「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 真実の仁徳天皇(香春版)

※ 真実の仁徳天皇(香春版)
 (平成二七年七月二五日(土)、香春町講演会 於:香春町コンベンションホール)より

大鷦鷯の乱(大鷦鷯は、宇治天皇を殺し、皇后髪長媛まで奪う)

■ 宇治市の県祭りの梵天のブン回しは、宇治天皇の最期のようだ

写真「県祭りの梵天のブン回し」
写真「県祭りの梵天のブン回し」

 宇治市 県祭り 

写真「県祭りの梵天のブン回し」
梵天のブン回し
大鷦鷯の乱(豊国史)

 大事件、「大鷦鷯の乱」が勃発する。クーデターが、起きる。

 香春の宇治に居た人々が、現在の京都府宇治の方へ奈良の都が遷ったように引っ越していったようである。
その宇治市の県祭りは、「梵天のブン回し」というのが行われる荒々しい祭りである。
 梵天は、和紙を幾重にも畳んでネギ坊主のような形をしている。その梵天を上げ下げしたり、ブン回し足りし、
最終的には、とある建物に担ぎ入れて、梵天を解体してしまう。
 その梵天が、宇治天皇の最期のようである。つまり、大鷦鷯の配下に殺されたらしい。このようなお祭りが、
香春から遠く離れた京都府宇治で行われている。

 太子の補佐であった大鷦鷯皇子が、宇治天皇を殺した。大事件である。著書「真実の仁徳天皇」という本の
題名の意味が解りましたか?
 だから、仁徳天皇は、大鷦鷯ではなかった。大鷦鷯は、本物の仁徳天皇を殺した悪人である。大鷦鷯は、
「民の竈」を心配した人物で無いと言ってのけた訳である。

 

■ 『万葉集』巻二の冒頭の四首は、磐姫皇后の歌ではなく、髪長媛皇后に託して読まれた

(八八)
 秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 
我戀将息
(八七)
 在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 
霜乃置萬代日
(八六)
 如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四巻手 
死奈麻死物呼
(八五)
 君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 
待尓可将待

 右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
 難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇 
謚曰仁徳天皇

磐姫髪長媛皇后思天皇御作歌四首
 是に天皇、高山に登りて、四方の國を
見たまひ
大鷦鷯の乱(豊国史)

 「天皇、高山に登りて、・・・」とある「高山」を我々、普通の漢字力では、「たかやま」としか読めない。
「高山」をいきなり「かぐやま」と読める人は、よほどおかしい。
 「高山(たかやま)」で良い。高山が何処かないかなと東京でずーっと探していたらあった。それは、行橋市
入覚にある幸ノ山であった。

 実は、真実の仁徳天皇(宇治天皇)は、3回国見をなさったようである。その3回目の国見の山(高山)が、
入覚の幸ノ山だったようである。

 結局、私の所でも国見をなさってくれませんかと大鷦鷯に比良の宮から誘い出された。

 『万葉集』巻二の冒頭にある「難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇 謚曰仁徳天皇」とある「謚曰仁徳天皇」が、
大間違いであった。だから、取り消し線を入れている。

 大鷦鷯天皇の正式の皇后であった磐姫皇后の歌となっているが、それを消して、髪長媛皇后に直しました。
その髪長媛皇后に託して読まれたのが、八五~八八番歌の四首だと思われる。
 この歌の中に「高山」が出てくる。

 

【新解釈】
 大鷦鷯皇子に誘われ申し上げなさって、
わが君は高山に国見をなさりに行幸遊ばされ
ました。
 その行幸の日数があまりに長うなりました。
 わが君の御身に何かあったのか心配でなり
ません。
 高山を訪ねてお迎えに上がりましょうか。
 それともご無事を信じて、ここ比良の宮で
じっと我慢してわが君のお帰りをお待ちしま
しょうか。
 どうか、ご無事にお帰りくださいませ。
(万葉集八五)
 君が行き 日長くなりぬ 山たづね
迎へか行かむ 待ちにか待たむ
大鷦鷯の乱(豊国史)

 『万葉集』巻二の冒頭で出てくる。この歌は、気性の激しい磐姫皇后の歌とされていて、この歌から磐姫にも
優しい一面があるぞと今まで言われてきたが、これが、髪長媛皇后の歌であったとすると、歌の意味がガラッと
変わってくる。
 岩波古典体系とは、違う解釈となる。

 宇治天皇が、大鷦鷯皇子に誘われて、3度目の国見に行幸された高山は、行橋市入覚の(みゆき)ノ山であるが、
この土地にある椿市小学校の校歌にあるように景行天皇が土蜘蛛退治に来られたということで、幸ノ山と理解して
いるようだ。

 しかし、私はここに断言します。真実の仁徳天皇である宇治天皇の3度目の山だったから、幸ノ山である。
その幸ノ山の明治時代の名が、高山である。今でも山の下の所に高山という字名が、残されている。

