「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 真実の仁徳天皇(香春版)
(平成二七年七月二五日(土)、香春町講演会 於:香春町コンベンションホール)より
本物の仁徳天皇は、大鷦鷯尊ではなく、宇治天皇である
■ 『古事記』の仁徳天皇が国見した高山の読みは、「かぐやま」
仁徳天皇という諡(おくりな)は、『古事記』のこの記事に由来する。ここの原文のある「高山」を江戸時代以来
ずーっと「高き山」と訓読してきたが、私は、これを「かぐやま」と訓読した。
『万葉集』の13番歌、14番歌に「高山」と書いて、「かぐやま」と読ませている。『万葉集』がこのように
読むのであれば、『古事記』も「かぐやま」と読ませていると思った瞬間に、香山に登って国見をした仁徳天皇の
由来だと解った。
天香山(香春三ノ岳)に登り四方国をご覧になったら、食事時に民の竈から煙が上がらなかった。だから、人々が
困窮している。そこで、人々の暮らしが回復するまで、3年間税を取るなとおっしゃった。
税を取らないから宮殿は修理が出来ないから雨が降ると雨漏れがする。すると箱を置いて、自分たちは雨漏れを
していない所を転々とする。江戸時代の貧乏長屋の生活のような話である。これを3年間続けた。
3年の後に国の中を見れば、煙が満てり。人々がちゃんと食事が取れるようになった。この『古事記』にある
「聖帝の世」と云われるのが、「民のかまど」の故事で有名な仁徳天皇のまさしく仁徳話である。
この話は、ここ香春の土地の事である。菟道稚郎子(即位して宇治天皇)は、香春三ノ岳に2度登られて国見を
なさっている。
■ 『百人一首』天智天皇の歌は、『古事記』仁徳天皇の話がモチーフ
『古事記』の原文「高山」を『万葉集』に習って、「かぐやま」と読ませるとこの『百人一首』につながる。
天智天皇が、百姓の真似をして粗末な田んぼの脇の小屋で夜露に濡れるという解釈であるが、上記の
『古事記』の内容を見れば解る。
夜露に濡れるのでは無く、雨露に濡れるのである。『古事記』にある仁徳天皇の話が下敷きにあれば、この話を
モチーフにして詠まれた倭歌である。
天智天皇も宇治天皇に習ってこのような我慢の生活をしてでも民の暮らしが豊かならんことを願う。仁徳天皇は、
天皇家の昔からの民を思いやるモデルであった。
だから、今上陛下の名前は、明仁陛下である。仁徳天皇の「仁」の字が付く。皇太子が徳仁殿下。秋篠宮家の
長男が悠仁親王。みんな仁徳天皇の「仁」を付けている。
民を思いやるという気持ちの表れである。今、今上陛下がその通りである。災害がある度に直ぐにあちこちに
出かけられて、避難所で生活されている人々の前で陛下が腰を下げられて、優しく声を掛けられる。
仁徳天皇がモデルである。
王道の御述懐の歌は、角川ソフィア文庫の応永抄から持ってきた。農民の辛苦を思いやられた聖帝の歌とつながら
ないといけない。
私の見解は、あるいは宇治天皇の御製歌だったかも知れない。天智天皇は借りられたのかも知れないが、今と
なっては、決めようがない。
■ 『百人一首』持統天皇の歌は、髪長媛皇后の歌と断言
この倭歌は、持統天皇になっているが、髪長媛皇后の歌だと断言する。
香具山(香春三ノ岳)は、石灰岩の山であるから、周りに緑が茂っているのとは対照的に真っ白に輝いている。
香具山だけが、あたかも造化の神が「純白のつやのある白妙の衣を乾してある」かのように眼に鮮やかに映る
ことよ。
その香具山に宇治天皇が、民の暮らしが豊かになったか確かめる国見の為に登っていく姿が、小さいながらも
見える。どうか、民の竈が賑わっていますように。
