「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 邪馬壹国こそなかった -九州王朝論の再構築に向けて-
(平成二六年七月一九日(土)、於:久留米大学御井キャンパス)より
陳寿は、謝承後漢書見て三国志(魏志倭人伝)を書いている
三国志の呉志の中にある謝夫人という孫権の第一夫人の伝記である。その謝夫人は、若くして亡くなってしまうが、
弟に承という人物がいて、下記に赤線を引いている通りに「承拜五官郎中、稍遷長沙東部都尉、武陵太守、撰後漢書
百餘卷」とある。
他ならぬ陳寿が書いた記事である。したがって、陳寿はすでに後漢書を見ている。
古田武彦氏が犯した最大の過ちは、通説に乗って陳寿の三国志が先に成立し、范曄の後漢書は、五世紀でその後に
成立したという。
これは、通説に乗っかった大きなミステークである。これ(謝承、撰後漢書百餘卷)は、陳寿自身が書いている。
だから、陳寿は、後漢書を見て三国志、あの有名な魏志倭人伝を書いている。
これが、まず一つである。
次に五世紀の范曄後漢書と云われる後漢書を書いた范曄と同じ王朝に仕えた斐松之という人物が、この陳寿の三国志
に注を付けている。
これを我々は、三国志斐松之注という。下の周瑜傳の中に赤枠で囲んだ所に「謝承後漢書曰」とハッキリ書かれて
いる。
三国志に注を付けた斐松之もやはり五世紀の時点で、謝承後漢書を見ていることになる。
謝承という人物は、呉の孫権に仕えている。したがって、謝承後漢書というのは、およそ250年頃、三世紀の
真ん中であり、285年成立の陳寿の三国志よりも35年も早く書かれている。
これが、まず資料の現実が示すところである。
※ 上記の影印は『百納本二十四史』即ち宋紹煕刊本の一部
唐時代に范曄後漢書に注を付けた章懐太子賢も謝承後漢書を見ている
范曄後漢書李賢注というのは、章懐太子賢(六五一~六八四)、王朝でいえば唐の時代に書かれた本である。
その中にもやはり、下の赤枠で囲んだ所に「謝承書曰」と書いている。これは、他でもない謝承後漢書の意である。
ここで大事なことは、范曄も謝承の後漢書を見て、自分でも新しい後漢書を書いた。唐の時代の章懐太子賢とその
ブレーンも謝承の後漢書を見て、注を付けている。
この事実がもう重なってきたと思う。
陳寿が見ていた謝承後漢書が、翰苑の中に残されていた
翰苑という書物は、中国でも失われてしまったが、奇跡的に太宰府天満宮に翰苑・東夷伝というのが残こされて
いる。下はその写本を吉川弘文館が出版したものである。
わが国で一番古くは、大正11年に内藤湖南が出版している。これは、影印本(写真本)であるから間違いが
ありません。
陳寿が見ていた、斐松之が見ていた、范曄が見ていた、李賢とそのブレーンが見ていたという謝承後漢書が現代に
残されているのか?
(謝承後漢書が)残されたいた。ビックリですね。
下にあるのが、翰苑の内の高麗伝である。太字の部分が、張楚金という人物が書いた部分である。張楚金が翰苑を
四六駢儷体で綴った後、50年後に雍公叡という人物がそれに注を付けた。
倭人伝であるが、つまり、この文言の意味するところは、張楚金の本文に対して、50年後の雍公叡が、元となった
史書をこのように全部並べている訳である。
そうした時に驚くのは、赤枠で囲んだように高麗伝には、唐の時代において3種の後漢書があるという事である。
一番目が、「魏牧魏後漢書」。魏牧魏という人物を調べ抜いたが何処の誰かさっぱり解らない。二番目が我々が通説
以来知らされてきた「范曄後漢書」が引かれている。三番目に「名前の無い後漢書」がある。
この名前の無い後漢書こそが、どう考えても謝承の後漢書であるという結論に至った。
倭人伝の「憑山負海鎭馬臺以建都」の張楚金の本文に対して、「後漢書曰」と書いている。これは、謝承後漢書で
あり、陳寿が見ていた後漢書である。
陳寿が見ていた後漢書をもとにして張楚金が、「鎭馬臺」と書いている。もうすでに「壹(壱)」が無い。古田
武彦氏は大間違いである。
その同じ注の中のその後、「魏志」が出てくる。同じ「鎭馬臺」という本文に対する注に謝承後漢書と魏志がある。
この魏志という言い方は、唐王朝は三国時代の魏の流れをくむ正統の王朝であるという自負がある。
したがって、唐王朝の図書館の正史の棚には、三国志は置いていない。三国志の魏書と呉書、蜀書を別けておく。
その魏書の部分だけが正史(正しい歴史書)という事で正史の棚に置かれた。
呉書と蜀書については、これは雑史(雑の歴史書)だという事で別の書棚に置かれたという事が旧唐書・経籍志に
書かれている。
したがって、我々が魏志倭人伝と言っている訳には由縁があった。何故、三国志ではなかったのか? 唐の時代
には、魏書が正統の歴史書で呉書と蜀書は雑史であった。
我々は、失われてしまったと思われていた陳寿の見ていた謝承後漢書を太宰府天満宮に残された翰苑によって、
見ている訳である。
凄いです。これが、250年に書かれた謝承後漢書の写しである。
大宰府天満宮委に残された翰苑自体は、900年に我が国の文人が唐の翰苑から写したものである。これは写本で
ある。手書きの写しであり、版本(木を彫って印刷したもの)で無い。
我が国のある程度の教養人が写した謝承後漢書という事になる。これは、わが国でも国宝級の大事な文献である。
古田武彦氏は、これに気が付かなかった。