「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 真実の仁徳天皇(香春版)

※ 真実の仁徳天皇(香春版)
 (平成二七年七月二五日(土)、香春町講演会 於:香春町コンベンションホール)より

大鷦鷯の乱(宇治天皇の同母妹、女鳥王も大鷦鷯の謀略で殺される)

■ 宇治天皇の墓は、御陵とも云われる伽羅松の地か?

 「鏡山村誌」によると、「里諺に伽羅松という。
村の西南道の上に
古松あり。
 その周囲一丈五
尺実に風雅な松な
りとある。
 古きより、寺の
跡(伽羅)ともい
御陵ともいう。
 境内に幸神あり」
と記されている。
(妹の所に今来た)今木(今来)の嶺に茂り立つ、
妻を待つという松の木は、故人も見たであろう。
 妹らがり 今木の嶺に 茂り立つ 
妻松の木は 古人見けむ
(万葉集一七九五)
 宇治若郎子の宮所の歌一首
白黒写真「伽羅松(香春町鏡山)」

 移動される前の伽羅松 

大鷦鷯の乱(豊国史)

 『万葉集』一七九五番歌が「宇治若郎子の宮所の歌一首」で、宇治天皇の最期が語られている。

 香春の地で宇治天皇のお墓をようやく見つけた。『鏡山村誌』の中に御陵と書かれたいる。誰の墓か解らないが
ちゃんと御陵とある。これが、宇治天皇の墓だから御陵と書かれていると思う。

 宇治天皇は、我が国で最初に散骨で葬られた天皇であったと記録が残されている。この  伽羅松の地 に宇治天皇の
遺骨の灰がまかれたらしい。

 現在は、移動されてしまったが、移動前の写真が入り口の所の壁に掛けられている。この写真の松が伽羅松である。
これも香春町の中に存在する。鏡山の近くである。
 この伽羅松が、宇治天皇のお墓らしい。今は失われてしまって車道になっている。

 

■ 古宮八幡宮の神幸祭は、宇治天皇を偲んでいると推測している

写真「古宮八幡宮 神幸祭」
写真「古宮八幡宮 神幸祭」

 古宮八幡宮 神幸祭 

大鷦鷯の乱(豊国史)

 

写真「古宮八幡宮 神幸祭」
写真「古宮八幡宮 神幸祭」
写真「古宮八幡宮 神幸祭」
大鷦鷯の乱
   (豊国史)

 採銅所の方々は、  古宮八幡宮 神幸祭の山車に飾られた花飾りを1本1本抜いて持ち帰り、輪の形にして自宅の
玄関先に飾る。

 誰を偲んで飾られるのか? 
 神幸祭は、宮原の阿曽隅社の下、手水ヶ池の所まで行く。そこは、宇治の宮があった所である。だから、宇治天皇を
親しんだ人民(おほみたから)の末裔である皆さんが、採銅所の古宮八幡宮のお祭りで今なお知らず知らず宇治天皇を
慕ってお飾りするのではないでしょうか? これは、推測である。

 何故、ハワイのレイ(花輪)のような物が飾られているのか全然解らなかった。よくよく考えると古宮八幡は、元は
 阿曽隅社 の場所にあった。宇治の宮の場所だった。

 京都府宇治市の県祭りの梵天と違って、こちら採銅所では、あくまでも宇治天皇の徳を慕って、そのご利益にあやか
ろうとしての風習だったのでないでしょうか? 推測ですが、もし当っていると思えば、採銅所の皆さん、どうか
これからは宇治天皇(真実の仁徳天皇)を思って、家々に飾ってみて下さい。

 

■ 宇治天皇が殺したとされる大山守皇子も大鷦鷯が、香春(=考羅)で殺した

 然して後に、大山守皇子、毎に先帝の廢てて
立てたまはざることを恨みて、重ねて是の怨み
有り。則ち謀して曰く、「我、太子を殺して、
遂に帝位に登らむ」といふ。
 爰に、大鷦鷯尊、預め其の謀を聞きて、密か
に太子に告げて、兵を備へて守らしむ。時に太
子、兵を設けて待つ。
 大山守皇子、其の兵を備へたることを知らず
して、獨り數百の兵士を領ゐて、夜半に、發ち
て行く。會明に、菟道に詣りて、將に河を度ら
むとす。
 時に太子、布袍を服たまひて、櫓を取りて、
密かに度子(わたしもり)(まじ)りて、以て
大山守皇子を載せて濟したまふ。河中に至りて、
度子に誂へて、船を蹈みて(くつがへ)す。
 是に、大山守皇子、河に墮ちて沒みぬ。然る
に伏兵多に起こりて、岸に著くことを得ず。遂
に沈みて死せり。
 其の屍を求めしむるに、考羅(かわら)の濟に泛べり。
乃ち那羅山に葬る。
大鷦鷯の乱(豊国史)

