「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 倭(大和)王朝は筑豊にあった

※ 倭(大和)王朝は筑豊にあった
 (平成二九年一一月八日(水)、日本漆喰協会平成29年度総会、於:ホテル メルパルク熊本)より

■ 斉明二年 = 天智二年(西暦六五六)の天智天皇の業績

天智天皇
 (斉明)二年(六五六)、(中略)
飛鳥の岡本に、更に宮地を定む。(中略)
號して後岡本宮と曰ふ。
 田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。
復、嶺の上の両つの槻の樹の邊に、観を起つ。
號けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。
 時に興事を好む。
① 水工をして渠穿らしむ香山の西より、
石上山に至る。二百隻を以て、石上山の石を
載みて
、流の順に控め引く。
(菟道)宮の東の山に石を累ねて垣とす。
時の人の謗りて曰はく、
①狂心の渠功夫を損し費すこと、三萬餘
 ②垣造る功夫を費し損すこと、七萬餘
 宮材爛れ、山椒埋もれたり」といふ。
 (中略)
③ 吉野宮を作る
※ すべて天智天皇の業績

 日本書紀の斉明天皇二年に書かれている記事は、斉明天皇の業績では無く天智天皇二年(六五六)の業績である。天智天皇は、土木工事を好まれた。この記事にまた、香山が出てくる。
 この地に地下水路を造ったらしい。また、菟道宮の東の山に垣を造る。

 日本書紀では、この地下水路の事を「狂心の渠」と言って貶めている。

 3つ目に吉野宮を造るとある。これらは、すべて天智天皇の業績のようである。

 

通説の狂心の渠
「写真」

 通説の奈良県にある「狂心の渠」は、ただの亀石である。功夫を三萬餘が、必要なものとは思えない。

 

宮原盆地 謎の地下水路について
桃坂 豊
 香春町の北部、採銅所井堀付近から瀬戸、
通称六十尺鉄橋といわれる日田彦山線の第二
金辺川橋梁近くまで約四キロに及ぶ石作りの
地下水路
が存在している事を知っている人は
地元においても少ない。
 この地下水路に関しては
① この水路は通称〝吹き出し〟と呼ばれて
 いる。
数本の水路があるらしいが、代表的な
 ものは宮原の小松氏宅にあり、水量温度
 共に季節には関係なく不変である。
③ 江戸時代に作られたらしいが、はっきり
 した築造年代は不明
である。
何の目的で作られたのか全く不明
誰が作ったのか不明
始点、終点共に不明

 香春岳の東側に通称「吹き出し」と呼ばれている全長約4kmに及ぶ  謎の石造りの地下水路 が存在する。

 

宮原の給水設備建設時の「吹き出し」
「宮原盆地の謎の地下水路」
「宮原盆地の謎の地下水路」
「宮原盆地の謎の地下水路」

 香春町宮原に渇水時に備えて給水タンクが設けられている。給水設備建設時の写真である。その工事を行って、この地下水路から水を汲み上げて、タンクに蓄えている。
 この地下水路が私のいう天智天皇の造られた「狂心の渠(=地下水路)」であるならば、西暦六五六年に出来た地下水路から汲み上げた水から香春町の人々が水を供給されていることになる。驚くべき事実である。

 日本全国、何処を捜しても見つかっていない「狂心の渠」であれば、天智天皇・斉明天皇も福岡県に居た事になりますね。

 

呉中平雪穴
桃坂氏の調査結果
「地下水路推定図」
「呉中平雪穴」

② 菟道宮の東の山(大坂山)の石垣
 三ツ塚古墳の石か?

 地下水路の水底図の水色の部分が現在解っている所で、全長約4kmである。この地下水路は、サイホン式である。

 右側の写真が、宮の東の山に造られた「垣」である。大阪山の中腹にある  呉中平雪穴 という石垣で、大きさは、9m×7m、深さが5mである。冬の間に雪を貯めて、夏になり溶け出した水を下の土地の田んぼに供給するという働きをしたようである。

 

天智天皇
 吉野宮(大分県下毛郡山国町吉野若宮神社
の発見
(應神天皇)十九年の冬十月の戊戌の朔に、
吉野宮に幸す。
 時に國樔人來朝せり。
 其の(くに)は、京より東南、山を隔てて、
野河
(ほとり)に居り。
 峯(さが)しく谷深くして、道路狹く(さが)し。
 故に、京に遠からずと雖も、本より朝來
すること(まれ)なり。
 然れども此より後、 (しばしば)參赴(まうき)て、以て
土毛を獻る。
※ 齊明(天智)二年(六五六年)是歳
「又、吉野宮を作る」

 吉野宮も造られている。この場所は、英彦山の南側に見つけた。

 

吉野宮(若宮神社)
「道の駅やまくに」の案内板(山国町吉野)

 

吉野宮(若宮神社)

境内の巨岩

「写真」

二の鳥居

「写真」

石垣(左)の前の巨岩

「写真」

石垣(左)

「写真」

 山国町吉野にある若宮神社である。石造りの変な宮殿である。山国川から拝殿までずーっと石段が続いている。石垣もある。
 ここが吉野宮であれば、奈良県にある吉野宮跡、あれも偽物である。

 

吉野宮(若宮神社 拝殿)
「和同開珎」
斉明(天智)二年
  (六五六)

銅銭の銅は、倭国東朝
(豊国)の香春三ノ岳
天香山)の銅。
 
鋳銭寺がないか?
「写真」
「写真」

吉野宮模型(吉野歴史資料館蔵)

 和同開珎も香春三ノ岳の銅で作られている。奈良県でありません。

 

天智天皇
 秋の田の かりほの庵の とまをあらみ
 わがころもでは 露にぬれつゝ
              天智天皇
【新解釈】
 秋の田の稲穂を刈り、その藁を苫に編み、仮
廬のようなわが宮殿の屋根を葺くが、苫の目が
粗いので時々、わが袖は漏れ来る雨露に濡れる
ことだ
。それでも、朕は民の暮らしが豊かなら
んことを願う。
【新考】
 仁徳(宇治)天皇
宮垣崩るれども造らず、茅茨壊るれども
 葺かず。風雨隙に入りて、(おほみそ)   (おほみふすま)
 沾うるほす。星辰(やれま)より漏りて、(みゆか)(みましき)
 を露にす。

を下敷きにして、「天皇自らの衣手(袖)が雨
露に濡れている」ことを詠っているようだ。

 『百人一首』の一番歌、天智天皇の歌である。天智天皇も仁徳天皇を慕って、人民思いの王道政治をやりたかったという証である。この百人一首の一番歌にはこれだけの意味があった。