名歌でしょ。みなさんが以前に高校で教わった時とは、雲泥の差でしょ。月とすっぽんでしょ。これが、この歌の
真意であった。
心優しい髪長媛皇后が、夫である宇治天皇と三年間雨漏れする宮殿で一緒に過ごされて、その気持ちを知った上で、
二度目の国見をする。どうか、民の竈が賑わっていますように。
良い歌じゃないですか。春が過ぎて夏が来たらしい。周りが緑の中で香具山だけは夏の強い日差しを受けて、
真っ白に輝いているという叙景歌だけでは無く、髪長媛皇后の気持ちが込められた叙情歌でもある。
私は、これだけは自慢できる。二一世紀に初めて、解き明かした。千数百年ぶりに歌が蘇った。
■ 『万葉集』2番歌は、宇治天皇が国見に登られて詠われた歌
宇治天皇が、国見の為に登られて詠われた歌が、万葉集2番歌である。万葉集の原文「うまし國そ 蜻蛉嶋
倭の國は」とあり、「豊」の字が落ちている。
たぶん、原文は、「うまし國そ [豊]蜻蛉嶋 倭の國は」であったであろう。
[豊]の字が落ちていること補った時に、万葉集15番歌が蘇った。鎌倉時代の初期に藤原定家によって纏められた
歌論書の中に万葉集2番歌は、長歌でありそれに反歌があったちゃんと書いている。
ところが、現存する万葉集には、2番歌の反歌(五七五七七の歌)が載っていない。よく探してみると反歌が
15番にあった。作者は、万葉集に載っていないので、私が「宇治天皇」と付け加えた。
奈良県では、昔も今も海が見えない。奈良県の天香具山は、標高が152mしかない。西に生駒山地、東には
鈴鹿山脈があり絶対に海を見ることは不可能である。
だから、戦前は天皇陛下は現人神であるから、心眼で海をご覧になりたもうた等とまじめに上代文学の世界では
やっていた。ここ香春三ノ岳が天の香山であれば、海が見える。
九州大学の助教授であった山崎光夫氏が、昭和38年に遠賀の土地のボーリング調査をされて、古代には海が
入り込んでいた事を報告されている。
だから、香春岳の眼下に海がある。視力2.0くらいあれば、本当にカモメが飛んでいるのが見えたであろう。
しかし今は、もう無理である。さらに奈良県では絶対に無理なことが、千数百年前の香春三ノ岳であったら、
可能だった。
だから、この万葉集2番歌は、教科書会社は古典の教科書に絶対に載せたくない訳である。奈良県の天香具山に
登って、どうやって海を見るのか説明が出来ないから載せない。教科書会社の暗黙の了解の歌である。
奈良県の天香具山からは、金も銅も採れない。香春三ノ岳は、金も銅も採れる。さらに一ノ岳からは、磁鉄鉱も
出る。『古事記』『日本書紀』に書かれている通りである。
二~三世紀の倭国地図
■ 本物の仁徳天皇である宇治天皇は、孟子を習っていた
『日本書紀』仁徳紀の三年の記事である。三年間、雨漏りを我慢されて、再び香山に登った。この記事にある
皇后は、髪長比賣である。
国見した後の宇治天皇と髪長比賣皇后のやり取りが良い話である。
ここにある宇治天皇が曰う「天の君を立つるは、是れ百姓の爲になり。然れば君は百姓を以て本とす。・・・」は、
中国の孟子の書物のある古代の民主主義である。
民本主義で、民が大事という事である。農民が一番重要であるという儒学の元となっている。
太子菟道稚郎子は、百済から来た王仁から諸典籍を習っている。これは、西暦400年初め頃の話である。本物の
仁徳天皇である宇治天皇(菟道稚郎子)は、孟子を習っていたらしい。
孟子という書物には、革命思想が書いてあり、日本の天皇家の実態である万世一系に合わないから江戸時代の
学者たちが無理やり話を捏造する。
遣唐使の時代に孟子という書物を積むと船が転覆するから、孟子は日本に届かなかったというこのようなデマボーグが
