「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
白村江の戦いと壬申の乱
■ 豊君としての天智天皇
● 孝徳天皇は大化の改新を行うが、後に中大兄皇子が従わない
・・・ 乙巳の変の後に即位した孝徳天皇は、大化の改新を行う。口分田などの制度の改革をして
中央集権を図る。
最初、中大兄皇子は、大化の改新に協力するが、途中(六五三年)に倭京に遷ることを
求める。
「中大兄が、皇祖母尊と間人皇后、皇弟等を連れて倭飛鳥河辺行宮に遷る」とある中の
「皇弟」と書かれているのは、『日本書紀』が作ったインチキだと思われる。皇弟=大海人
皇子は、この時にまだ居ない。
『日本書紀』は、「河辺」と書いて「かわら」と読ませている。後に「河邊」と書いて、
また、「かわら」と読ませている。
・・・ 倭飛鳥河辺(かわら)行宮/倭河邊行宮(やまとのかはらのかりみや)は、香春町の阿曽隈社の下、古宮ヶ鼻の
所にあったと思っている。
宮原橋の傍であり、「吹き出し」のすぐ上の所で台地の部分だと思う。実際の阿曽隈社は、この更に
奥の所である。
・・・ 『日本書紀』では、西暦655年(斉明天皇元年)が、天智天皇の称制となっているが、私は
即位である。斉明天皇元年=天智天皇元年と考えているので、ここで天智天皇は即位である。
孝徳天皇が崩御の後に即位している。天智天皇は、百済との国交を絶ち、遣唐使を派遣している。
倭国東朝の天智天皇は、白村江の戦いの前に早くも、唐・新羅と国交を結んでいた。
『日本書紀』は、唐・新羅と百済・高句麗との二元外交をしていたと書いている。これは、
正直に言ってビックリである。イランとサウジアラビアが一緒に来るようなものである。これが、
琵琶湖畔の大津宮に来たらどうなるんですか?ここで撃ち合いですよ。そういうことが『日本書紀』は
平気で書いている。朝鮮半島で新羅は、百済とずーっと戦争をしている。その2つの国が、一緒に
やってきて鉢合わせしたらどうなるんですか?
この時、百済側を応援していたのは、倭国本朝(筑紫側)である。白雉4、5年には唐に遣唐使を
派遣している豊国側、裏の実力者である後の天智天皇は、唐・新羅と連合している。
だから、「二元外交は無し」となる。
・・・ 倭国東朝(豊国側)は、新羅とつながっている。倭国本朝(筑紫側)は、百済を支援している。
唐は、百済と高句麗と対決する。
西暦663年百済滅亡とあるのは、白村江の敗戦後の年であり、660年に百済は、一旦滅んで
いる。倭国本朝が、百済を再興を支援して、多くの軍隊と人質だった皇子豐璋を送り返す。
『日本書紀』の斉明天皇六年(660年)は、七年(661年)で何故、ここで王子豐璋を
送り返すのが、倭国本朝なのか、倭国東朝なのか解らなかった。
百済を支援したのは、倭国本朝(筑紫側)である。孝徳天皇の下で天智が結んだのが、新羅・唐で
ある。高句麗・百済・筑紫が一つの枢軸国で、豊国・新羅・唐がいもう片方の連合国である。
仲が悪い同士が同じ王朝へ来る訳が無い。
● 斉明天皇二年の記事は、筑紫側の斉明天皇ではなく、豊国側の天智天皇の業績ではないか?
・・・ 「狂心の渠」、「垣造る」、「吉野宮」の遺跡が全部豊国側にある。
・・・ 香春町の宮原盆地には、「謎の地下水路」がある。桃坂豊氏が、『郷土史誌 かわら』に掲載
されている。
築造年代等、不明なことだらけだから、「謎の地下水路」である。
・・・ 宮原の給水設備建設時の写真であるが、かなり地下深い石組みの水路である。ここからポンプで水を
汲み上げて、青色のタンクに水を蓄えて渇水時に香春の人々に水を配る設備である。
西暦656年(斉明天皇二年)に造られた地下水路(狂心の渠)だと思う。200隻の船で石を運んで
来て造られた石組の水路である。桃坂氏は、この石組の上の部分に粘土が被せられていたと言っている。
だから、この水路は排水路ではなく、給水路だと桃坂氏も断定した。
香春岳の石灰石の中を通ってきた水である。天埜貴子氏の専門分野であるが、皇極天皇紀・斉明天皇
紀には、豊後の火山が噴火して香春町の地表の水は腐ってしまった(強酸性になってしまった)。
魚は死んで腐って浮いてしまい、水が飲めなくなった。それで、急いでこの地下水路を造った、と
天埜氏は言っている。
・・・ 大阪山の中腹にある「呉中平雪穴」が、斉明紀に「垣造る」と書かれた垣である。垣とあるので、
城の石垣をイメージしていたが、掘ってあった。雪穴であった。
昭和52年くらいの台風で壊れたが、排水設備があったそうである。冬場に雪を貯めておいて、
夏場に雪が溶けた水を下の所で受け止めて、呉にある田圃に流してようである。
これも灌漑設備である。
・・・ 吉野宮は、何処か?田川の都(京)から考えて、應神天皇紀には、吉野は「京より東南、山を隔てた
吉野川のほとり」とある。また、「國樔人」の居る処であるとも書かれている。
・・・ 應神天皇紀に書かれた吉野は、大分県中津市山国町の吉野である。奈良県の吉野ではありません。
ここにある若宮神社が、斉明天皇紀に書かれた「吉野宮」である。
境内の写真にあるように山国川(吉野川)から石段が一直線に拝殿まで登れるように造られている。
江戸時代に住民が造れるような物ではありません。やはりある程度の王権が造った宮殿跡であろう。
奈良県の吉野宮の模型は、全く根拠がありません。山国町吉野には、建物跡が残っている。
また、拝殿の周りには、石垣で造られた大臣の住宅跡と思われる場所もある。10何基かある。
・・・ 有名な「和同開珎」であるが、これも日本書紀を丁寧に読んでいくと天智天皇の時代に作られている。
銅の成分も香春三ノ岳の銅だと解っている。和同開珎の古い銅銭は、香春三ノ岳の銅が使われている。
この事も学者にとって都合が悪いので、頑なに口を閉ざしている。このような事は、オープンにして
欲しい。