 大山守皇子が、菟道稚郎子に殺されたとありますが、実は、宇治天皇が殺された後に大山守皇子も大鷦鷯に
殺されるのであろう。今回は、深く追求しません。

 ただ、上術の記述、「其の屍を求めしむるに、考羅(かわら)の濟に泛べり。」とあるように、「考羅」と
書いて、「かわら」と読ませる。ここ香春のことでしょ。

 大山守皇子も大鷦鷯の手にかかって、香春の地で殺されていく。大鷦鷯は、酷い奴でしょ。

 

■ 王仁の「難波津の歌」が、大鷦鷯への諷歌(そえうた)と変わる

【新解釈 ② 大鷦鷯天皇の政治を風刺し
  申し上げた歌】
 大鷦鷯天皇の遠つ淡海にある難波高津の
宮には咲き誇っていますか、梅の花が。
 いや、決して咲きますまい。冬、木の芽
が盛り上がるように、かの宇治帝が三年間、
人民の課役を科せられずに、雨漏りのする
粗末な宇治の京の仮廬のような宮殿で過ご
され、その間に人民は富み、やがて炊煙が
盛んに立つようになった、あの聖帝の御世
を継承できますか。
 大鷦鷯天皇の御世となった今を春と讃え
て咲き誇っていますか、梅の花は。
 人民と共に富み栄えることがなければ、
梅の花は決して咲きますまい。
王仁
 難波津に 咲くや木の花 冬木成 
今は春べと 咲くや木の花
大鷦鷯の乱(豊国史)

 宇治天皇が殺され、大山守皇子が殺されて、天下は晴れて大鷦鷯の物になる。この時に宇治天皇の元にあった
王仁から教えて頂いた諸典籍が全て難波高津宮(行橋市入覚の  五社八幡神社 )へ運ばれていく。

 その時に王仁の「難波津の歌」が諷歌(そえうた)、批判の歌に変わる。

 「難波津の歌」には、二つの解釈が古今和歌集の仮名序にあると言った2つ目の解釈である。同じ文句の歌で、
二通りの解釈が可能である。これが、この歌の妙技である。

 百人一首大会の最初に詠われる歌には、大きく二つの意味があり、大鷦鷯への批判もあった。豊国の歴史と
いうのは、深いでしょ。片や香春の地、片やとなりの行橋の地である。

 

■ 女鳥王が、本当に「 (さざき) 取らさねと詠んだ歌か?

 天皇此の歌を聞きたまひ、卽ち軍を興し、
殺さむと欲ほす。
 雲雀は 天に翔ける   
 高行くや 速総別   
 (さざき) 取らさね
 天皇、其の弟速總別王を以ち(なかひと)と爲て、
庶妹(ままいも) 女鳥王(めどりのみこ)を乞ひたまひき。
 爾して女鳥王、速總別王に語りて曰はく、
「大后の(こは)きに因り、八田若郎女を治め賜
はず。故、仕へ奉らじと思ふ。吾は汝命の
妻に爲らむ」といふ。卽ち相婚きつ。是を
以ち速總別王(かへり)ごと(まを)さず。
 此の時、其の夫速總別王到來(きた)れり。時に、
其の妻女鳥王歌ひ曰はく
〔速総別王と女鳥王〕
大鷦鷯の乱(豊国史)

 通常は、「女鳥王の乱」と云われているが、逆である。大鷦鷯が、一番政権の脅威となる宇治天皇の同母妹
(父母が同じである妹)の姉の八田若郎女は、一人きりで生きていくという事で領地を与えられたか何かで
一人で生きていく。

 しかし、妹の女鳥王は、速總別王という別の弟の所に嫁いでいく。すると宇治天皇の同母妹と別の皇子が
一緒になると大鷦鷯のとんでもないライバルとなる。
 正統が、宇治天皇の同母妹の方に行く恐れがあるという話が続く。大鷦鷯に女鳥王が自分の側室になれと
迫られる。その仲立ちにやって来た速總別王に女鳥王が「私はあなたと一緒になります。」と云って、大鷦鷯の
所には行かず、速總別王の所に行ってしまう。

 それで、女鳥王が、雲雀は 天に翔ける 高行くや 速総別 雀(さざき)取らさねと歌を詠んだとある。
(さざき)取らさね」と凄い歌でしょ。(さざき)は、「すずめ」ではなく、大鷦鷯の事である。大鷦鷯を
お打ちなさいと反乱の狼煙である。私の兄(宇治天皇)の仇を取ってよという歌になる。