 心優しい髪長媛皇后が、夫である宇治天皇の身を案じているという事が良くわかるような作りだったと思われる。

 

■ この歌の出てくる高山(たかやま)は、行橋市入覚の幸ノ山だった



地図「行橋市入覚周辺」

 椿市廃寺 
(四天王寺)

 五社八幡 
(難波高津宮)

 高山 

 琵琶隈 

 行橋市入覚の五社八幡神社が、大鷦鷯の難波高津宮である。その五社八幡神社の南側の一帯は、古代の海の
名残りである。
 この辺りは、香春三ノ岳から見えるので、カモメが飛んでいたのもわかる。そして、五社八幡神社の手間まで
海が入り込んでいるから、難波高津宮となる。

 宇治天皇は、五社八幡神社の向かいにある幸ノ山に登られた。ここの北側には、椿市廃寺、椿市小学校が
ある。その椿市小学校の校歌に景行天皇が土蜘蛛退治に来られたから幸(みゆき)ノ山との理解は間違っていないが、
私は、宇治天皇の3度目の国見の幸ノ山だと思っている。
 真実の仁徳天皇(宇治天皇)に関係する地名であると思っている。

 

【新解釈】
 このように薨去なさったわが君を恋い慕って
ばかりいない
で、いっその
事、わが君が
最後に行幸な
された高山
で行き、その
高山の岩根を
枕にしてわが
君の後を追っ
て死にましょ
うものを。
(万葉集八六)
 かくばかり 戀ひつつあらずは 高山
磐根し枕きて 死なましものを
写真「幸ノ山(高山)」

 五社八幡から見た幸ノ山 

大鷦鷯の乱(豊国史)

 二首目(八六番歌)が決定的である。ここの「高山」は、「かぐやま」ではなく、「たかやま」である。

 髪長媛皇后が、一旦は自決を覚悟される。

 

■ 中大兄の三山歌では「高山」を「かぐやま」と読ませているが、「たかやま」と読み替える

《高山(大鷦鷯天皇)は畝傍山(髪長媛)を
 愛しいと思い、耳梨山(菟道天皇)と争った。
 神代からこうであるらしい。昔もそのようで
 あるからこそ、現世の人の世でも(他人の)
 妻を争うらしい。》
(万葉集一三)
(高山は 畝火を愛しと 耳梨と 
 相争ひき 神代より 此くにあるらし 
 古も 然にあれこそ 虚蝉も 
 嬬を争ふらしき)
 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 
相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 
然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
 中大兄 近江宮御宇天皇 三山
大鷦鷯の乱(豊国史)

 『万葉集』では、有名な中大兄(天智天皇)の倭三山歌である。この歌では、「高山」と書いて「かぐやま」と
読ませる
 私、この「高山」を「かぐやま」と読んでいい気になっていたが、これは「かぐやま」ではなく「たかやま」と
読み替えたと考えると、上記の解釈が成り立つ。

 大鷦鷯天皇が、宇治天皇の奥方に横恋慕して、それで宇治天皇を殺し、その後に髪長媛を奪おうということを
詠った歌だとおどろおどろしくも解釈してしまった。
この後、日本書紀では、実際に髪長媛は、大鷦鷯天皇の又妃となっていて、二人の子供をもうける。

 大鷦鷯皇子は、父應神天皇に懇願して髪長媛を頂いたにも関わらず、正式の皇后が磐姫で、髪長媛が何故、又妃で
側室に近い扱いなのか?
 この事を言った学者は、誰一人いなかった。

 大鷦鷯皇子だったとしても、父應神天皇にあれほど頼んで頂いた髪長媛が、正式の皇后でなく側室なのか?
理由は、弟である宇治天皇から奪い取ったからである。

 

■ 後古波儾嬢女(こはだをとめ)は、宇治の地(木幡村)の嬢女、髪長媛皇后を指す

※ こはだをとめ = 髪長媛皇后  
 許の国・木幡村(風土記逸文)  
 宇治に同じ。現在の香春町古宮の地。
(仁徳紀)
(遠い国の古波儾嬢女が、逆らわずに一緒に
 寝てくれたことをすばらしいと思う。)
 道の後 古波儾嬢女 争はず
寝しくをしぞ 愛しみ思ふ
(遠い国の古波儾嬢女は恐ろしいほど美しいと
 噂が高かったが、今は私と枕をかわす仲に
 なった。)
 道の後 古波儾(こはだ)嬢女(をとめ)を 神の如 
聞えしかど 相枕枕く
大鷦鷯の乱(豊国史)

 『日本書紀』中の歌謡で、大鷦鷯が宇治天皇を殺した後に髪長媛と初めて枕を交わした時の歌である。
前述の『古事記』にあったように「太子大雀命」は、父應神天皇の宴席で直接、髪長媛を見たハズである。
 何故、この歌で「噂が高かった」と詠うのか? ということは、應神天皇の宴席の場で、大雀命は髪長媛を
見ていなかった事になる。

