こちら です。
「至伊都國」とある。これは、「イツ国」であり、呉音読みをする。
「置曰爾支」とあるのは、「置(官)曰爾支」でしょうか? 長官という名目の字があるはずである。爾支と曰う。
伊都國の爾支(ニキ)、「ニキ」で思い当たることがありませんか?
私が東京の古田会を追われた理由の一つである。「熟田津論争」である。私の説がよほど邪魔だったようである。
熟田津(新北津)の爾支(ニキ)だと思う。
翰苑の注にひかれていた魏略は、日本の平安時代、9世紀の貴族が写した時には、このような文になっているが、
これが意外と三国志に似ていることがわかる。
この内容は、謝承後漢書には、無かったのでしょうか? 里程については、この魏略から写している訳である。魏略
を元に陳寿は魏志倭人伝を書いている。
だから、「邪馬臺国」の部分は、謝承後漢書を引き継いで同じ国名で書いており、里程については、本当に魏の使い
が行った直後に魚豢の魏略に書かれた。
それを西晋の時代に陳寿が纏め直して、魏志倭人伝を書いている。この構図しかわかりませんね。皆さんの眼が一番
が確かである。
私が活字に直したといっても、自分の都合の良いように直したりはしていない。原文の通り写している。
ここに「臺與」とあり「壹與」とは張楚金は、本文に書いていない。
翰苑のこの注は、「後漢書曰」とあるから、謝承後漢書である。我々は、謝承後漢書を2つ見ている訳であり、謝承
後漢書が残されている。
范曄後漢書にはない「倭面上國王師升」と書かれている。范曄後漢書では「倭國王帥升」と書かれている。范曄が
直したとしたら、ここだけである。
彼(范曄)は、「倭面上國王」というのが解らなかった。だから、解りやすい「倭國王」に変えた。范曄が仕出か
したミスは、たぶん、これだけである。
「倭面上國王」については、多元の会の富永長三氏が見事に百済にその例があることを出してきた。韓伝の中に
「面中王」とあった。朝鮮半島にそのような呼称があるらしい。倭は、「面上国」という位であり、百済や三韓より
上の位であったらしい。
だから「倭面上國」という呼称があり、重要な文句である。それも謝承後漢書に書かれている。
倭面上國王が、師升であることは、倭奴國である。倭奴國は、韓半島でこのように呼ばれた。これは、貴重な資料で
ある。
昨日、久留米大学の講演でも言いましたが、国宝級の資料である。
次の「桓遷之間」の「遷」は、「霊」の間違いだろう。スゴイ間違いである。
「倭國大乱,更相攻伐,歴年無主」とあるが、これは三国志で聞いたことがある文句である。すでに謝承後漢書で
書かれたいた。これは、范曄後漢書では無い。「倭国大乱」という文句が、三国志の前にあった。
注には、「有一女子名曰卑弥呼」とあるが、どういう訳か張楚金の本文は、「卑彌娥」と書かれている。謝承後漢書
には、ちゃんと「卑弥呼」と書いている。
「復立卑弥呼宗女臺與」で、「臺與(トヨ)」である。「國中遂定」というのが、日本書紀・崇神紀に書かれて
いる。乱が治まったとある。
翰苑というのは、時々、誤字があったり、脱字があったりするが、大部分は、原本に忠実に写したらしい。
有名な「文身點面猶稱太伯之苗」である。ここの注も魏略である。翰苑では、魏志は使われない。少しでも古い資料
が使われる。
雍公叡という人物は、賢い。なるべく古い方の資料を注に一貫して使っている事が凄い。だから、雍公叡は、翰苑の
中で范曄後漢書を用いていない。
先ほどの高麗伝で3種の後漢書のひとつ范曄後漢書が出てきたが、東夷伝の中では、奇跡に近い。范曄後漢書の例は
少なく、後漢書の方が多かった。何故、范曄後漢書は、1、2ヶ所しかないのというのが、翰苑を全部酔読んだ感想で
ある。
私は、たぶんこの国で内藤湖南以来、翰苑を通読した二人目の人間だと自分で思っている。大学者に並びました。
「狗奴國」が、出てくる。「狗」とちゃんと「犭/けものへん」となっている。
「其官曰拘右智卑狗」の「右」、ここは「古」の間違いでしょう。「自帶方至女國万二千餘里」と「餘」の字が
入っている。陳寿は、この「万二千餘里」を」受け継ぐ。謝承後漢書では、「万二千里」とピッタリで「餘」は付いて
いなかった。
「斷髮文身以避蛟龍之吾」の「吾」は、「害」の間違いである。