 作られたり何にせよ女鳥王は、大鷦鷯にとってそれだけ脅威だった。あの人民に慕われた宇治天皇の同母妹で
血統が良い。人民が女鳥王側に就いたら、宇治天皇を殺す反乱を起こした自分の立場が悪いので、女鳥王に何とか
罪を被せて消したい。その為にこの歌は、誰かに作らせたかも知れない。それくらいにこの歌は、危険な歌である。

 こんな危険な歌を本当に女鳥王が詠んだと思いますか? 「(さざき)取らさね」と速總別王に向かって、
あなたは空高く飛ぶハヤブサでしょ。ツズメくらい殺しなさいよ。大鷦鷯殺しなさいよと、トンでもない歌である。
 だから、「天皇此の歌を聞きたまひ、卽ち軍を興し、殺さむと欲ほす。」とあるように女鳥王と速總別王を殺す
という口実になっている訳である。

 ここまで、『古事記』、『日本書紀』は作られている。本当に女鳥王が、詠んだと思いますか? 兄の宇治天皇が
殺されたとしても自分が危ない事は、判っている。出来れば、ひっそりと兄の菩提を弔いながら生きたいでしょ。
 だから、これもたぶん、大鷦鷯の謀略だと思う。

 

■ 女鳥王と速總別王の逃避行の障害となった倉椅山は、鞍手町の飯盛山である

 故、其地より逃げ亡せ、宇陀の蘇邇(そに)
到りし時に、()(いくさ) 追ひ到りて、殺す。
 梯立ての 倉椅山は   
 (さが)しけど 妹と登れば   
 (さが)しくもあらず
 又歌ひ曰はく、
 梯立ての 倉椅山を   
 (さが)しみと 岩かきかねて   
 我が手取らすも
 爾して速總別王・女鳥王、共に逃げ退()
きて、倉椅山(くらはしやま)に騰る。
 是に速總別王歌ひ曰はく、
大鷦鷯の乱(豊国史)

 大鷦鷯の軍隊に追われれば逃げるしかない。女鳥王と速總別王、二人の悲しき逃避行の歌がある。問題は梯立てと
とあるように梯子を立てたような急な倉椅山が、嶮さがしみと 岩かきかねて 我が手取らすも(私の手を取って
下さることよ)」
、また、「(愛する)妹と登れば 嶮さがしくもあらずとあるように二人の仲の良さが伺えるが、
命を懸けた逃避行の障害となったのが、梯立ての倉椅山である。

 「其地より逃げ亡せ、宇陀の蘇邇(そに)に到りし時に、御軍(みいくさ)追ひ到りて、殺す。」とあるように、敢え
無く女鳥王、速總別王二人とも殺される。
 もう皆さん、大鷦鷯を嫌いになったでしょう。私も嫌いになった。同じ天皇でも大鷦鷯は、嫌な奴でしょ。

 倉椅山は、何処でしょうか? 私と同じ鞍手の出身だと解るでしょ。ヒントは、「鞍橋君」、「鞍手」の語源です。
倉椅」であるから鞍手町にある  飯盛山 である。

 

■ 女鳥王と速總別王の逃避行のルートは、奈良県(大和)では成り立たない

③ 伊勢の蔣代野(=飯塚市の蔣田)で殺される。
(書紀)
② 倉椅山(=鞍手町の飯盛山)を越える。
(古事記) 鞍橋
① 伊勢神宮(=磯光の天照宮)に向かって馳せる。
(書紀)
地図「福智山・鞍手町・飯塚市周辺」
写真「飯盛山」

 飯盛山 

大鷦鷯の乱(豊国史)

 たぶん、速總別王と女鳥王の二人は、香春の土地から逃げた。宇治の地から伊勢神宮(宮若市磯光の  天照宮 )に
向かったのだろう。

 鞍手町の飯盛山は、鞍橋君が祭られている山である。鞍橋君の「くらじ」は、「鞍橋」と書くので、普通に読めば
くらはし」でしょ。飯盛山が、②の倉椅山である。急な山である。

 この倉椅山を越えて、伊勢神宮(天照宮)に着いた後に逃げたが、伊勢の蔣代野で殺された。地名辞典を引くと
 飯塚市に菰田 という場所がある。

 だから、二人は、行橋市入覚の大鷦鷯の軍に追われ、香春に住んでいたのが、たぶん、福智山を越えて、遠賀湾を
渡り、飯盛山を越え、磯光の天照宮に着く。
 そこから南へ逃れるが、飯塚市の蔣田の所で追いつかれた殺された。

 逃亡ルートは、こちら築豊の土地でないと成り立たない。奈良県(大和)では、何処にも該当する所が無い。
奈良盆地には、飯盛山のような険しい山は、何処にもない。無理である。こちら筑豊だと綺麗に逃亡ルートを確認
できる。
 その一つの証拠がこの写真にある飯盛山であり、その頂上には、鞍橋君が祀られている。