生まれた。
だが、宇治天皇は、確実に5世紀に孟子を読んでいらしたらしい。これは、明らかである。
日本書紀のここにある「君は百姓を以て本とす」という文句が凄い。だから、これは作り上げた物ではない。
本当に孟子を習っていた。
「古の聖王は、一人も飢ゑ寒ゆるときには、顧みて身を責む。・・・」と曰うと徹底した民本主義である。だから、
人民が聖帝の世と称えた。このような天皇が、古代にいたという事である。
私は、この宇治天皇が真実の仁徳天皇である言っている。皆さんは歴史に詳しい人ほど日本書紀を通して大鷦鷯尊が
仁徳天皇だと教わってきたが違う。
大鷦鷯尊ではなく、宇治天皇と呼ばれた方が、仁徳天皇である。認識を改めて下さい。
■ 宇治天皇の新宮殿が完成した後に詠まれた歌が、万葉集七番歌
夏四月に2度目の国見をしたが、まだ課役を科さなかった。臣下に何度も何度も云われて、冬十月に初めて労役を
科せられて、宮室を構造ると書かれている。
そうした時に、3年間税を取らなかったので、人民がその恩返しに日夜突貫工事で、宇治天皇の為に宮殿を造った。
鶴の恩返しではなく、人民の恩返しである。たった二ヶ月で立派な宮殿を造ったと日本書紀に書かれている。
ここに書かれている日本書紀の内容は嘘や出鱈目ですか? そんなことはないですよね。仁徳天皇の仁徳たる由縁で
である。
良い言葉が書かれている。「老を扶け幼を携へて・・・」とあり、良い話である。泣けてくる。
新宮殿が完成した後に詠われたのが、万葉集七番歌らしい。この歌の中に「宇治の京」とある。全古典中、万葉集の
七番歌の1ヶ所だけである。
「宇治天皇」も播磨國風土記に1ヶ所だけしか残されていない。他の歴史書から全て抹殺されたにも関わらず残って
いた。
万葉集7番歌の意味がようやく解った。
人民が恩返しで立派な宮殿を造ってくれた。その立派な宮殿を見るにつけて、3年間雨漏れする宮殿で耐えたかいが
あった。これも良い歌でしょう。
宇治天皇は、どこまでも心優しい方である。どこまでも人民に感謝している心が、歌に表れている。
■ 菟道稚郎子のかつての師匠、王仁の「難波津の歌」
翌年の春に菟道稚郎子の学問の師匠であった王仁が詠んだ歌が、「難波津に 咲くや木の花 冬木成 今は春べと
咲くや木の花」と今でも百人一首のかるた大会の初めに必ず読まれる歌である。
定説の世界では、最古の勅撰和歌集と云われる『古今和歌集』のた仮名序、真名序に出てくる。一方で帝の御初めを
祝った歌と解説されたら、次には大鷦鷯への諷歌(そえうた)(=批判の歌)との2通りの解釈が『古今和歌集』の
仮名序でされている。
この2通りの解釈が、千年来の謎であった。この謎を私が解き明かした。
まず、新宮殿が完成した時に真実の仁徳天皇である宇治天皇だから、人民も一緒に呼び集めて新春のお祝いを行った
らしい。その解釈が、上記の「新解釈①朝廷の御初めを祝った歌」である。
この歌の左注に干支が書かれているので、西暦を推測した。409年旧暦正月の歌ではないかと覆われる。宇治天皇の
3年目の春である。
日本書紀のある位を譲り合った3年間は、空位ではない。宇治天皇が、在位の間に我慢に我慢を重ねて人民の生活を
思いやった3年間が、位を譲りあった3年間にピッタリ入る。
3年後に人民とともに年の初めを祝った。それをかつての師匠である王仁が詠んだ歌が、この「難波津の歌」では
なかったのか。
上記の地図にあるように遠賀湾が入り込んでいる難波津に宇治天皇の新宮殿が建てられた。だから、「難波津に
咲くや木の花・・・」と詠われた。「木の花」は、当然、梅の花を挿す。
「難波津の歌」は、まずは、宇治天皇と人民に贈られた歌である。