 歌が、歴史を証明した訳である。この事に気が付いた学者は、一人もいなかった。
 何故、美しいと噂が高かった相手を初めて枕を交わす時に見たんですか? 『古事記』にある應神天皇の
宴席の場面で、髪長媛をちゃんと見て、妻に下さいとお願いしているにも関わらずに。
 「今は私と枕をかわす仲になった」と大鷦鷯が、噂通りの美人と一緒になったと勝ち誇っている訳である。

 次にある歌謡もどう考えてもおかしい。
 「遠い国の古波儾嬢女が、逆らわずに一緒に寝てくれた」と歌われている。何故、結婚を許された相手が
逆らうのか? 元は、人妻だから逆らわずと歌っている。

 古波儾嬢女(こはだをとめ)の意味を解きました。
 香春町の  阿曽隅社 がある場所を『山城國風土記』逸文の中にかつては、「(こ)の国」といったとある。
また、應神天皇が宇治天皇の母親と知り合った場所が、木幡村である。これは、たぶん「こはだ村」だと
思われる。

 宇治天皇が京を置いた場所が、母親の宮だったと思われる。その場所に嫁いできたのが、髪長媛皇后だから、
木幡(こはだ)村の嬢女、古波儾嬢女(こはだをとめ)である。
 古波儾嬢女は、髪長媛を指す事も初めて解き明かした。

 だから、木幡村は宇治と同じであり、現在の香春町古宮の地である。そこの媛と一緒になったから大鷦鷯が、
古波儾嬢女と喜んで詠った。嫌な歌でしょ。大鷦鷯は、暴虐な人物であり、どこが仁徳なんですか?
 弟を殺し、奥方まで奪い取って、どこが仁徳ですか?

 

「霜乃置萬代日
【新解釈】
 いいえ、わが君のご無念を思えば、生き
続けてでも、寿命の尽きる時に黄泉の国から
私をお招きくださるであろうわが君をば
お待ちいたしましょう。
 今はなよなよと打ち靡く、私のこの黒髪が
白くなるまで、遠い先の日まで
わが君を恋い
慕い続けてお待ち申し上げます。
(万葉集八七)
 ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く 
わが黒髪に 霜の置くまでに
大鷦鷯の乱(豊国史)

 三首目(八七番歌)の歌である。
 髪長媛皇后が、一旦は、「高山の岩根を枕にして死にましょう」と決意したが、生き続けていこうと決意する。
何故かを考えた。

 このまま自分も自殺してしまえば、我々が今なお知る民の竈の宇治天皇の政治、民に対する優しき政治が
あの憎き大鷦鷯にすべてを奪われるのでないか。
 自分がせめて生き残って、それを後世に残そうとされたのかと私は善意に解釈をしている。

 そう解釈した時の原文に「霜乃置萬代日(霜の置くまでに)」は、このような万葉仮名を当てている。「萬代日」で
までに」と読む。
 だから「私のこの黒髪が白くなるまで、遠い先の日まで」と解釈した。

 まだ髪長媛は若いから、よぼよぼのお婆さんになる遠い先の日までだから「萬代日」と使われている。万葉仮名は
時々、そのような目で見ないと歌の真意を読み誤る。
 ここまで解りました。髪長媛は、宇治天皇の忘れ形見の悲劇の皇后である。

 

【新解釈】
 秋の田の刈穂を屋根に葺いて、わが君と雨漏
りのする宇治の宮で過ごした幸せな三年間が思
い出されてなりません。

 わが君の亡くなられた今年の秋の田の穂の上
にかかっている朝霞のように悲しみに沈んだ我
が胸中、朝霞はいつか、片方に晴れて行きまし
ょうが、狭霧のまん中に閉じられたような私の
恋心は、いつどこでやむことでしょうか。
 それはきっと、私の寿命の尽きる時、わが君
と彼岸で再会し申し上げるときのことでしょう。
 その日まで私は幾多の苦難をも耐え忍びまし
ょう。
(万葉集八八)
何時邊乃(いつへの)方二(かたに) 我戀将息(わがこひやまむ)
 (あきの)田之(たの) 穂上(ほのへ)尓霧相(にきろふ) 朝霞(あさかすみ)
大鷦鷯の乱(豊国史)

 四首目(八八番歌)、結びの歌である。

 『百人一首』天智天皇の歌「秋の田の かりほの庵の ・・・」と同じ「秋の田の刈穂」である。私は、それを
連想した。
 「・・・ その日まで私は幾多の苦難をも耐え忍びましょう。」という決意の歌であったと、四首の新解釈を施した。

 如何でしょうか? 悲劇の皇后、髪長媛である。歴史には、わずかしか出てこないが、実際は宇治天皇の皇后として、
これだけの実績があり、なおかつ悲劇に追いやられた皇后がいらっしゃられた。